第19話 祝杯

 律瑠が風呂から上がると、モナを抱いた香乃が機嫌良く、くるくる回っていた。

 階段前のスペースを広く開けたのは、雨の日でもモナが運動できるようにするためだったのだが、まるで、香乃とモナ専用のダンスホールのようだ。


「……香乃。酔ってる?」


 脱衣所から出てすぐのそのスペースで踊られていては、無視できない。

 香乃は「んふふふふ」と、明らかに酔っ払いの笑い方をしながらキッチンカウンターへ向かう。


「あ! こんなに飲んだの? 俺が風呂入ってから三十分も経ってないだろ!」


 香乃が手に取ったシャンパングラスの横にある瓶。中身が半分以上、無くなっていた。


「ん~? これはぁ、炭酸水」

「絶対、違うからな?」


 律瑠も見覚えのある瓶は、香乃がお祝いの時に飲むのだと言っていたスパークリングワインだ。

 留美の出産報告の時に開けなかったそれを今日開けたということは、香乃にとっては、姪である美紅と再会できた今日が祝うべき日だったということなのだろう。


「りっくんも飲みます~?」


 腕の中のモナを床に下ろし、香乃は用意していた空きグラスへ酒を注ぐ。

 床へ下ろされたモナはダイニングテーブルを通り過ぎ、ローソファの座面で寝そべった。テレビから一番近いそこは、リビングでのモナの定位置だ。


「かんぱぁい」


 風呂上がりに飲むには度数が高い酒に、律瑠も口をつける。香乃と同じ飲み方をすれば自分が先に潰れるとよくわかっているから、一口味わうだけにしておいた。

 対して香乃は、グラスの中身を一息で飲み干す。


「からっぽ」


 ぺろりと唇を舐め、酒を取りにキッチンへ向かう。


「つまみは?」

「ん~……律が怒るから、少し食べる」

「用意する。次は何飲むの?」

「赤ワインかなぁ。フルボディな気分~」


 意外にもしっかりした足取りの香乃が、キッチンの奥にあるパントリーへ入っていく。

 律瑠は冷蔵庫を開けてレバーペーストを取り出し、少量を小皿に移した。

 夕飯は済ませたが、香乃はあまり食べなかった。最初から飲むつもりだったんだなと、内心、苦笑を漏らす。

 クラッカーとナッツの小袋、キャンディのように包まれたチョコレートをトレーに載せたところで、ワインの瓶を手に香乃が戻って来た。


「りっくん、赤ワイン用のグラスをちょ~だい」

「はいはい。コルク開けてグラスと一緒に持って行くから、座ってて」

「あいあいさー!」


 元気のいい返事の後で、香乃が柵を開けてキッチンから出ていく。ローソファにいるモナのもとに辿り着くと、律瑠のいる場所からは香乃の姿が見えなくなった。

 キッチンカウンターの上につまみの乗ったトレーと瓶とグラスを置き、律瑠はキッチンから出る。

 手ぶらでローソファまで行き、普段は壁に立て掛けてあるミニテーブルを出した。

 香乃は、仰向けで眠るモナの腹に顔を埋めている。右手がわしゃわしゃと毛むくじゃらの脇腹を撫でているから、眠ってはいないようだ。

 酒とつまみをミニテーブルの上に置き、モナの尻尾のようにパタパタ動いている香乃の足の隣へ律瑠は腰を下ろす。

 香乃がむくりと起き上がり、ワイングラスを手に取った。

 二度目の乾杯の後で、二人はグラスを傾ける。


「はぁ……酒がうまい」


 胡坐をかいて、背凭れに寄り掛かりリラックスした香乃が笑みを零す。


「美佐の長女が留美、留美の長女が美紅。女の子が生まれたら、るぅちゃんは、お母さんから受け継いだ『美』っていう字を使いたかったんだって」

「……美紅の『紅』はどんな意味なの?」

「赤い糸。家族みんなを繋ぐ、赤い糸なの。美紅が生まれる前はね、あー……前の時、なんだけど、お父さんの借金とか浮気とか色々あったからさ、うちって喧嘩ばかりしてたの。だけど美紅が生まれてから、喧嘩はほとんどしなくなった。子どもって、何でも口に出すじゃない? どうして一緒にご飯食べないのーとか……『美紅はじぃじ好きよ。香乃ちゃんは?』って。私たち姉弟が育った環境と同じものを見せたらダメだって、気付いて。それで私は、お父さんを許す決心がついた」


