第11話 変化と平穏
「妃殿下、温室の花を好きに摘んでいいとコッド爺さんが。せっかくなので一緒に温室に行きませんか? アンナさんもご一緒しましょう」
入室してきたバードナーが、机の前で書類に目を通すソフィーナに、にこにこと笑いながら話しかけてくる。
(ハイドランドでは、護衛騎士が主君に花摘みに行こうとは絶対に誘わないわね……。でも、息抜きにいいか)
祖国では無礼と咎められる行為を、受け入れるようになった自分に苦笑しながら頷くと、ソフィーナは手にしていたペンを置いた。
茶色い目と髪の、優しい風貌のバードナーは、機知と世間知に富んだ話し上手でもあって、その人好きのする性格と合わせて、周囲の人々から警戒感を抜いてしまう。フェルドリックからカザックで指折りの豪商の末っ子だと聞いて、納得したものだった。
「温室なら、バラももう咲いているかもしれませんね」
そうアンナがソフィーナに笑いかけてくる。
その顔にバードナーやジーラットに対して当初見られた、戸惑いや憤りがなくて、ソフィーナはさらに目元を綻ばせる。
「妃殿下っ、匿ってください、追われてます…っ」
護衛兼エスコートのヘンリックが扉を開けた瞬間、今度はジーラットが駆け込んできた。
「今日は一体何をしたの?」
この前は貴族の子供たちに誘われるまま石けりをして、ガラス窓を割った、その前は木に登って枝を折った、さらに前は下働きの老女に暴力を振るっていた近衛騎士の腕の関節を外した……要領のいいバードナーと違って、ジーラットはいつも騒ぎの中心にいる。
そのせいか、彼が関わる場合、ソフィーナはあれこれ考えるより早く言葉が口をついて出るようになってしまった。
考えてから言葉を発するよう徹底して訓練されてきたソフィーナからすると、考えられないことだったが、不思議と嫌な気分はしていない。
「事情によっては庇ってあげるわ」
そう苦笑してみれば、ジーラットは眉根を寄せ、首を傾げた。
「……あれ? そう言えば、ばれるようなことは特にないはず……」
(「怒られることは何もない」でないのが、ジーラットの正直なところね)
ソフィーナはくすりと笑う。
ジーラットは思っていることも感じていることも、そっくりそのまま顔に出る。ソフィーナは彼のそういうところに、いつもほっとさせられる。
「フ……、マット! 待てと言うとろーが! こ、これ、これをソフィーナさまに……」
そのジーラットを追って息を切らして走ってきたのは、王宮の料理長だった。
カザレナに来てすぐ、フォースンに連れられてきた彼に、一度目通りを許した覚えがある。
「こ、これはソフィーナ妃殿下。た、大変な失礼を……」
開いた扉の中にソフィーナの姿を見つけた料理長は、慌てて帽子を脱いで、ソフィーナへと畏まった。
その様子に『ああ、普通はこうだったわ』と懐かしい感覚を覚えて、ソフィーナは小さく笑う。
その拍子に、料理長が手にしているものが目に入った。
ガラスケースに入った、砂糖漬けのライラックの花で彩られたケーキ――ハイドランドのシャルギだ。
頭を下げたまま、耳まで真っ赤にしている老齢の料理長に、「ああ、そうか」とジーラットは優しく微笑んだ。
「3日前のご昼食をお褒めくださったでしょう? それを料理長にお伝えしたら、あれは北方料理だと。それで、妃殿下は故郷を懐かしんでおられるのかも、と仰っていたんですよ」
(それでハイドランドの伝統菓子をわざわざ……)
「……ありがとう、サジェス。今だけではないわ。毎日あなたの料理を楽しみにしています」
ばっと顔を上げた料理長は目を見張ると、唇を引き結び、またソフィーナへと深く頭を下げた。
「よかった。前、おやつに出た銀のナイフ、試しに投げて無くしちゃったのが、ついにばれたのかと思った」
別の意味で顔を赤くした料理長に、ジーラットが引っ張っていかれるのを見て、ソフィーナはまた笑いを零した。
ジーラットの人並外れて整った顔に、情けなさが目いっぱいに浮かんでいるのだ。
横を見れば、バードナーとアンナも一緒に笑っている。
ソフィーナがカザック王国に来てから、4か月が経った。
最初の予感どおり、ソフィーナはこの国を好きになってきている。護衛の2人に連れられて街に降りてから、特に、だ。
孤児院への視察ついでに街に出たあの日、ジーラットに渡されたお小遣いを手に挑んだ、ソフィーナの生まれて初めての買い物はアイスクリームだった。
「おや、あんた、この国の子じゃないな、しかもいいとこの子と見た」
言葉に詰まったソフィーナに、ケラケラと笑ってみせたアイスクリーム屋の主人。
「へえ、じゃあ記念におまけしてやるよ。いいとこだろう、ここは。しかも住みやすいんだ。あんたも気に入るといいけどねえ」
そう言って、食べ切れないのではないかというほどのアイスを加えてくれた夫人。
「へえ、ハイドランドご出身なんですか? フェルドリック殿下のお妃さまと同じですね。私どもはあちらと取引がありまして、随分と文句を言われておりますよ。うちの優しい王女殿下を盗ったって」
そう教えてくれたのは、自分の好みで服を買ってみたらどうか、というバードナーの提案で入った衣料品店の女主人。
「お姉ちゃん、遊んでくれるの? じゃあ、一緒におままごとしよう」
「ばか、あっちで、騎士ごっこするんだよ。本物の騎士がいるんだぞ! 姉ちゃん綺麗だから、お姫さまの役な」
「お母さんもお父さんも死んじゃったけど、でも大丈夫。優しい人いっぱいだし、アーミラ先生も院長先生も、肉屋のおじちゃんも、果物屋のアリスも、ここのみんなもみんな好き。あ、お姉ちゃんたちも!」
