第26話 子役時代1

 気が付いて、彼女がすぐに行動を起こせたわけではない。


 目覚めの直後は、夢を見ているのだと考えていた。


 父と祖父の仲違いにより出て行く際、借金を少しでも減らすため、古い家が建っていた土地の大部分は売ってしまった。四分の一ほどの土地を残して祖父母が暮らすための小さな家を建てたのは、父の最後の親孝行だったのだろう。


 そういった経緯で失った家の懐かしい一室で、彼女は目を覚ました。


 隣で寝息を立てている姉と弟は、幼い姿。

 姉弟が幼い頃、朝の五時には仕事に出掛けていた父。寝室の隣の居間で身支度を整えていた彼の頭に白髪はなく、顔に皺もない。若い父は健康そうで、痩せこけてなどいなかった。


「香乃? 起こしちゃったか?」


 開けた引き戸の隙間から覗く彼女に気付いた父が、歩み寄ってくる。

 記憶の奥底に仕舞い込んでいた、大好きだった頃の父が、彼女を抱き上げた。


「……ぱ、パパ?」


 夢ならいいかと思った。

 懐かしい呼び方をして、甘えてみる。

 台所へ続く扉は開けられたまま。母が、父の朝食と弁当の支度をする微かな物音が聞こえる。


 これは、彼女が一番、幸せだった頃だ。


 死の間際に見るには最高の夢。


 父を見送る母は、一階には下りない。母はいつも二階の台所で家族を見送っていた。

 玄関と風呂場がある一階は祖父母のテリトリーだからだ。わざわざ下りて嫌な思いはしたくなかったのだろうと、一度大人になった彼女には理解できた。


「下、行ってくる」


 父を見送った後で、彼女は母に告げた。

 懐かしいセリフだ。幼い頃、彼女はよくそう言って、一階へ遊びに行っていた。


 全てが懐かしい。


 階段の踊り場の壁に掛けられた額入りのパズルは、どこかの風景。祖母が作ったそれは、いつまで飾られていたのだったか……。


 玄関ホールへ辿り着いた彼女に、犬が駆け寄ってきた。

 彼女が小学四年生の時に死んでしまった、祖母の犬。


「久しぶり。お前が私の、お迎えなの?」


 小柄なヨークシャーテリアを小さな両手でなんとか抱き上げ、奥に進む。

 次に聞こえたのは、猫の鳴き声。

 彼女の足元へ、するりと猫が擦り寄った。


「みぃちゃんも来てくれたの?」


 暴れそうになった犬を床へ下ろし、祖父母の部屋を覗くが、誰もいない。

 そこで思い出した。この頃はまだ、祖父母は二階の奥の部屋を寝室にしていたのだ。同時にあることに気が付いて、彼女は駆け出した。

 祖父母と叔母が使う一階の広い台所を通り抜け、背伸びをしてドアノブを回し、戸を開ける。

 そこには風呂場とトイレがあり、トイレの向かい側にある引き戸を開ければ――


「あらぁ、香乃ちゃん。おはよう」


 弟の小学校入学の直前に老衰で亡くなった、曾祖母。死の間際には、介助なしには歩くことができなくなっていた曾祖母が、そこにいた。

 幼いひ孫に笑い掛ける曾祖母は、着物に白い割烹着をまとい、狭い台所で朝食の支度をしているようだ。


「ひぃおばあちゃん……」

「早起きねぇ? 朝ごはんは食べた?」

「……まだ。パパを、お見送りしたの」


 幼い口調で話したのは、懐かしさに浸りたかったからだ。

 家族の中で誰よりも大好きで、彼女の絶対的な味方だった存在。どこよりも安心できた場所。


 しわくちゃの手が伸びてきて、彼女の頬を撫でる。

 見上げた曾祖母は、記憶より少しだけ、若い。


 台所の奥には、二部屋ある。

 台所の隣は狭い居間。その隣は仏間で、曾祖母の寝室だった。曾祖母が亡くなった後は、仏壇へ手を合わせにいくことも出来ないほどに散らかった、物置と化していた部屋。


 台所から続く居間のほうに、人の気配。


 引き戸は開けられたまま。視線を向けた先には、白髪で眼鏡を掛けた老人が座椅子に座り、新聞を読んでいる。


「ひぃおじいちゃん?」


 曾祖母よりも思い出が少ない、曾祖父。最後に見た彼は病院のベッドの上で、たくさんの管に繋がれていた。


「どうしたの、香乃ちゃん? どこか痛いのかい?」


 心配した曾祖母が彼女の前で屈みこみ、白い割烹着の裾で頬を拭ってくれる。


「夢をね、見たの。怖いことがいっぱいの、夢だったの」


 曾祖母と曾祖父がいるということは、自分は天国へ行けるのだろうかと、彼女は思った。


