第9話 片思いと片思い
「フェルドリック殿下のソフィーナさまへのお態度、どうお思いになりまして?」
「私の目には、お気に召しているように。あの名高い姉姫さまでないとお伺いした時は、正直何の間違いかと思ったのですけれど」
「ご寵姫なのでしょう? だって毎夜毎夜、訪いを入れていらっしゃるとお聞きしましたわ」
(話題も内容も、ハイドランドと特に変わらないわね……)
探し求めていた資料を王宮図書館で見つけたソフィーナは、自室へ戻る途中、有閑を持て余した貴族たちがたむろする場所の背後の木陰で足を止めた。
先日、護衛の2人に付き添ってもらって街に降りてから、少し上向くようになっていた気分が、また沈んでいくのを感じる。
「散らしますか?」
「いいえ、すべての情報には、何かしらの価値があります」
今も一緒にいるバードナーが見せた鋭い顔と固い声に、それでもソフィーナは首を横に振った。
「それもどこまで本当なのだか…」
「ねえ、この間のホーセルン公爵のお茶会も、フェルドリックさまお1人でしたし……」
「あちらはご令嬢が4人もおられて、誰か1人はフェルドリックさまのおそばに、と昔から意気込んでいらしたもの。そんな場にすらソフィーナさまをお連れにならないとなると……」
「“そんな場”にお連れになったら、ソフィーナさまがお疲れになるとお考えなのでは?」
くすくすと笑う声が続く中、ソフィーナは、小声ながら自分を擁護しようとしてくれている夫人の顔を記憶にとどめた。次にそれ以外の者の顔。
誰が何を言おうと、自分がすべきことは変わらない。ただ、誰が何を言ったかは把握しておく――すべての感情を押し殺して、母の言いつけをそのまま遂行する。
「いずれにせよ、若い娘たちは希望を持ち直したようよ」
「ご政略であればいわずもがな。そうでなくとも、ソフィーナさまでよいのであれば、と皆ここ最近は、色めき立っていますものね」
「ああ、あれだけ噂のあったフィリシアさまをアレクサンダーさまにお譲りになったのも、そういうご趣味だったからだとすれば、納得できますわ」
斜め後ろでバードナーが、「的外れもいいとこです」と呟いた。気遣うような声に、母の言いつけを守り切れなくなって、ソフィーナは視線を伏せた。
他の誰の名が出ても、所詮は噂、と思うことができただろう。だが、今出ていた名だけは違う。
婚姻を祝う夜会で、ソフィーナが何もかも忘れてただただ見とれてしまった女性こそが、彼女たちが話題にしているフィリシア・ザルアナック・フォルデリークだ。
夫であるアレクサンダーと同じく騎士団にいるという彼女は、この国で知らない者がないほどの有名人だ。
カザックの建国に大きく関わり、その後の維持にも騎士団の創設と指揮を通じて多大な貢献をした、英雄アル・ド・ザルアナックの孫。
女性でありながら、鍛えられた騎士たちの中でも実力者の1人だという。事実、近隣諸国を恐怖に陥れたドムスクスのかつての狂将軍を不具の身とし、4年に1度開かれる前回の御前試合でも準優勝している。
7年前のシャダの絡む内乱でも、先のドムスクスとの戦争でも相当な活躍をしたらしいし、西大陸にまではるばる行って技術や知識を持ち帰り、カザックの発展に貢献したとも聞いた。
同じ旅で同じように国に貢献し、さらに様々な戦争で戦略の巧妙さを見せ付けて近隣国を震撼させているアレクサンダー・ロッド・フォルデリーク、次期フォルデリーク公爵の妻。
しかも、彼女の実家も国内で有数の有力貴族のはずだ。その証拠に平民出の妾妃腹とは言え、フェルドリックの末の妹姫ナシュアナは彼女の兄に嫁いでいる。
「それこそどうなのかしら? だって……ねえ」
「そうですわね、フェルドリックさまとフィリシアさまは、今も仲がよろしくていらっしゃるから」
