第8話 番猫と番犬
「お下がりなさい」
「妃殿下?」
王立孤児院に関する書類を確認し終えた後、カザック史をまとめた本を読んでいたソフィーナを訪ねてきたのは、王太子付の執務補佐官フォースンと、王宮に出入りしている宝石商だった。
新しい宝飾品を、とフェルドリックに言いつけられたフォースンが計らってくれたらしいのだが、とてもではないが、そんな気分になれない。
「何かご無礼でも…」
うろたえる恰幅の良い宝石商に、アンナが「申し訳ないのですが、ご公務ゆえ、少しお疲れなのです」と柔和に微笑んで、彼に退出を促した。
扉の閉じる音がする。
「さて、」
フォースンも一緒に出ていくことを期待したのに、宝石商を見送った彼は戻ってきた。そして、ソフィーナへとにこりと笑いかける。
「勤勉で名高い妃殿下が、この程度のご公務でお疲れのはずはないと思うのですが」
「……」
こういう瞬間に、彼がフェルドリックと共に働いている人間であることを実感する。これぐらいの神経を持っていなければ、あのフェルドリックには付き合えないのだろう。
気色ばみ、「なんてご無礼を…」と口にしたアンナを手で制すると、ソフィーナは苦笑を浮かべた。
「無駄な時間を過ごしても、お互いむなしいだけでしょう」
「……くださると仰るのですから、もらっておけばよいのに、と庶民の私は思ってしまいます」
いらない、とほのめかしたソフィーナに、眉を跳ね上げつつ、「あの宝石商が持ち込む石の価格なら、最低でも、あの本とあの本とあの本が買えるのになあ」と皮算用してみせたフォースンに、ソフィーナは目を丸くした後、思わず吹き出した。
横でアンナが唖然と口を開けた後、苦笑したことにも気づいて、ますます心が軽くなる。
彼は、カザックの日常の中でソフィーナが自然体で話せる、唯一の人間だ。
「これまでにいただいたものと、使う機会を比べたら、もう十分でしょう?」
言いながら、ソフィーナは自然と視線を伏せた。
フェルドリックからは三日にあげずドレスや宝飾品、香水などの贈り物が届く。だが、いらないのだ。
フォースンに言った、機会の問題だけではない。
そもそもソフィーナはフェルドリックにとって、“着飾らせる必要のない”人間だ。だから、これまで贈られた物は、“王太子妃”として恥ずかしくない体裁を整えるだけの、ただの物でしかない。真心を添えて欲しいなどとはもちろん望まないが、物だけもらってもむなしいだけだ。
もちろんフェルドリックのことだから、着飾ったところで、どうせ馬子にも衣裳と言うだけだろうというのも大きい。
あとは、フォースンにもアンナにも絶対に口にできないが、高価すぎるのだ。ハイドランドでは姉のためならまだしも、ソフィーナのための宝飾品やドレスにあの金額は出すことはありえない。
それを着飾らせる必要もないと思っている妃に対してあっさり支出できることに最初ショックを受け、それで贈り物にかこつけてカザックの国力を見せつけるというフェルドリックの意図にも気づいた。
(でも、本当の問題は――)
「それで……フォースン、少し私の相談に乗ってくれないかしら?」
フォースンがそのまま帰ってしまうなら、口にする気はなかったが、察しのいい彼は戻ってきてくれた。彼の感覚も確認できた。ならば、と思う。
「妃殿下のお望みとあれば」
線の細い顔にかけられた銀縁メガネの向こうで、フォースンの黒い瞳が弧を描く。
ただでさえあのフェルドリックに振り回されているようなのに、こうしてソフィーナの望みを叶えようとしてくれる彼に、カザレナに来てから凝り固まっていた心が、少し解れた気がした。
* * *
「護衛、ですか」
