第22話 大学時代の二人3

 自宅へ戻ると、母の寧々が律瑠を待ち構えていた。

 金城香乃のことを聞きたいのだろうとは察しが付いたが、一旦、気持ちを落ち着けなければ、八つ当たりしてしまう。

 律瑠は母がいる居間を通り抜けてキッチンへ行き、水道水をコップへ注いで一息で飲み干した。


「どうしたの?」


 母の声に振り向き、律瑠は顔をしかめる。


「喧嘩した」

「なんで?」


 話してごらんと座るよう促され、律瑠は素直に、居間での自分の定位置へと腰を下ろした。


「彼女が、変なことを言い出すから」

「なんて?」

「俺の隣は居心地がいい、唯一の友達だなんて言った後で、友達をやめたいって」

「それって、ラブ方面に移行したいって話じゃないの?」

「全然違う。……裏切られるのが怖いとか言うんだ」


 思い出せる限り、律瑠は先ほどの彼女との会話を母に話す。

 誰でもいい。何か助言が欲しかった。


「香乃ちゃんって、これまで誰かに裏切られたことでもあるのかしら?」

「……友達は、みんな自然と離れていったらしい。彼女には、俺以外友達がいない。それと父親が不倫中」

「まぁ! 男って最低よね!」

「俺も男」

「律瑠は裏切られる側の気持ちを知ってるから、絶対にしないでしょう?」

「しない。けど、彼女に『俺は裏切らない』って、言ってあげなかった」

「どうして?」

「だって、言葉で言われたって信用出来なくないか? そこまで長い付き合いでもないし、俺なら信じない。軽々しくそんなこと言う奴なんて、胡散臭いじゃないか」

「一理あるわね。……お母さんはねぇ、香乃ちゃん、脈ありだと思うの!」

「適当なこと言うなよ」

「適当じゃないわよぅ! だって香乃ちゃん、嫌がらずにあんたの後ろに乗ってたじゃない? バイクの後部座席なんて、密着よ? 運転手に命丸投げなのよ? 私だったら、信用してない男が運転するバイクになんて乗りたくもない」

