第7話 傷と演技
「ソフィーナ第2王女殿下を、我が妻として迎えさせていただきたい」
率直に認めるのであれば……嬉しかった、本当に。
だから、いつもなら働くはずの理性が働かなかった。
「恥ずかしながら、先の会議で一目惚れいたしました」
言い訳をするのであれば、彼はソフィーナと目が合った瞬間、照れたように微笑んだから、だからそこに真実があると思ってしまった。
「ハイドランド国王陛下から内々に承諾は頂きました。ですが、あなたの口から、私との結婚を了承するという言葉を聞かせてほしい」
憧れの人に跪かれて手を取られ、舞い上がったまま、頷いてしまった。
私にも、田舎の教会で微笑み合っていた、憧れの夫婦のような未来が待っている――そう勘違いしてしまった。
「セルシウスの懐刀だ。潰しておくに越したことはない」
(――お兄さまの嘘つき)
「幸い着飾らせる必要もないような姫だ。姉姫ではそうもいかないからね。あれは波風が立つ」
(賢くなろうと頑張ってきても、いいことなんてなかった)
「……すべて嘘だったのですか?」
ハイドランドでの歓迎と婚約披露を兼ねた宴の最中、抜け出た庭園で耳にしてしまったフェルドリックの台詞に、ソフィーナの全身から血が音を立てて引いていった。
どれほど情けない顔をしていたか、考えたくもない。唯一の救いは、泣き出さなかったことだけ。
青く澄んだ月光の下、静かにソフィーナを振り返ったフェルドリックは、先ほどプロポーズしてきた時と変わらない、優しい笑みを向けてきた。
「――盗み聞きの挙句、騙したのかって? 随分と人聞きが悪い」
「……」
その笑顔に、否定の言葉が出るに違いないと思ったソフィーナは、どこまで愚かだったのだろう。
「君のことだ、今回の縁談がシャダを見据えた政略だということぐらい、理解しているだろう」
「それ、はそう、ですが……、なら、なぜ、わざわざハイドランドに来てまで、あんなことを……」
「あんなこととは、一目惚れと言ったことかな? 大した意味はないよ、せっかくだから、夢を見させてあげようと思っただけ」
まんまと裏切られてショックで思考を鈍らせ、さらに愚行を重ねた。そんな質問、どんな答えが返ってこようと、傷を広げるだけだと少し考えればわかるのに。本当にそうなったのに。
「なんにせよ、僕が君を評価していることには、代わりがない訳だし、光栄に思って欲しいな。けど……まさかあんな口上を真に受けるとは思わなかった、『エーデルの祝福を受けし賢后』の娘ともあろう人が」
「……っ、光栄、に、思われたいと思し召しであれば、私ではなく、貴方に心酔している姉をお勧めいたしますが」
「へえ、相手が僕だというのが気に入らない? 君には、不相応なくらいだと思うけど? あちこちでそう言われているだろう」
声が震えないよう、必死で亡き母に祈りながら、フェルドリックを睨んだソフィーナに、彼は冷たい目線で応じた。
「不相応だと思うからこそ、申し上げているのです」
(嘘だ、さっきまで舞い上がっていたくせに……)
身の程知らずだったことを今更隠そうとして出した言葉に、ソフィーナ自身が切り裂かれるような痛みを覚えた。
惨めで、滑稽で、情けなさのあまり涙腺が緩み始めて、顔を伏せれば、フェルドリックからため息が聞こえた。
「“ごめんね、そう怒らないで。君を蔑ろにする、父君や姉君の鼻を明かしてやりたかったんだ。機嫌を直してくれないか”……とでも言いながら、また跪いてあげようか?」
「っ、いらぬ気遣いですっ、不躾にもほどがありますっ」
「……随分と敵対的だ」
ぎゅっと唇を噛みしめ、目に力を入れて、絶対に泣かないよう、フェルドリックを睨み上げたソフィーナに、彼は薄く微笑んだ。
初秋の冷たさを含んだ夜風が彼の髪を乱し、月光に青白く光らせる。虫の音に混ざって、背後の迎賓宮で奏でられている音楽が微かに聞こえてきた。
無言でいた彼の瞳に酷薄な光が浮かんだ。それに恐怖する。
(聞いてはいけない、絶対にダメ)
そう思って耳を塞ごうと思ったのに、体が凍りついたように動かない。
「さっきまで随分と喜んでいたようだけど? 僕に惚れているんだろう? よかったじゃないか、そんなでも王女で」