言いつけられていた仕事についての質問をしに、執務室を訪ねたソフィーナにフェルドリックが唐突に告げた。
「ああ。何を不思議そうにしている?」
(今までどうでもよさそうだったのに、なぜ今更……ああ、そうか、フォースンね)
先日ソフィーナが頼んだことをかなえるために、彼が護衛を手配してくれたのだろう。
「……いえ」
彼の律義さにソフィーナが思わず頬を緩めれば、フェルドリックは眉を跳ね上げた。
「手頃な者がいなかったから、騎士団から派遣させることにした。そろそろ挨拶に行っているはずだ」
それから再び書類へと目を落とすと、ペンを走らせながら、書類と噂の上だけソフィーナの夫であるその人は呟いた。
「騎士団から?」
つい眉を顰めてしまった。
この国の、特に王都であるカザレナの治安は、うら若い女性が深夜1人で歩いても安全なほどで、大陸中探しても比肩する場所がない。
カザックの誇る騎士たちが、平時にその治安維持にあたっているからなのだが、結果として、その中央にある王宮の安全も保証されている。
さらには、王宮内には近衛騎士もいて、二重に安全なはずだ。もっともこちらは祖国の騎士と同様半ばお飾りらしく、しかも最近では騎士団に人を奪われ、成り手も減っていっているらしいのだが。
ソフィーナは何か腑に落ちないものを抱えつつ、新たな仕事の書類を渡されて自分の部屋への道を辿った。
「おかえりなさいませ」
自室に戻ったソフィーナを迎えたのは、少し落ち着かない様子のアンナ。
「お目にかかれて光栄です。この度、妃殿下の護衛を拝命いたしました、ヘンリック・バードナーと申します、精一杯努めさせていただきます」
「同じく、マット・ジーラット、と申します、ソフィーナ妃殿下。よろしくお願いいたします」
怪訝に思った瞬間、アンナの背後ですっと立ち上がったのは、黒と銀の制服をまとった背の高い2人連れだった。ソフィーナの前へと進み出、乱れのない所作で最敬礼をとる。
その彼らが顔を上げて納得した。タイプが違うけれど、どちらもひどく整っている。
真っ直ぐでさらさらな茶色の髪に、少し下がり気味の茶の目。柔らかい雰囲気のバードナーは、顔の印象全体がかなり甘い。
どこか硬い感じのするジーラットは、同じく茶色のショートヘアで、少しだけ癖毛気味。緑色の瞳が収まるアーモンド形の目がとても印象的だった。思わず見蕩れてしまいそうなほどに、奇麗に整っている。
「2人の働きに期待します」
気後れしそうになったのを隠し、そう返したソフィーナに、2人は一瞬顔を見合わせてにこりと笑った。
それが幼く見えて、なんとなく納得した。これだけ若い騎士だ、護衛もきっと形だけのものだ、と。
(ひょっとして、護衛の1人もいないと噂されていることを、フェルドリックも知っていてくれた、とか……ないか)
またも都合よく考えそうになっている自分に気づき、ソフィーナは自嘲した。
「挨拶はすんだ?」
「っ」
「「っ!」」
ソフィーナが息を呑んだのは、ノックと同時にちょうど考えていたその人が現れたから。だが、護衛の2人がそれを上回る緊張を見せて、ソフィーナは目を丸くする。
「……反射です、お気遣いなく」
その目線を疑問だと感じ取ったのだろう、バードナーが引き攣った笑顔でソフィーナを見た。その間もジーラットは、じりじりと後退していく。
「それは何のまねかな、フ……マット?」
「本能です、お気になさらず」
そっくり同じ表情で、よく似た台詞を吐いたバードナーとジーラットに、ソフィーナは隠しきれず眉根を寄せる。
王太子相手だから緊張して、という風にも、畏敬の念ゆえに、という風にも、どうしても思えない。敢えて言うなら……警戒?
