第5話 初夜と契約

 質こそ悪くないものの、ハイドランドのソフィーナの自室と比べてなお、飾り気の少ない部屋にノックの音が響いた。


(オーレリア姉さまなら、もっと違う部屋が用意されるのかしら)

「……」

 カザックに来てつけられた壮年の侍女が出迎えのために扉に向かうのを、他人事のように見ながら、ソフィーナは埒もないことを考えた。


 ハイド城の彼女の部屋は、かわいらしい小物や美しい装飾できらきらしていた。整えているのは彼女本人ではなく、周囲の人たちだった。

 その部屋に憧れて真似ようとしたこともあったが、あの部屋は姉がいるからこそ完成するのだ、と悟って、結局諦めたこと思い出す。

 ソフィーナが同じことをしたところで、と周りが笑っていたことも、その時気付いた。


 カザックのこの城でフェルドリックをこうして迎えるのがそんな自分なのは、どう考えてもおかしい――幾度目かわからない繰り言を思いながら、ソフィーナは部屋の入口へと目線を向けた。


 侍女が音もなく扉を開き、フェルドリックが姿を現す。

「愛しい、私のソフィーナ、今日は本当に疲れただろう? 機嫌、そして体調はどうだい?」

 その辺の男性が口にすれば引くしかない内容だが、彼にはさほど違和感がない。ソフィーナはそれこそに引く。

 彼は胡散臭い笑顔のまま、ソフィーナが座るソファの横に腰を下ろすと、勝手に手をとって甲に口づけた。


「何かお飲みになりますか?」

「私はいい。ソフィーナは?」

「私も結構です」

 侍女からの問いを振り直してきたフェルドリックに、彼と同様に答えてしまって失敗を悟った。

(お茶でも用意してもらえば、時間を稼ぐことができたのに……)

 自分が相当動揺していることに気付いて、ソフィーナはナイトドレスのスカートを握り締める。

(ここからが正念場だ、落ち着かなくては)


「では、失礼いたします。おやすみなさいませ」

 退出の挨拶をしたさきほどの侍女が、ソフィーナから離れようとしないアンナにきつい視線を送って、共に部屋から出ることを促した。

「……」

 のろのろと歩き出したアンナがあまりに心配そうな顔を見せるので、ソフィーナは内心の緊張を押し隠して、控えめに笑い返した。



 二人きりになるなり、フェルドリックの顔から笑顔が剥がれ落ちる。

「で、機嫌と体調」

 面倒くさそうに言いながら、彼はソファの背に身を預けた。

(愛想どころか、語尾すらなし……この猫かぶりめ)

 ソフィーナは思わず彼に白い目を向けると、皮肉をぶつけた。

「少し疲れてはいますが、おかげさまで機嫌は最高です、フェルドリック殿下」

 結婚祝賀の場でフェルドリックの横にいる自分への睥睨や嫌味はある程度覚悟していたが、そんな可愛い嫌がらせでは収まらなかった。

 夫となったフェルドリックが庇ってくれるなどという期待は元々なかったが、予想を超えてひどい目に遭ったソフィーナは、隠しきれずフェルドリックを睨みつけた。




 フェルドリックはソフィーナとの最初のダンスを終えた後、申し込まれるまま、様々な年齢、地位の女性と次々に踊り、その間ソフィーナは完全に放置された。

 初めてで勝手がわからない上に、味方をしてくれそうなアレクサンダーは急な用事が出来たとかで帰ってしまって、知り合いは誰一人いない。

 予想していた通り、悪意をもろにかぶった。


 手始めはホーセルン公爵家の四女が、グラスを手にしていたソフィ-ナにぶつかってきた瞬間だ。目の動きが怪しかったので腕を体から離していて正解だった。

 彼女はその後殊勝に謝ってきたが、ソフィーナに被害がないことを確認した後、おもしろくなさそうに鼻を鳴らしたのをしっかり耳に入れた。


 次はフェルドリックの伯父で、アレクサンダーの父でもある、フォルデリーク公爵とダンスをしていた時。横で踊っていた女性に足を引っ掛けられた。

 彼が上手く助けてくれなかったら、転倒して大恥をかいていた。


 その次は、息抜きのために出た人気の少ないテラスで、扇を持った妖艶な婦人に相対した瞬間。年齢はソフィーナの倍、しかも既婚者のオンソルス伯爵夫人だ。

 たまたま彼女が扇子を取り落としたことで、「ただの扇子じゃない、骨が刃物状に研がれている」と異常に気付いて逃げたが、彼女がもしあれをソフィーナに向けていたら?

