第28話 子役時代3

 単調な高校生活を送り、受験の年。

 自転車に乗って、彼女は姉と買い物へ出掛けた。

 帰り道、坂道でバランスを崩して転び、姉が腕の骨を折ってしまった。

 骨を折った姉よりも青い顔をしていた彼女を、家族は笑っていた。


「もう。香乃のせいじゃないでしょう? お姉ちゃんが、自分で転んだんだから」


 痛みに顔を顰めながらも、姉は折れていないほうの手で、彼女の頭を撫でる。

 だがこの時、彼女の脳裏を占めていたのは別の思考。

 この出来事がきっかけで、初めて気が付いた。

 彼女が回避した出来事のしわ寄せが、別の誰かにいっている可能性に……。


 記憶を辿れば、思い当たる出来事は、いくつかあった。


 前の時、幼稚園児だった彼女は自分の周りをうろつく弟が疎ましくて、わざと突き飛ばして転ばせたことがあった。行動を起こした場所が悪く、弟は転んだ先にあったブランコの角に額をぶつけ、大けがを負った。

 だけど、今回の彼女はそんなことはしなかった。小さな弟は、ただただかわいい存在だったからだ。

 弟は大人になっても傷跡が残る怪我を負わずに済み、今回額に大けがを負ったのは、彼女のほうだった。

 撮影現場での事故だ。

 前の時に弟が怪我を負ったのと全く同じ箇所ではあったが、彼女は二つの怪我を関連付けたりせず、その時は、行動が変われば新しい出来事も起こるものだという事実を受け止めただけだった。