フェルドリックは、そんな彼らに、微笑んで見えるのに目だけは欠片も笑っていないという顔を向けたまま、ソフィーナの応接室のソファへと腰掛けた。そして、棒立ちのままでいたソフィーナの手を、他愛もない、義務そのままの様相で引くと、横へと誘う。
「ソフィーナ、ヘンリック、アンナ、お茶にしようか? マット、君が淹れろ」
フェルドリックにいきなり声をかけられたアンナが、「わ、私もですか?」とひどく動揺したのはともかく、彼に名を呼ばれたバードナーも飛び上がらんばかりに驚いている。が、こちらはアンナと違って、恐縮のあまり、という風には見えない。
「あ、あの、でしたら、私がすぐにご用意を」
「いいよ、偶には。マットが淹れてくれるそうだから」
ジーラットが返事もしていないのに、断定するフェルドリックは微笑んでいるが、何か鬱屈がある、気がする。
「で、ですが、恐れ多くてとても」
「お気遣いありがとう。でもいいのですよ、アンナさん。せっかくの殿下のお言葉です。偶にはゆっくりなさってください」
ジーラットは先ほどまでの緊張感が嘘のように、アンナへと優雅に歩み寄った。そして、彼女の手をとって蕩けそうに甘く微笑みながら、その背をゆっくり優しく押し、ソファへと促した。
男性に言い寄られ慣れているはずのアンナの顔が赤くなって、職務と身分に厳格なはずなのに、されるままソファへと身を沈める。
「う、裏切り者、自分だけ逃げる気か……!」
「ヘンリック、大丈夫――鍵は彼女だ」
「っ、確かに……立場が弱い人の前だといつも猫が」
「いいか、友よ、分かったら彼女を死守しろ」
お茶の準備に踵を返したジーラットの肩を、バードナーが必死の面持ちで掴み、こそこそと会話をかわす。
「……」
その彼らにフェルドリックは片頬をピクリと動かし、半眼を向けた。
「……」
目の前で繰り広げられる、ハイドランドではもちろん、カザックに来てからも一度も経験のない事態――ジーラットとバードナーの黒衣が目について、ソフィーナは目を瞬かせた。
カザック王国騎士団。平民出身者による創設以来、身分の別なく実力主義を貫いてきたという集団――そのせい、なのだろうか…?
(だって、この2人、明らかにフェルドリックを警戒しているわよね……? で、フェルドリックもそれを知っている。のに、怒っていない。けど、おもしろくはない……一体何なの??)
そんな彼らをソフィーナの護衛につけるフェルドリックの意図はなんだろう、と警戒する一方で、アレクサンダーとフォースン以外にも理解者ができそうな予感だけはあって、ソフィーナは小さく息を吐き出した。
* * *
「……徒歩?」
「はい。せっかくですから、街のことも知ってみませんか」
「で、これ、ご衣裳です。そのドレスだとさすがに目立つので」
護衛の2人は最初の印象通り、とても変わっていた。
その日、ソフィーナは王立孤児院への訪問を予定していた。以前宝石を断った日に、ソフィーナがフォースンに頼んだのがこの視察だ。
孤児院のような場所は、権力には関わらないけれど、場合によってはその国の暗部が見えることがある。そういった場所を、他国出身のソフィーナに見せるのをフェルドリックがよしとするかどうか、と思っていたが、あっさり許可が出たらしい。
そう、視察のはずだ――従者を連れて馬車で行き、挨拶を受け、行き先の担当者の案内を受けて、説明を聞き、周囲に畏まられつつ見学を終え、見送られて再び馬車で帰る……。
想像するともなしにそう思い込んでいた情景が一気に崩れ、ソフィーナは固まった。
(……本気で言っているの? 罠? それともまたテストか何か? いいえ、粗略に扱われているだけかも……いえ、カザックではそれが普通とか…? というか、私が街中の年頃の子が着るようなドレスを着て、街に出る……?)
「……孤児院長が戸惑うのでは? 先方に心労をかけることを私は好みません」
嵐のように浮かぶ疑問で、半ば恐慌状態であることを悟られないよう、ソフィーナは平静を保って返した。
ただでさえ地味な自分が、シンプルなドレスを着て、宝飾品もなしに、徒歩で孤児院を訪れても、院長も誰も自分が視察に来た王太子妃だとは思わないだろう、とはもちろん言えない。
「どうせならお忍びで、と。その方が実情がわかるだろう、とのフェ…王太子殿下のご指示です。院長だけには、その旨了承いただいておりますので、あちらについたら、こっそり院長を訪ねましょう」
そうにこやかに答えたジーラットの顔を、ソフィーナはまじまじと見つめた。
相変わらず美しい顔をしているが、彼は騎士団の制服ではなく、シンプルな開襟シャツと濃紺のスラックス姿だ。帯剣していない。かたやバードナーはいつも通りの制服だ。
(大丈夫、なのかしら……)
フェルドリックの指示と聞いて、何の意図があってのことだろう、とソフィーナは疑心暗鬼になる。
「我が騎士団をご信頼ください。常日頃から鋭意王都の治安維持に努めておりますし、私たちも全力で妃殿下をお守りします。あ、ちなみに、ジーラットは剣の他にナイフに短刀、体術、槍に弓、何でもありの歩く兵器みたいなものですから」
(――読まれた)
内心で瞠目しながらバードナーを見れば、「兵器って」と顔を顰めるジーラットに、「ほんとのことじゃん」と笑っている。
「ちなみに、カザックでは珍しいことではないですよ。国王陛下もフェルドリック殿下も護衛数人だけで外に出られますし、ナシュアナ殿下に至っては護衛なしでお出かけになっていたこともあるそうですから」
(そうとまで言われてしまうと、さすがに断れない……と言うか、そもそも私、断りたいのかしら…?)