 心残りはある。愛犬は――モナは、無事だろうか。だが彼女と共にいないということは、生きている。そう信じたい。

 彼女がこつこつ貯めたお金と生命保険。それで、土地を売っても返しきれなかった両親の借金も、なんとかなるかもしれない。

 モナは、母が面倒を見てくれるはずだ。


 成仏する覚悟を決めた彼女へ、度の強い黒縁眼鏡を掛けたしわくちゃの顔が向けられる。

 無言で、手招きされた。

 曾祖父はそうだ、足が悪かったのだ。

 口数が少なくて、彼女たち姉弟がこの部屋へ顔を出すと百円玉を一枚ずつくれた。あの頃は、自動販売機のジュースを一本、それで買えたから。


「こっちへ、いらっしゃい」


 こんな声をしていたのか。すっかり忘れてしまっていたはずなのに、夢は曾祖父の声まで聞かせてくれた。

 涙を拭い、歩み寄った彼女へ曾祖父の右手が差し出される。開かれたそこに乗せられていたのは、縦長の青い箱。柑橘系の果物と商品名が書かれている。

 何度目かの「懐かしい」を、彼女は心の中で呟いた。

 中身は飴。この部屋で、曾祖父からもらって、よく食べていたのを思い出す。


「ありがとう」


 お礼を言って受け取って、一粒口へ放り込む。

 舌の上で、とろり溶けるオブラート。噛めばキャラメルのように柔らかい飴は、甘酸っぱい。


 目覚めてから初めて感じた、違和感。


 味がはっきりと感じられる。

 噛んだ感触が、鮮明過ぎる。


 夢ではなさそうだと気付くのに、時間は掛からなかった。


   *


 姪っ子二人の様子を思い出しながら、なんとか子どもらしく日々を過ごしつつも彼女は思考を巡らせた。

 新聞、テレビ、周囲の大人たちから得た情報によると、どうやら自分は過去へ戻っているようだ。

 夢じゃない証拠に、痛みはあるし怪我もする。確認のためにカッターを使い、母に悲鳴を上げさせてしまったのは、反省している。


 逆に、包丁でめった刺しにされて死んだ記憶のほうが、幼い自分が見た夢だったのではないか――とも考えた。

 だが、それは有り得ない。幼い子どもが見る夢では得られるはずのない知識や記憶を、彼女は持っているからだ。

 タイムリープとか、タイムスリップとか呼ばれる現象が起こったのだとして、幼い自分が大人の記憶を持っているというのは何故なのか。まるで、ロールプレイングゲームを一周クリアした後のシステム――『強くてニューゲーム』――みたいではないか。


「神様が、あぁして死んだ私をあまりにもかわいそうだと思ったとして」


 姉は幼稚園。家にいるのは一歳の弟と母。曾祖父と曾祖母は一階の奥の部屋で、他の大人は全員、仕事へ出掛けている。

 母は今、トイレ中。


「完全なリセットじゃなく、『強くてニューゲーム』にしたのなら」


 幼い弟に向け、彼女は語り掛ける。声に出すと考えがまとまりやすい。昔から、彼女はそうして思考をまとめる癖があった。


「金城家が迎える縁切りエンド。回避したって、いいよね?」

「うーあっ」

「そうかぁ、秀平もそう思うかぁ。秀平のことも、お姉ちゃんが助けてあげるからね!」

「ね、ね」

「美紅と一華が生まれないのは困るから、るぅちゃんの選択に影響を与えないように、慎重にやらないとね」

「るちゃ」

「金城家はこれから、様々なトラブルに見舞われるんだぁ。特にお金。じいちゃんの頭がおかしくなるのは、確か仕事仲間にお金を騙し取られてからなんだよね。おばあちゃんたちへの暴力も、それが原因。いや、そこは前からか? でもまぁ、それきっかけで、おばあちゃんが自分たちの老後を心配して、お父さんが借金背負うはめになって、それなのに不倫相手に毎月お金渡して、相手の子どもの大学費用払うんだよ。自分の子どもはお金がなくて大学諦めたのにね。秀平も、専門学校に行くために借りた教育ローンの返済が終わるまでは貯金できない生活が続くし……なんとか稼ごうとしてネットワークビジネスにハマったり、悪い女に騙されたり、散々な目に遭うんだよ。だから、やっぱりお金、なんとかしないと。今の私に株で儲けられる記憶があっても、元手がないなぁ…………」

「ね、ね」

「はぁい? 可愛い秀ちゃんは香乃姉が守るから、安心して大きくなってね」

「あぃ」

「約束」

「やぁく」

「そう。約束」


 小さな手を取り、小指を絡めた。

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