美しい笑顔を湛えたまま、美しい唇からこぼれ出た言葉――ショックも行き過ぎると涙すら流れないものだと、その時初めて知った。
* * *
(嫌な夢……)
ソフィーナは、まだ夜が明け切らないうちに目を覚ますと、己の頬に手をやって、そこが濡れていることに自嘲する。
「……」
広いベッドの片側には、まだフェルドリックが寝ている。
彼を起こさないようにそっと寝台から降りると、ソフィーナは隣室のドアを開けた。
(……夢じゃないか、全部実際にあったことだし)
ぎしりと心が軋んだ。
窓辺へと近寄って外を見れば、そこに見える光景は祖国の庭園とは違って、色とりどりの南の花に溢れている。
あの花々を集めた祭りがあったのは、ついこの前のことだ。王宮を含めたカザレナ全体が浮き立つ中、ソフィーナの周りだけは何も変わらず静かだった。
7日間にわたって政務がすべて止まる中、誰が訪ねてくることもなく、誰を訪ねることもなく、ソフィーナがしたことと言えば、剣技大会に臨席し、優勝者に花冠を授けたことだけ。
収穫を挙げるとするなら、暇を持て余してアンナと共に宮殿内をうろついて、ようやくこの城の全容を知ったことぐらいだろう。
ここはカザックだ――窓越しに差し込む日差しの暖かさにそう再確認してしまう。悲しくなりそうなのを苦笑で無理にごまかすと、胸いっぱいに暖かい空気を吸い込んだ。
「さて」
誰もいないところで敢えて声を出して、にこりと笑顔を作ってみる。これは気落ちした時に気分を入れ替える、ソフィーナのいつもの儀式だった。
「今日は王立孤児院運営に関する収支報告書のチェック……」
嫁いで2ヶ月。自分が“初夜”に申し出た通り、フェルドリックは自分が受け持っている仕事の一部をソフィーナに与えるようになった。
権益の絡まない、比較的気楽な案件ばかりだが、何かできることがある状況をありがたいと思う。
暇だし、もう始めてしまおうか、と思い立って、振り返った視線の先に、片付けられていない盤上ゲーム、オテレットを認めて、ソフィーナは軽く眉を顰めた。
昨晩もフェルドリックとソフィーナはオテレットをやって遊んだ。
結婚してからと言うもの、ほぼ毎晩彼はそうしているし、今日のようにそのまま朝まで泊まっていくことも全く珍しくない。
そう、普通どころか、ひどく仲睦まじい夫婦であるかのように。
結婚当初こそ焦っていたソフィーナだったが、今ではそんな訪問にもすっかり慣れた。
お陰でソフィーナはフェルドリックの愛妃扱いだ。
アンナなんて涙ぐみながら「フェルドリック殿下はソフィ-ナさまの魅力を良くご存知なのです。ソフィーナさまが幸せにお過ごしとわかれば、セルシウスさまも大変お喜びになるでしょう」と言っている。
だから絶対に打ち明けられない――毎晩オテレットなどをしながら、腹の探り合いのような会話に興じているとは。
だが、フェルドリックが以前言っていた通り、そんな噂も少しずつ消えつつあるようだ。
まず、彼は私的な催しに一切ソフィーナを伴わない。
オーベルヌ伯爵令嬢たちとの観劇会、ミレイヌ侯爵がパトロンを務めるカザックを代表する高名な画家の展示会、ザルアナック伯爵家に嫁いだナシュアナ殿下が主催する茶会、フォルデリーク公爵夫人の私的な招待――彼がソフィーナの同伴をあえて断って、1人出かけて行った回数は、ソフィーナが知るだけでも片手を越える。
となれば、夜どれだけ彼がソフィーナの部屋を訪れようと、訝しむ者は出てくる。
それから、自分に護衛がおらず、アンナの他の侍女も最低限という点も、疑念を抱かせるに十分だろう。
不遇を囲っていた時期があるという、フェルドリックの末妹のナシュアナ殿下ですらこれほど少なくはなかったと、城に集う貴族の子女たちが笑っているのを耳にした。
だからだろう、祖国では楽しそうに仕えてくれていたアンナも他の城勤めの者たちに遠巻きにされているらしくて、カザックに来てからすっかり沈みがちになってしまった。
元々社交的ではない上に、王族の心得として他者との距離を保つよう、母に説かれていたソフィーナに至っては、カザックに来てからさらに孤独になった。
フェルドリックの母である王后陛下が時折開くお茶会にソフィーナを呼んでくださらなかったら、本当にこの国の王太子と結婚したのか、自分ですら疑ってしまうところだった。