結局、ソフィーナは、同様に戸惑うアンナに手伝ってもらって、なんとか着替えた。鏡に映る自分の姿が予想寸分違わず、どこにでもいそうな町娘にみえることに苦笑を零しつつ、再び2人の前に出て……また硬直した。
「おお、思ったとおり、めちゃくちゃかわいいです、妃殿下。それ、僕の奥さんのメアリー!のお手製!なんですよ」
「はいはい、それは関係ない。けど、妃殿下、お似合いだと言う意見には、私も同意します。本当に素敵です」
「……あり、がとう」
お世辞ではなく、心の底から褒めてくれているという様子の2人に、無礼を咎めるべきか悩んだ挙句、ソフィーナは結局そう口にした。
そんな言葉に目を丸くした後、笑み崩れた2人を見ていたら、悩むのもばかばかしい気がする。
「……」
思わずアンナを見れば、彼女も困っているようだった。
裏門から2人に付き添われ、おそるおそる城外へと足を踏み出した。
春の盛りの昼空は青の中に薄く霞みが混ざり、雲一つなく晴れ渡っている。
「……」
門番に陽気に挨拶する二人の声が、遠くに聞こえた。
ハイドランドでもこうして忍ぶように街に降りたことはない。石畳を踏みしめているはずなのに、足もとがふわふわしている気がする。
「じゃあ、これとこれ、あとは…」
「メツナはどうだい、今日のは特別甘いよ、海岸地方産だよ」
「へえ、海岸地方の。じゃ、それもらおうかな」
街中では人々が普通の顔をして、日常を送っていた。あちらでは子供たちが駒を回して遊び、そちらでは男性が女性に声をかけている。荷を崩した馬車が道をふさぎ、別の馬車の御者が文句を言いながら、荷を直すのを手伝っている。
すれ違う人は誰もソフィーナに気を留めない。たまに視線が向けられることがあっても、何の感情もないまま、自分の上を通り過ぎていく。
そのすべてにひどくドキドキした。
(……っ、失敗したわ)
きょろきょろしていたせいだろう、バードナーとジーラッドが子供を見るような目でソフィーナを見て、微笑んでいる。
ソフィーナは慌てて、表情を取り繕った。
「あ、そうだ。妃でん、じゃない、ソフィーナさま、これ、お小遣いです」
「……おこ、づかい」
が、繕いはまたも破られた。ついでに言うなら、帳簿の上で常に見ていたお金に触れたのも、その日が初めてだった。
「ご自身で好きなものをお買い求めください。あ、帰るまでに全部使い切るんですよ?」
「……500キムリ銀貨2枚……」
その価値が分からないソフィーナに、バードナーが楽しそうに笑う。
「値札の表示があってもたくさん買ったり、上手くかけ合えば、少しぐらいは値切れます」
「値、切る? 安くしてもらうということかしら? ……そんなことをすれば、売り手が生活に困ります」
「大丈夫、あっちも値切られるのは、想定済みです。そうやってやりとりして、お金以外の生活の楽しみにしてるんですよ」
「だから、頑張って笑わせてやってください」
「とりあえずコインはポケットに入れておいてください。あとで、どこかでお財布を買いましょう」
(お財布、はお金を入れるバッグのことかしら? ということは、街に出るの、今日だけじゃないの?)
「……」
ソフィーナは瞬きを繰り返しながら、手元の銀貨を見つめた。彫られているカザックの建国王の横顔は、フェルドリックに少し似ている気がする。
「ほら、馬車が来ますから、こちらに寄ってくださいね」
「ご興味のあるものがあれば、いつでも。どこでもついて行きますから」
バードナーが、戸惑うソフィーナへと優しく笑いかけてくる。ジーラットが差し出してきた手に、おずおずとソフィーナが手を乗せれば、彼は嬉しそうに笑った。
「さあ、行きましょう。今からならちょっと寄り道するぐらいで、ちょうど約束の15時です」
そう言って2人はソフィーナを間に挟み、街へと歩き出した。
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