 二つ目は、親指の切り傷。

 前の時に怪我を負ったのは小学五年生の彼女で、古い家に住んでいた頃のことだった。

 祖父母が旅行で家を空けるからと、猫の餌やりを頼まれたのだ。その時、缶詰の蓋でざっくり親指を切ってしまい、両親と共に病院へ駆け込んだ。

 今回、新居へ引っ越したことにより祖父母との同居は解消されていたから、猫の餌やりを頼まれることはなく……。

 弟が親指をざっくり切り病院に担ぎ込まれたが、怪我を負った原因は、図工の授業だった。


 前の二つは、今考えればそうだったのかもしれないという程度。だが姉の骨折は確実に、前の時と今回で繋がりがあると確信できるものだったのだ。


 前の時、姉と彼女は二人乗りをしていて、彼女が自転車を漕いでいた。

 骨折により彼女はアルバイトが出来なくなってしまい、完治するまで働けず、大学費用の貯金が間に合わなくなり進学を諦める遠因となった。


 そのことが強く記憶に残っていた彼女は、二人乗りを拒否して、それぞれ自転車に乗ろうと提案した。骨折して仕事に迷惑を掛けることを避けたかったからだ。

 結果、姉が腕の骨を折り、バランスを崩して転んだ場所は、前の時と完全に同じ場所。


 これまで、誰かの命に関わる未来を変えたことはなかった。


 だけどこの先、彼女本人の、命に関わる未来を変えたいと望んでいる。

 彼女を殺した人物とは、もう出会いたくない。顔を見て平静でいられるはずもない。

 でも、そこを変えてしまえば、彼女の代わりに誰かが命を失うのかもしれない。


 急に、何もかもが恐ろしくなった。


 姉の骨折から数週間後。学校にいる時に、母からのメールが届いた。

 父の不倫について、確認する内容だった。


『香乃、お父さんのこと、何か知ってる?』

『何かって?』

『知っているなら、教えて欲しい。香乃が言う、前の時、お父さんはお母さんを裏切った?』


 涙が溢れそうになり、慌てて図書館から飛び出した。

 母がこんなメールを送ってきたということは、証拠を見つけてしまったのだろう。彼女はこの事については何も、誰にも、伝えていないのだから。

 罪を犯していない段階で断罪するのは、おかしいと考えたからだ。

 それに現状は変わっている。

 父が外へ安らぎを求める理由はなくなったはずだと思っていたのに……。


「どんなに頑張っても、変えられない未来はあるってことなのかな」


 涙が溢れて止まらなくて、誰でもいい、誰か助けてと、叫んでしまいたかった。


 気付いた可能性に対する答えを見つけられないまま時は過ぎ、彼女は大学へ進学した。

 とりあえず、決めたことはやり通したかった。それに、どれだけ考えても、自分を殺す相手との二度目の出会いなど経験したいとは思えなかった。


「夏季休暇中、香乃の予定は?」

「仕事。長期休暇に合わせて、撮影が入ってる」

「俺と海に行ったり……」

「しない。水着NG」

「なら、山でバーベキュー」

「虫が嫌いなの。人間の手が入った自然なら好き」

「ずっと撮影ってわけじゃないんだろ?」

「律」

「なんだよ? 俺たち友達なんだから、遊んでくれたって良くないか?」


 大学では、友人が出来た。

 一人は、同じ高校に通っていた男の子。時任律瑠ときとうりつるは、高校時代からやたらと彼女に絡んできていた。

 煩わしくて面倒だなと思っていただけの存在の、はずだった。


「私にこだわるのは、やめたほうがいい。律の想いは報われない」

「へぇ……そう?」


 するりと手を握られ、指が絡み合う。


「なら、そのかわいい顔、やめろよな」

「だから、免疫がないだけだってば!」

「この前、サークルで先輩に同じことされてたけど、笑顔でさらりとあしらってたのを、俺は見た」


 彼に触れられるのは、他の人にされるのとは違うという自覚はある。

 顔に熱が上って、瞳が潤んでしまう。

 どうしようもなく、胸が高鳴ってしまう。

 これが何なのかを彼女自身、知っている。

 だけど――彼の気持ちを受け入れるわけにはいかない。

 これ以上、他のものを抱える余裕は、彼女にはないのだ。

 恋に溺れる恐ろしさを知っている。

 彼女は自分が器用ではないのだと自覚しているから、恋に仕事に勉強と、多くのものを抱え過ぎればどれかを取り零す。恋は、彼女の目標に必要がないものだから、最初から手に取るつもりがない。

 だから早く諦めてほしい。でも彼の隣は居心地が良過ぎて、突き放しきれないのが現状。


 卑怯な自分を自覚して、日々、自己嫌悪に陥る。


「別に友達のままだって構わないんだ。俺はただ、香乃と一緒にいたい」

「……もっと、他の人との交流を楽しむべきだと思う」

「香乃以外とも交流してるよ。いろんなものを見て、知って、自分の世界を広げて、俺は香乃に追い付く」

「まだ、私を指針にしてるの?」

「まぁ、一人の人間として、立派な大人としていつか香乃に認められたいとは、思ってる」

「私、そんなに立派な人間じゃない」


 優しい眼差しを向けないでほしい。好きだなと、思ってしまう。

 彼に全てを打ち明け、寄り掛かってしまえたら、どれだけ楽だろうと考える。だけど、すぐにその思考は破棄され、一人で歩くという彼女の決意は、揺らがない。


「律は、私と会わなかったら今、何をしてたと思う?」

「起こらなかった可能性の話?」

「そう」

「そうだなぁ……高校三年間、学年一位を死守する努力は、絶対にしなかっただろうな」

「あれ、すっごい腹立った。万年二位の屈辱を、どうもありがとう」

「仕事と両立しながら学年二位を死守するほうがすごいと思うけど」

「律みたいな、社交的でなんでもできるみんなの人気者って人に負けるのが、屈辱」

「偏見だ」

「幻滅した?」

「期待を込めて聞かないでくれる? しないよ」

「残念。……他には?」

「勉強は、そこそこにやるだろ。入れる大学に行って、入れる場所で就職するだろうな」

「…………悲しいお知らせが」

「何?」

「私たちが大学四年になる年、内定取り消しが相次ぐ、就職氷河期がやってくる。ちょうど煽りを受ける世代だから、就活は気を付けたほうがいいよ。IT系は、やめるのが無難」