 ドレスが切り裂かれるだけならまだいい、下手をすれば大怪我だ。


 その他、身体に害のない、嫌みや当てこすり、見た目についての嘲笑は当たり前だった。

「野の草花を思わせる可憐さが」

とくすんだ髪と瞳を笑われ、

「親しみやすいお顔立ち」

と婉曲に“普通”であると匂わされ、

「フェルドリック殿下が、今回のご縁談をお望みになったと聞いていたのですが……」

「殿下のご趣味がソフィーナさまでは、確かに私どもなど太刀打ちできませんわ」

と彼の趣味の悪さをほのめかされ、

「ああ、だから噂のオーレリア姉姫さまではなかったのですね」

とどめに姉と比較されて、いっそ清々しくなるくらい貶められた。


「そちらのドレスは、ハイドランドの流行ですか?」

 邪気のなさそうなノノリア・コレクト侯爵令嬢の、暗に“質素過ぎるのでは”という疑問も、自業自得とはいえ痛かった。


 ソフィーナが身に着けていたのは、ハイドランドから持参して来たドレスだ。アクセサリーも同じく。

 その予算を決めたのも資金繰りをしたのもソフィーナ自身だ。

 兄が「もっと使いなさい。ハイドランドのためにも、君自身のためにも」と言って悲しそうな顔をしなかったら、ソフィーナは手持ちのドレスとアクセサリーだけで、嫁ぐつもりだった。

 父を始めとする多くの人たちが、ソフィーナの結婚準備を快く思っていなかったという理由もある。

 だが、一番はソフィーナ自身が人違いどころか、ハイドランドの人材を削ぎ、弱らせることだけを目的とする縁談に労力を使いたくなかった。

 夫となる相手に「着飾らせる必要がない」とまで言われたのだ。頑張って見栄を張ったところで、どうせ笑われるだけ。


「てっきりドレスなど、お贈りになられているものとばかり……フェルドリック殿下って、意外に気が行き届かれないのかしら……」

「あら、私のところには、バラの新種株のお礼にと、ケリアーヌの新作の耳飾りが届きましてよ?」

「そうですわね、些細なことでも流行や本人の趣味に合わせたお礼をなさる方よ」

(それはそうでしょう。だって「着飾らせる必要がないから」姉ではなく、私なんだもの)

 一人からは同情、残りの二人からは嘲笑を受けたが、気付かないふりをして、ソフィーナは母に叩き込まれた通り、自分の中では一番美しく見えるはずの微笑を浮かべる。

「では、カザックに早く馴染めるよう、色々教えていただけるかしら? ノノリアさまの指輪、本当に素敵です。アリューニさまのドレスも。ケアンニさまの靴はオーメルデのものですか?」

 ソフィーナは事前に頭に叩き込んだ令嬢たちの名を呼び、彼女たちがおそらく一番自慢に思っているだろう服飾を褒めた。善意ある人間からは良心を引き出し、そうでない相手は怯ませる。

「あ、ああ、そうですわ、きっと殿下のハイドランドへのご配慮ですわね。お輿入れに色々準備なさったでしょうし」

「……準備、ねえ。そういえば、ハイドランド国王陛下もセルシウス太子殿下もお見えではないようで」

「私、セルシウスさまにお会いできるのを楽しみにしておりましたのに。なんでもオーレリアさまに似て大層見目麗しい方だと」

(ノノリアは本人に悪意がなく、他者の悪意にも慣れていない。アリューニはソフィーナが祖国に気にかけられていないと察している。ケアンニは兄が「私に似て」と言わないあたり、正直ではある……)