「フィリシアさまだけですしね、王太子殿下の御名をお呼び捨てできる女性は」
「アレクサンダーさまがいらっしゃらない時に、フィリシアさまがフェルドリックさまの護衛につかれることも珍しくないですものね」
「会話をなさる距離も近い気がしますし」
「フェルドリック殿下がご結婚なさったのは、案外隠れ蓑なのではなくて?」
「まあ、ではアレクサンダーさまも気が気ではないわね」
無責任に広がっていく忍び笑いを、「アレクサンダーさまも含めて、幼馴染でいらっしゃるというだけかと」と遠慮がちに諫める声がしたが、すぐにかき消されてしまった。
「ごきげんよう、随分と楽しそうにお過ごしですこと。私も混ぜていただこうかしら」
(フェルドリックの支持基盤を壊しかねない――看過していい内容ではなくなった)
ソフィーナは気を取り直すと、背筋を正して木陰から出、顔に威厳と笑みを浮かべて、彼女らに近づく。
王族としての責務の中には、こんな噂をきっちり管理することも含まれる。
けれど、一瞬気まずそうな顔をした彼女らも然る者。まるで違う話題を、いかにもその話をしていました、というように口から紡ぎ出す。
「オール・ド・レメンの新作について話をしておりましたの」
「そういえば作風が随分軽やかになったとか」
そうと知っていながら、ソフィーナは彼女らの話題に乗る。同時に、笑顔に混ぜて警告の視線を送った。
(そう、これでいい。噂はどこに行っても付き纏う。うまく対処しなくては……)
「……」
終始申し訳なさそうな顔をしているのは、セントリア伯爵夫人だ。ソフィーナは彼女にだけ、安心させるように微笑んだ。
「では、私はこの辺で。ごきげんよう」
不自然にならない程度に会話を回したところで、場を切り上げる。
「残念ですが、お忙しくなさっていると……お引き止めしてしまい、申し訳ございません」
「さすがですわ。既にご公務を任されていらっしゃるなんて」
「慣れないことも多いですが、丁寧にお導きいただいているおかげで、なんとか」
誰に、とは言わず、ただ匂わせて微笑んだソフィーナに、一部の人の顔が歪み、一部は驚き、セントリア伯爵夫人だけが嬉しそうな顔をした。
(……丁寧どころか、そもそも導くなんてものじゃないけど)
その反応すべてに皮肉に笑いそうになるのを抑えて、ソフィーナは改めて彼女らに暇を告げた。
そうして、自室に戻る途中の小さな庭の脇で、ソフィーナはようやく息を吐き出した。
「……少し1人にしてもらっていいかしら」
「承知いたしました。お困りの際はお呼びいただければ、いつでも」
バードナーは理由を聞かず、ただ優しい微笑だけを見せて、ソフィーナから離れて行った。
いつも人気のないその庭は、ソフィーナが最近見つけたカザック王宮でのお気に入りの場所だった。
真ん中にある小さな噴水脇のベンチに腰掛け、体を伸ばす。鬱屈から逃げるように空を見上げれば、一面に薄い雲が張っている。
小さな小鳥が二羽、追いかけっこをするようにその空を飛んで行った。
「……噂かあ」
ソフィーナはくすんだ空の青に親近感を持ちながら、ぼそりと呟いた。
噂はいつだって無責任で、対象となる人をひどく傷つける。その内容が嘘であってなお、真実であれば殊更に。
(フィリシア・ザルアナック・フォルデリーク。フェルドリックの元婚約者で、恐らく今なお彼の想う人――大当たりだわ、あの人たち)
匂い立つような、あの艶やかな美人があの日着ていたドレスのことを、ソフィーナは知りたくもないのに知ってしまっている。あれはフェルドリックからの贈り物らしい。
あの日、それを着てきた彼女の気持ちは、一体どのようなものだったのだろう、とソフィーナはぼんやりと想像してみる。
『お会いできて光栄です、ソフィーナさま。並びにご結婚……おめでとう、ございます』
祝いの言葉の前に、声を詰まらせた彼女の気持ちも。