ソフィーナの正体を知らない孤児院の幼い子たちはソフィーナに付きまとい、無防備に笑いかけてきた。
「孤児院の手伝いがしたいです。だからもっと算術、勉強しなきゃ」
「騎士! だって、かっこいいじゃん。俺らが街でいじめられた時とか、いつも助けてくれるんだ。多分難しいと思うけど……受けてみるんだ、試験」
「姉ちゃん、カザックの人じゃないの? その絵、僕らの王さまと王子さまだよ。そっちが建国王さま」
「院長先生も僕らと同じで、お父さんもお母さんもいなくて、でも建国王さまの前の時だったから、仲間はみんな死んじゃったって。だから今僕らが、生きていられるのは、王さまたちのおかげなんだって。だから御恩返しがしたい!」
孤児院の少し大きい子らは、自分たちの置かれた状況を理解している。それでも希望を失わない。
ソフィーナが出会ったカザックの多くの人は、善良で、他者への思いやりに満ちていた。
結婚式の行われた日、嘆きと共にバルコニーに出たソフィーナを温かく迎えてくれた人々の印象そのままだった。
食べていくのに困窮していないということもあるだろう。けれど、一番の理由は、皆が未来に希望を持っているからだ。
ここはソフィーナが、母が、兄が愛するハイドランドではない。それでも、あの人たちに自分もできることをしたい。
そう思えるようになったら、ソフィーナ自身の希望にもなった。
そして、あの人たちを支えている1人がフェルドリックだと思ったら、彼を厭う気持ちも減った。最初の印象通り、為政者としての彼は優秀で真面目で優しくて、その点については心から尊敬できるし、学ぶことも本当に多い。
相変わらず慣れないことも多いけれど、王宮の方でも少し馴染んできたように思う。
口に出したことはないけれど、カザック王国騎士団から派遣されてきた護衛の2人――バードナーとジーラットに因るところが大きい。
最初に出会った時から感じていたように、彼らはひどく人好きのする人たちで、何とか威厳と距離を保とうとするソフィーナの努力も戸惑いも無視して、孤独だったソフィーナたちの日常にすっと入り込んできた。
思ったこと、感じたことを、彼らはそのまま顔に、言葉に出す。けれど、それはいつだって優しい思いやりに満ちていて、駆け引きもない。
ハイドランドではありえないはずの距離、率直に言ってしまえば、非礼にあたる行為の数々に困惑することもあったけれど、自分が礼を言うたび、笑うたびに、彼らの顔が喜びで綻ぶ。
それで、結局ソフィーナは、それがカザックの騎士たちなのだと自分を納得させることにした。
彼らは身分の別なく、王宮で働く誰とも親しくて、彼らと一緒にいるソフィーナまで、周囲との距離が縮まった。
彼らが来るまで余所者でしかなかったソフィーナに対する周囲の人々の壁が、驚くぐらいの早さで低くなっていく。
そのせいなのだろう、アンナの顔からも硬さが消えて、よく笑うようになった。こちらの国で友達もできたのだと言う。家族も故郷もすべて捨てて、自分についてきてくれた彼女から次第に力と影が抜けていく様を、ソフィーナは本当にありがたく見ていた。
今もそうだ。
ジーラットを除いた三人でやってきた温室で、アンナが鋏を手に部屋に飾る花を楽しそうに選んでいる。バードナーはと言うと、美しい、大輪の赤バラを熱心に見つめていた。
広大なガラス温室は、すべての窓と戸が開け放たれていてなお、花の香りが立ち込めている。
それに促されるように、ソフィーナは細かく枝分かれした茎のそれぞれに小さな白い花がたくさんついた1本を手折った。
「お疲れ。サジェス料理長のお説教は終わった?」
「……一旦保留。護衛の仕事があると言って、逃げてきた」
「残念。戻ったらお茶にしようって妃殿下が仰ってるけど、マットは参加できなそうだね」
「うぅ、妃殿下の故郷のケーキ……」
げんなりとした顔で温室にやってきたジーラットと話して笑ったバードナーは、再びバラに視線を戻して、目を眇めた。
「ところで友よ、フェルドリック殿下にバラはどうだろう、棘付きの」
「それ、本気で言っているだろう、ヘンリック」
「やっぱり駄目かな」
「流石にな。棘で殿下が傷つきでもしてみろ。そこから真っ黒な瘴気が噴き出してくる」
「洒落にならない……」
(気にするのはそこなの……)
と思わない訳ではないが、もう突っ込む気にもならない。
「ところで友よ、東には邪気祓いに菖蒲を用いる文化があるそうだ」
「よし、それでいこう」
2人は王太子であるフェルドリックを全身で警戒するくせに、かしこまりはしない。そして、懲りない。
ソフィーナもひどく驚いたし、アンナは最初その2人の会話に青ざめていたけれど、フェルドリック自身が気にしていない(と言ってもこれでもかと言うほど苛めてはいる)ようなので、諦めたようだ。
「ここはひとつ、妃殿下が届けてください」
「よろしくお願いします」
「……気持ちはとてもよく分かるけれど、余計危険にならない?」
敬意は感じるが、彼らはソフィーナ自身に対してもやはり気さくで、困惑しつつも一緒に笑ってしまう。
「確かに。だが、剣士たるもの、一矢報いたいのもまた事実」
「心の底から同意する。けど、そろそろ黙った方がよさそうだ」
ジーラットが肩をすくめた瞬間、今まさに話題にしていた、フェルドリックその人が温室へと入ってきた。
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