(私の価値は“王太子妃”の務めを果たすことだけ)
胸に走った痛みを誤魔化そうと、ソフィーナは窓を一気に開け放った。
その音に驚いた小鳥たちがけたたましく鳴きながら、すぐ脇にある木から飛び立ち、同時に新鮮な空気が部屋に流れ込む。
(しまった、驚かせてしまったかも)
そう思って背後を振り向けば、案の定、フェルドリックがあくびを噛み殺しながら、こちらの部屋へとやってきた。
「随分な目覚めだ、ソフィーナ」
寝癖の付いた金色の髪、寝ぼけた顔――そんな風体でもやっぱり整っているものは整っている、と今更ながらにソフィーナは感心する。
25歳の瑞々しさと大人の男性の色気が交じり合っていると噂されていることを思い出し、少し肌蹴た寝巻きの間から見えた胸板に、つい緊張を覚えてしまう。
それを隠そうと敢えて白けた目線を作り、肩越しに彼を見据えた。
婚約成立からの月日で確かに変わったものがあるとすれば、ソフィーナの演技力だろう。
「小鳥のさえずりで目覚めるなんて素敵でしょう? フォースンの心労も少しは減らしてあげないといけませんし」
「さえずりなんて可愛いものじゃないだろ……なるほど、昨日のオテレットの負けを根に持っているわけだ」
しれっと言ってみたのに、すぐに気付いたフェルドリックににやりとやり込められる。
(色んな意味でくやしい……)
感情を隠し損ねたせいだろう、フェルドリックはついにくくっと喉の奥で笑い声を漏らし、ソフィーナの横へとやってきた。
それで余計に腹が立つ。自分が今感じているこの腹立ちも、おそらくは彼の計算の内だろうから、乗りたくはないのだが……。
「メスケルなら負けません」
オテレットはこちらに来てからフェルドリックに習ったこともあって、未だに彼に勝てたことがない。その手のゲームで他人に負けたことがほとんどなかったソフィーナには、かなりの屈辱だ。
悔し紛れに祖国発祥のゲームを引き合いに出せば、フェルドリックは明らかに作ったとわかる、悲しそうな顔をみせた。
「ふうん。確かに君はオテレットに関して、僕の“足元にも及ばなかった”けど。そうか、そんな手で約束を反故にしようとするのか。そんな卑劣な思考が出来るなら、次はきっと君に負けてしまうな」
(……いちいち嫌みっぽい)
眉をしかめながら、ソフィーナは頭1つ高い位置にあるフェルドリックへと目をやった。
「約束は守ります、王立美術館の特別展についての相談でしょう」
「そう、今日の午後1時から。館長が“カザックの威信をかけて”と意気込んでいて、宮殿の所蔵品を貸せとうるさいんだ」
それでこそソフィーナ、などと、にこっと笑って言うのがさらに憎たらしい。
その顔は相変わらず魅惑的で、ソフィーナは強く収縮した心臓に気付かないふりをする。
そういえば、演技に加え、自分の内心を見ないふりするのもうまくなった気がする。
「セントリオット子爵令嬢たちと観劇に行く約束しちゃったんだよ、助かった」
「相変わらずでいらっしゃいますね。いつか刺されたりしないよう、お祈り申し上げます」
何でもないことのように笑うフェルドリックに、ソフィーナは呆れて見えるよう、返した。
結婚した後も、彼は変わらずに様々な女性たちとの付き合いを続けている。
その中から第2、第3の妃が選ばれて、そしていずれ彼の子を、カザックの世継ぎを産むことになるのだろう。
(これは身の程をわきまえず、判断を誤った自分に、神か母が与えた罰――)
そう言い聞かせることで、痛みにも慣れてきたように思う。
「……」
目の合ったフェルドリックが、目元を柔らかく緩めた。
気のせいだ、と自分に言い聞かせながら、ソフィーナは窓の外へと視線を向ける。
青みを帯びていた王都の建物の数々が、徐々に朝日に染まり出す。オレンジを帯びた光に東半分が明るく輝き、逆側は濃い影を作る。
人が、馬が、動き出す。今日もカザレナは、皆それぞれが自分たちの営みを平和に開始する。
「……きれい」
目を細めてソフィーナは、その光景を眺めた。
じきにアンナが朝食を持ってその扉を叩く、それが早く来ないだろうかと願いながら。
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