ソフィーナとの最初のダンスを終えた後、フェルドリックは、アレクサンダーと帰ろうとしていた彼女を呼び止めた。歩み寄って彼女の耳元に唇を寄せると、何事かを囁く。
その彼を前に、彼女は赤く染まった顔を伏せ、お腹の前で両手を握りしめて、小さく首を振る。動きに合わせて、長く美しい金の髪が左右に広がった――美しいフェルドリックと同じく美しい彼女の束の間の逢瀬は、そこだけ切り取られた絵画のようだった。
彼女は顔を俯けたまま、足早にその場を離れていく。
その姿をフェルドリックが名残惜しそうに見送り、自分の元へと戻ってきた彼女を受け入れたアレクサンダーが、フェルドリックへと複雑そうな視線を投げた。
『王族の結婚なんてそんなものだ』
(あの言葉は、恋い慕う相手と添い遂げることはできない、という意味だったのね……)
“初夜”の晩、フェルドリックが言っていた通り、想い合っていても報われない、王侯貴族には良くある悲恋なのだろう。
「……あんな性悪のどこがいいのかしら」
うずく胸の痛みを誤魔化すために、ソフィーナは敢えて言葉にする。
声が春のいたずらな風に乗って散っていく。横髪が同じ風に巻き上げられて、くすんだ空へと舞い上がった。
あれだけのことを言い、あれだけソフィーナを惨めにした男だ。しかも、彼のその行為と自分の愚かさのせいで、最愛の兄にまで迷惑をかけてしまった。
(どこまでも迷惑な人。これ以上迷惑をかけてこないなら、彼が誰とどういう関係になろうと、誰を想っていようとどうでもいい……)
心底そう思っているはずなのに。
「ソフィーナ」
「っ」
なのに、その声に呼ばれる度に心臓が跳ねる――泣きたくなる。
だから、そんな権利などないのに、「なぜかまうのか、放っておいてくれ」となじりたくなる。
「なん、でしょう。今朝言いつけられた仕事ならまだ……」
「違う。本が届いた」
必死で平静を装った声に、「君が探していたものだ」と返ってきて、再確認する。
(この人、私のこと、本気でどうでもいいのよね……)
だから、ソフィーナの気持ちを斟酌することなく、彼自身の気分のままに毒を吐き、かと思えば、こうやって気まぐれに柔らかく笑う――どうでもいい存在にしかできない行為だ。
「ありがとうございます。後で使いをやります」
そう知っているのに、それでもこうして声をかけてくれることを、見つけてくれたことを、どこかで嬉しいと思ってしまう自分がいて、ソフィーナの気分はさらに落ち込んでいく。
「僕に別途君のために時間を割けと? 面倒だ。今取りに来い」
動きたくないという意志のまま座っているソフィーナに、言葉通り面倒そうに肩をすくめ、フェルドリックはソフィーナが膝においている手を無遠慮に取った。
「……なんだ、妙に大人しくないか」
「私は基本大人しいです。殿下のように裏表もありません」
「普段通りだったな。本当に大人しい人間はそうは言わない」
心配されて嬉しくなったのを隠そうとしたソフィーナに、半眼で「せめて言動ぐらい可愛らしくすればいいものを」と皮肉を吐くくせに、彼は手を離さない。そのまま引いていく――だからこそ悲しい。
ただ嫌味だけ言っていて欲しい。常に蔑むように見ていて欲しい。
気まぐれに笑わないで欲しい。ドアノブを触れるかのように触れないで欲しい。
ドレスも宝飾品も香水も本も、何もいらない。
いっそのこと、自分を視界に入れることすら、厭うて欲しいのだ。
でなければ余計……。
(愚かさへの罰だとしても、これはあまりにむごいです、お母さま……)
視線を、握られた手から無理に空へと移す。その遥か北、故郷の大地に眠る母へと、ソフィーナは悲嘆を漏らした。
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