第23話 梅雨空の誕生日

 いつものバイブ音で、目を覚ます。

 律瑠は寝付きも目覚めもいいが、香乃は両方悪い。

 だが、この日は珍しく隣で眠る香乃が、ぱちりと目を覚ました。両手を伸ばして抱き付いてくる、おまけ付きだ。


「はぴば……」

「二回目だよ?」

「昨夜は日付けが変わった瞬間に言いたかっただけで、今が本番」

「誕生日に本番なんてあるんだ?」

「あるのです。朝ごはんも作る。お弁当は作らない」

「両方いらない。だから……」

「ぶっぶー」

「いてっ」

「朝からいかがわしい雰囲気禁止。今日はまだ金曜デース」

「誕生日だよ、俺」

「誕生日だし、今日は雨だから、駅までの送迎付きだよー」

「ありがとうございます。……朝から元気なの、珍しいな?」

「今日は絶対起きるって考えてたら、よく眠れなかった」

「起こせば良かったのに」

「なんでよ?」

「話し相手になった。話してると眠くなるだろ?」

「今日は仕事しないから、寝不足でも大丈夫」


 ぎゅうっと律瑠の体を抱き締めてから、香乃が起き上がる。

 ベッドから出る彼女を阻止して、もう少しまったりした時間を過ごしたかったが、怒られそうだから断念。


「律はもう少し、ゆっくりしてていいよ」


 お言葉に甘えて、再び体を横たえ目を閉じる。

 軽快な足音が階段を下っていき、モナが吠える声が聞こえた。


 香乃が残していった温もりを抱き締めてみたが、眠れそうにない。

 二度寝は諦め、律瑠も起きることにした。


 階段を下りるとコーヒーの香り。

 律瑠に気が付き、モナが尻尾を振っている。

 モナを抱き上げた後で確認したキッチンに香乃の姿はなく、風呂場のほうで水音がした。きっと顔を洗っているのだろう。


 カーテンが開けられた窓から見える外は、薄暗い。

 前日と比べて三度下がるという予報のとおり、肌寒く感じる。梅雨明けは、まだまだ先だ。


「明日は晴れるから、モナも外で遊べるぞ」


 モナに話し掛けながらローソファへ向かい、テレビを付けた。


 膝の上で目を閉じていたモナがぴくりと首をもたげ、律瑠の耳にも足音が届く。

 着替え終えた香乃がキッチンへ入っていくと、モナが慌てて追い掛けた。閉じられた柵の前でお座りして、尻尾を振っている。

 後ろ姿があまりにも可愛くて、スマートフォンを手に取り写真へ収めた。


「今日も一日頑張ってね! 帰りも迎えに来るから、時間わかったら連絡ちょうだい」

「わかった。香乃は昼寝してね」

「時間が余ったらね」


 どことなく、ウキウキそわそわした様子の香乃に見送られて、律瑠は会社へと向かった。


 一日が、ひどく長く感じた。


 何度も時計を確認して迎えた、昼休み。


「なんかお前、今日ずっとそわそわしてないか? 何かあるの?」


 向かい合って座った篠田から指摘され、律瑠は苦笑を浮かべる。

 周囲から見てわかるほどだったとは……午後は気を引き締めなくてはならない。


「実は今日、誕生日なんですけど、香乃が何か企んでそうで。早く帰りたいなと」

「二十九になるの?」

「はい」

「おめでとう」

「ありがとうございます」

「香乃ちゃんって、イベント好きなの?」

「全く、そんなことはありませんね」

「やだぁ。お前の誕生日だからっていう、自慢?」

「付き合ってから互いの誕生日をゆっくり過ごせるのって、今年が初めてなんです」

「うっそ。付き合って何年だっけ?」

「九年目です」

「流石に篠田さんもドン引きだよ。お前がイギリス行く前の期間は?」

「大学時代は友人を交えてで、その頃はあまり、恋人らしいことも出来なかったんです。社会人になってからは、香乃が仕事に本腰を入れていたので、電話をくれたぐらいですね」

「なんか本当……報われて良かったな」

「はい」


 結局、午後も顔が緩んで、時計を気にすることはやめられなかった。


 雨の中、自宅の最寄り駅で律瑠を待っていたのは、香乃の四つドアのコンパクトカーではなく、黒い軽自動車だった。見覚えのある車に近付き中を覗くと、想像どおりの人物が運転席にいる。