「え? どういうこと?」

「予言。大事な友達に、未来を知る私からの忠告」

「香乃、未来が視えるの?」

「視えないよ。私の知る範囲は、かなり狭い。株で少しだけ儲けるくらいしか使い道はない」

「株って……ズルじゃん」

「実はそうなの。でも、法に触れないズル。得体の知れない気味の悪い女からは、早く身を引いたほうがいいよ」

「大事な友達って言っておいて? 本当、自分勝手だよな。でも、それもわざとなんだろ? ムカつく」

「いたっ、いたたたた、鼻、曲がるっ、私は高額商品!」

「自分で言うなよ」

「だって事実だもの」


 摘ままれた鼻が解放されて、慌てておさえた。

 涙目になった彼女を見て、彼は笑う。


 彼の笑顔が、好きだと思う。


「最近、ポーカーフェイスが下手になった?」


 彼が言うには、高校の時の彼女は彼が何をしても、何を言っても、表情が変わることは皆無だったらしい。

 それを聞き、彼女は「違うよ」と言って、視線を落とす。


「高校の時はね、周りなんて見てなかった。それでいいって、信じてた」

「今は?」

「ちょっと自信が、無くなってる」

「どうして?」


 ちらり彼を見上げ、思ってしまった。


 少しだけ……弱音を吐いても、許されるだろうか……。


「私はね、未来を知ってるから。結末を変えたくて、頑張ってる」


 こんな話、きっと誰も、信じない。


「取り戻したいものがあるの。でも、そこに行くまでの道程の後悔も拾って、正したい。私は、欲張りなんだ」


 彼は何も言わない。何も言わず、じっと、彼女の表情を観察しているようだ。


「私にできることは、多くない。変えたくないこともあって。変えたかったのに、変わらなかったこともある。律みたいに、今回の私の選択が影響して、何かが変わった人もいる。……覚悟は、してたはずなんだ」


 人は、誰かとの出会いや関わりによって、自分を作るものだから。

 彼女が前の時と違う行動をすることで、良いことでも悪いことでも、何かしらの影響はあるだろうと、予想はしていた。


「今は少し……疲れちゃった」


 前の記憶と照らし合わせて、先回りしたり、助言したり。当人の思考力は奪いたくないから、伝え方にも気を遣う。

 姉が選んだ職業と弟が選んだ高校は、前の時と変わらなかった。

 だけど、まだ安心はできない。

 姪二人。あの子たちに再び会えるかは、まだ、わからない。


 不安がずっと……燻り続けている。


「――なんてね! 嘘だよ! 信じた?」


 冗談だ。嘘だ。そんなこと、あるはずがない。

 きっと彼は、そう思うはずだ。


 笑顔の仮面を被って振り向いた先。彼の表情があまりにも穏やかで……優しくて、心臓が引き裂かれたように、痛くなる。


「信じるよ」


 ただ一言。


 笑顔が、崩れる――。

 泣きそうなことに気付かれたくなくて、慌てて彼に、背を向けた。


「香乃」


 気配が近付いて、通り過ぎる。


「今日この後、予定は?」

「……ない。帰るだけ」

「それなら、海、見に行かないか?」

「海? どこの?」


 顔を上げた先、二歩分の距離を保った場所に、彼はいた。

 彼女のほうへ体ごと振り向いて、いつもと変わらない表情を浮かべている。


「どこでもいいよ。バイクでどこへでも、連れて行く」

「……友達としてなら、行く」

「友達以上になりたいって下心はあるけど、今は友達として誘ってる」

「下心、あるんじゃない」

「ないわけないだろ」

「……まるで、キープしてる悪い女だ」

「自覚があるなら、落ちてよ」

「無理。好きってなったら私、律しか見えなくなる。仕事も未来も全部忘れて、律のことだけを、考えたくなる。だけど完全に溺れることもできなくて、いろんなことが中途半端になると思う。私は、そんなに色々できない。恋愛に割く余裕が、今はない」

「今は、だろ? それなら今は、友達の俺と、気晴らしに行こう」

「…………行く」


 二人の距離は、その後しばらく付かず離れず、変わらない。

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