「彼女は……普通じゃない」

「そぉ? 硬くて高い壁の向こうには、案外、普通の女の子がいるかもしれないわよ?」

「……とりあえず、好きなのも、友達もやめないって宣言して帰ってきた」

「いいんじゃない? 本気の恋なら、頑張りなさい」

「頑張る」

「あ、でも、本気の拒絶との見極めは大事!」

「それってさぁ……金城さんが相手だと、至難の業」

「女優って、普段も演技するのかしら?」

「彼女はしそう。……てか、してると思う」


 次の日は案の定、彼女は雲隠れ。

 いつも彼女が昼食を取る時間の食堂にも、部室にも、姿が見当たらない。


「時任くん」


 次の候補地へ探しに走ろうとした律瑠を呼んだのは、部室で昼食を取っていた同学年の女の子。教育学部だと、自己紹介で言っていた。

 名前は確か……清水京香。


「さっき金城さんが、会館のカフェテリアで時任くんのオトモダチに囲まれてたけど。あなたって、金城さんの壁役なのかと思ってた」

「やっぱりそっちか! ありがとう!」

「……喧嘩?」

「うん。ちょっと、避けられてる」

「ふーん。彼女も喧嘩、するんだね」

「金城さんだって、普通の女の子だからね」


 言ってから、気付いた。

 律瑠も彼女を、芸能人という色眼鏡で見てはいなかったか。少し妙な言動をしたって、そういうものだと、勝手に考えていたかもしれない。


 部室から飛び出し、律瑠は走る。

 会館のカフェテリアは、部室がある建物のすぐ隣。


 入口へ駆け込んで、ぐるりと見回す。

 彼女がいる場所は、すぐにわかった。


 同時に、清水京香が「オトモダチ」と言った意味も理解する。

 恐らく嫌味だったのだろう。経済学部の講義で見掛けたことのある生徒たちが、彼女を取り囲んでいた。

 周りは楽しそうに何かを話すが、彼女は愛想笑いも浮かべず、手元の本を読んでいる。


「かのんちゃん。彼、来ないねぇ?」

「やっぱり二人って、付き合ってるわけじゃないんだよね?」

「ならいいじゃん。俺たちとも遊ぼうよ!」

「芸能人と友達とか、自慢できるよなぁ」

「一緒に写真撮ろー」


 そんな会話が聞こえた。


 息を整え、律瑠は、その集団に歩み寄る。


「香乃。お待たせ」


 弾かれるように向けられた視線。

 彼女の視線も、律瑠へ注がれた。

 男の比率が高いのが癇に障る。全員、純粋な友達志願者ではないのだろう。『白金かのん』の持つネームバリューは、過ぎるほどに、価値がある。


「話の途中で悪い。俺たち、これからサークルの集まりがあるんだ。――香乃、行こう」


 律瑠は彼女へ向けて、手のひらを差し出した。

 無理矢理連れ出すことはしてやらない。選ぶのは、彼女だ。


「律っ、遅かったね」


 律瑠の手を取り、彼女は席を立つ。


「ごめんなさい。私、かなりの人見知りで。不特定多数の人が集まる場に行くことも、事務所から止められているので」


 気弱な少女を演じている。

 やはり、彼女はプライベートでも躊躇わず、本来の自分とは違う人間を演じるようだ。


「律とは古い付き合いで……。彼、事務所が依頼した、目付役なんです」


 自然な動作で離れていこうとした手を、ぐっと掴む。彼女は笑顔を保っていたが、指に力を入れて律瑠に報復しようとしているようだ。

 力が弱過ぎて、全く痛くはなかったが。


 その場を取り繕い、二人はカフェテリアを後にした。


 律瑠が前を歩き、彼女の手を引いて運動場の方角へ向かう。

 外なら人が近付けばすぐに分かるし、程良く騒がしい場所なら会話を邪魔されない上に、周囲へも声が届きにくいのではないかと思ったからだ。


「ねぇ、手」

「誰に言ってるの?」

「手、離して」

「香乃」

「な、何よ?」

「これからはずっと、香乃と律って呼び合わないとね。あいつら、口の軽い人種」

「あ、あなたが突然『香乃』なんて呼ぶからっ、咄嗟に合わせようとして、噛んだの!」


 どうやら、律瑠と言おうとして噛んだ結果、『律』になってしまったようだ。


 珍しいことに、彼女の声が動揺していた。


 思わず足を止め、律瑠は振り向く。

 恥ずかしそうに律瑠から視線を逸らしている彼女の頬が、赤く染まって見えた。


「香乃って、いきなり、何?」


 手を繋いだまま、向き合った二人。

 いつでも涼しい顔をしていた彼女が動揺している様を、律瑠はまじまじと観察する。


「マウント取りたくて。そんなことより、さっき俺の顔見て、ほっとしてた?」

「してない」

「そぉかぁ? 俺には、あからさまにほっとしたように見えたけど」

「……来るなんて思わなかったから、驚いたの」

「昨日、喧嘩したから?」

「私なら、たまたま見掛けたって助けない」

「助けてほしかったの?」

「別に。あそこで席を立つのは、負けた気がして嫌だっただけ」

「負けず嫌いだなぁ。本当そういうとこ、かわいい」

「~っ、気安くそういうことを口にしないで!」


 今度は完全に、赤くになった。

 これは脈ありと、期待したくなるではないか。


「ちがっ、これは、慣れてないだけでっ」


 自分の顔に熱が上っている自覚はあるようで、彼女は空いているほうの手で顔を隠した。


「テレビの中で、たくさん言われてるよな?」

「あれは仕事で、今のは――」

「今のは?」

「なんでもない! それより手! いつまで握ってるの?」


 そうだなぁと言って、律瑠は微笑む。


「これからも『律』って呼んでくれるなら、離すよ」

「嫌」

「俺って、事務所から依頼された目付役だったんだ?」

「恋人だなんて勘違いされたら、あなたが大変でしょう?」

「俺が? 自分は?」

「私は、そういうのも覚悟の上で今の仕事をしてるから。それに、アイドルじゃないし」

「ふーん……」


 わざとやっているのだろうか。それとも無自覚なのか。

 律瑠の立場を考え咄嗟に吐いた、彼女の嘘。いくら都合良く考えないように努力しようとも、あの発言は、律瑠がそばにいることを許容しているように聞こえた。


「香乃」

「……何?」

「腹減った。昼飯、付き合ってよ」

「私はもう食べた」

「いいじゃん。本読むなら、どこでだって。俺が近くにいれば、さっきの奴らみたいのも話し掛けづらいらしいよ」

「そうなの?」

「俺が威嚇するからね」

「猫なの?」

「猫なの」


 彼女の表情が和らいだのを確認して、律瑠は歩き始める。向かう場所は、いつもの食堂だ。


「り――律っ」

「え、何? 俺の心臓止めようとしてる?」

「手、離して」

「あぁ、はい」


 手を離し、咄嗟に万歳のポーズ。

 何故か、彼女が笑いだした。


「出会ったことのないタイプ」

「誰が?」

「あなたが」

「あなたって誰? 律のこと?」

「うるさい」

「あははっ」


 今はこれで満足だ。

 友人として言葉を交わし、隣を歩く権利を得られただけで、十分。


 だけど、いつかは――。

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