 この中で一番の問題は、アリューニ・ノーベルブルグ。フェルドリック派の侯爵の娘のはずだ、とソフィーナは記憶を引っ張り出す。

(爵位的にも本人の自尊心を見ても、利用できるわ)

「兄もカザックを訪れたがっていたのですが、残念ながら外せない公務が立て込んでおりまして……いい加減身を固めたらどうかと、せっついているところなのです。皆さまにお会い出来たら、さぞいい機会になるでしょうから、その旨また手紙にしたためます」

「え、ええ、ぜひ。ソフィーナさまはセルシウスさまと仲が良くていらっしゃるの?」

「ずっとお手伝いしておりましたので」

 にこりと笑いながら、兄との絆を匂わせつつ、ソフィーナはその場をやり過ごした。


 ソフィーナを助けてくれるのは、離れた場所にいる兄だけ――そんなものだと納得しているはずなのに、心の中に真っ黒な滓が降り積もっていき、耐えきれなくなるたびに、ソフィーナは視界の端で楽しそうに女性と踊り、歓談するフェルドリックを人知れず睨みつけた。

 何が腹立たしいかと言って、彼がそれに全部気付いているようだということ。ソフィーナが睨むたびに、含みのある笑いを見せていたから。




(そもそもすべての元凶はこの人だ――)

「あなたが“お優しく”カザック社交界へのお披露目を“導いて”くださったお陰で、年頃のご令嬢から壮年のご婦人にまで、今までの経験にないほどの“歓迎”を受けました」

「役に立てたようで嬉しいよ。ついでに君がごく有能なこともわかって、とても幸せだ」

 だが、ソフィーナの当て擦りに、フェルドリックは蕩けそうな笑顔を向けてくる。

(嫌味と分かっていながら、ぬけぬけと“試した”と返してくる……)

 ソフィーナが耐えかねて、「……なんて性格」と漏らすと、フェルドリックは右の口端をニヤリと上げることで答えた。


 それから彼はおもむろに立ち上がると、ソフィーナに手を差し出してきた。

「……」

 思わずその手を凝視すれば、ため息とともに勝手に手をとられ、引っ張り上げられる。

「……」

 無言で彼が手を引いていく先には扉。その向こうが寝室だ。

 フェルドリックに引かれるまま、ぎこちない足取りで後をついて行きながら、ソフィーナは顔を強張らせる。

 扉が開かなければいいのに、という祈りむなしく、あっさりと室内へと引き入れられてしまった。


「……どうぞ」

 フェルドリックはひどく冷めた顔で、ソフィーナをベッドに座らせると、その横に腰掛けた。

「……」

 マットのたわみが伝わってきた瞬間、ソフィーナから完全に余裕が消えうせた。

 湯上りだろうか、肌はほのかに上気していて、妙な色気がある気がする。

 剣などは嗜まないという話なのに、平均より大分高い身長であっても、ひ弱さを感じさせないのが嫌味な気がした。


「……」

 顔に血が上りそうになるのを、ソフィーナはフェルドリックを観察することで何とか抑えようとする。

 ソフィーナにそういった類の免疫は無い。淑女の嗜みとか王女であるとか以前に、誰もソフィーナにそんな興味を持たなかったし、ソフィーナ自身まだ先のことだと決めつけて、敢えて遠ざかっていた。

 だが、ここで動転して流されてはいけない、またみっともなく恥をさらすことになる、と必死で自分に言い聞かせる。


「……」

 フェルドリックは急に真面目な顔をすると、ソフィーナの左頬へと右手を伸ばしてきた。ソフィーナをからかって笑っていた顔でも、皮肉な顔でも、冷めた顔でもない。

「……」

 その顔を見て、ソフィーナの頭にのぼりかけていた血が一気に醒めた。


「お待ちいただけますか」

 フェルドリックの手がソフィーナの声に応じて、頬の寸前で止まった。


(今の顔は真剣と言うより、したくもないことを義務でする、それ以外の顔じゃないわ……)

 まあ、知ってたけど、とソフィーナは内心で泣き笑いを零した。

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