「お帰り、律瑠」

「どうして母さんが?」


 母からは誕生日を祝うメッセージが届いていたが、来るとは一言も書かれていなかった。


「私も遠慮はしたのよ? でも、あんたは絶対に喜ぶからって、香乃ちゃんが」

「藤四郎さんは?」

「香乃ちゃんと、ご飯作って待ってる」


 律瑠の母は、六年前に再婚した。今は佐伯寧々と名乗っていて、藤四郎というのは、母の再婚相手だ。

 再婚時、既に成人していた律瑠は再婚相手の戸籍には入らず、母の旧姓の時任を名乗っている。


「香乃が今朝浮かれてたのって、もしかして……プロの料理が食べられるから、じゃないよな?」

「そんなわけないでしょ! 香乃ちゃんが引退してからの一年、私たち二人で藤四郎さんのレストランに何度も食べに行ってるんだから」

「聞いてない」

「母にまで嫉妬しないでくれる?」

「母さんの着替えが、うちにあった」

「藤四郎さんは泊まってないからね? 私と香乃ちゃんって、お酒の好みが合うのよ~」

「九年目でやっと、香乃といちゃいちゃできる誕生日だと思ったのに……」

「言うと思った! そういえばあんた、孫はまだなの?」

「入籍してからな」

「早く会いたいわぁ、お孫ちゃん」

「香乃には言うなよ? 意外と気にするから」

「あんたにしか言わないわよ」

「……藤四郎さんとは、うまくいってるの?」

「まぁ、ぼちぼちよ。お互い似たような傷を持つ者同士だし。結婚相談所って、すごいのよ~、相性バッチリだって、時間が経つほどに実感するわ」

「無理に相手見つけて再婚なんてしなくても、俺が一生、面倒見るのに」

「嫌よ。私は息子の枷にはなりたくないの。それにね、第二の人生ってやつも悪くないわ。あとは孫が抱ければ最高ね」

「それは、もう少し待ってくれ」

「お式も楽しみだわぁ。香乃ちゃんみたいないい子、きっともう二度と出会えないわよ。幸せにして、あんたも幸せになりなさい」

「……うん。ありがとう」


 香乃から預かっていたのだろう。運転席に座ったままリモコンを操作して、寧々が駐車場のシャッターを上げる。

 屋根の下に車を停めて、二人は家の中へと入った。

 モナが引き戸を引っ掻く音がして、曇りガラス越しに姿が見える。

 戸が開き、香乃が顔を出した。


「おかえり! 寧々さん、お迎えありがとう」

「お安いご用よ」


 玄関ホールで手を洗い、寧々は「おばあちゃんと遊びましょう」などと機嫌良く笑って、モナを引き連れ引き戸を潜る。

 律瑠を出迎え満足したモナは、寧々について駆けて行った。共に過ごした時間の差を感じて、一抹の寂しさを覚えてしまう。


「モナは寧々さんにすっごく懐いてるんだよ。書斎に部屋着を置いといたから、着替えておいで」

「母さんは、猫派だと思ってた」

「両方好きだって。私も、猫も好きだけどね、くしゃみが止まらなくなっちゃうんだよ」


 律瑠について香乃も書斎へ入り、着替えの手伝いをしてくれた。


「はい! これ付けて!」

「え、え~……何、このパーティーグッズ」

「鼻眼鏡もあるよ」

「可愛い。写真撮らせて」

「後でね」


 香乃が笑顔で差し出したのは「オレが主役」と書かれたタスキ。カラフルな三角帽子まであるではないか。


「なんだか楽しくなぁい?」


 無邪気な笑顔を向けられて、拒否する気にはなれなかった。


 アラサーの誕生日にしては浮かれた格好となった律瑠がLDKへ入ると、ダイニングテーブルにはご馳走が並べられていた。

 寧々の再婚相手である藤四郎は、イタリアンレストランのシェフをしているのだ。


「お邪魔してるよ」

「すみません。香乃が無理言ったんじゃないですか?」

「そんなことはないよ。僕には子どもがいないからね。まるで娘が出来たみたいで、とても楽しんでいる」


 娘ではなく出来たのは息子なのだが……言わないでおく。律瑠の家族に香乃が馴染んでいるのは、とても嬉しいことだから。


「藤四郎さんに教えてもらって、プリンを作ったんだよ! だから、デザートの分も考えて食べてね」


 家族四人で囲む食卓は賑やかで、とても楽しかった。


 寧々が再婚して一年も経たない内に海外赴任が決まり、律瑠が藤四郎と親子関係を深める時間は、ほとんど取れなかった。

 年末年始の休暇には毎年帰って来ていたが、藤四郎の店が書き入れ時で、律瑠も、香乃や友人たちと過ごすことで休暇は終わってしまっていた。

 どうやら、律瑠の代わりに香乃が新しい父との交流を深めてくれていたらしい。


「香乃、ありがとう。すごくいい誕生日だ」


 感謝の言葉を伝えると、香乃は、心底嬉しそうに破顔する。


「前に律、家族で誕生日するの、羨ましいって言ってたでしょう? これからたくさん出来るね」


 いつそんなことを言ったのだろうと記憶を辿り、思い出した。

 香乃の家では、両親の誕生日にはみんなでケーキを食べるという話を聞いた時だ。律瑠の家では、いつでも父が不在だった。


「おめでとう、律瑠くん。これは僕からの誕生日プレゼントだよ」

「お母さんからは、これよ! ちゃんと使うのよ~」

「ありがとう。……父さん、母さん」


 照れ臭いが、言って良かったと思った。二人が瞳を潤ませ、嬉しそうに笑ったから。


「私からもあるよ」


 こうして毎年、宝物が増えていく。

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