 赤いワインをぐっと飲み干して、香乃が瓶へ手を伸ばした。

 律瑠が先に瓶を取り、グラスに注いでやる。

 お礼の言葉の後で、香乃はまた唇を舐めた。ワインを飲む時の、彼女の癖だ。


「彼の思考を理解はできなかったけどね。今もまだ、わからない。でも、あの人は私の父親で……姪っ子たちの、おじいちゃんだから。自分の祖父母と絶縁状態になって、生きてるのか死んでるのか確認できなくて、私はそれが、つらかった。もっと、できることがあったんじゃないかって、後悔もした。だからこそ、次の世代に同じものを背負わせたくなかった。……今回は、上手くいってたの。だからお父さんは、私を恨んだって、仕方ないんだよ」


 手元のグラスから隣へ視線を移すと、香乃の瞳は、律瑠を映していた。

 昼間のことだと理解したが、返す言葉を見つけられない。律瑠は省吾の所業を、前の時も今も、両方を香乃から聞いて知っている。


「お父さんとの関係と一緒。ほど良い距離を保っていれば悪い人たちではなかったから、だから、距離を取る必要があった。それでね、最悪なことに私は、おじいちゃんとおばあちゃんの死に安堵した。お葬式に出られて良かったって、思った。……サイテー」


 自嘲するような薄笑いを浮かべて、ワインを煽る。


「それは香乃が、前の時の、酷くされた時の記憶を持っていたからだろう?」

「そうだけど、今回の彼らは私たち姉弟にとって、そこまで悪い存在にはならなかった。お父さんだって、前の時ほどは、酷くない。私が勝手に引き摺って……。お父さんは多分、私が彼に向ける感情に気付いたの。幼い娘から、心当たりのない負の感情を向けられて……かわいそう。心の底では結局、私は、許してなかったんだ」


 唇を舐めた後で、香乃はクラッカーに手を伸ばす。レバーペーストを付けて、クラッカーを齧った。


「律には、お父さんがしたことだけじゃなくて、『私が彼にしたこと』も覚えておいてほしいの。上手に接してなんて言わない。だけど多分、そのほうが、律の気持ちが楽になるんじゃないかな」

「俺の、気持ち……」

「そう。『お前が悪いんだろ』よりも『お互い様だよね』なら、腹の立ち方も変わってくる」


 腹の底から噴き出そうになった感情が何なのか、律瑠は考える。

 怒りに近い、だけど、悲しみにも似ているそれ。

 律瑠は一度大きく深呼吸してから、香乃の瞳を見返した。


 香乃の瞳は、凪いでいる。


「覚えておく」

「ありがとう」


 それ以上、香乃はそこのことについては何も言わず、律瑠も蒸し返すことはしなかった。


 レバーペーストを付けたクラッカーを完食した香乃は、また一息で酒を飲み干して、次はチョコレートへ手を伸ばす。


「ペース、早過ぎない?」

「もう少しだけ。気分が高揚してて、眠れそうにないの。律は、眠い?」

「俺はまだ平気。……付き合うよ」

「眠くなったら言ってね」

「香乃は、このまま寝てもいいよ」


 赤ワインで満たされたグラスを持って、香乃は体を傾けた。律瑠の肩へ頭を乗せ、今度はゆっくり、舐めるようなペースでワインを味わう。


「リセットされたせいで無くなっちゃったから、また、たくさん写真を撮らないと。三年経ったら一華いちかが生まれる。美紅と一華はね、モナと仲良しなんだよ」


 先ほどまでとは違って、とても楽しそうな声だ。


「二人は赤ん坊の時からモナと遊んでたから……美紅は特に、動物が好きな子だったの。一華が生まれる前だったかなぁ、家族みんなで牧場に行ってね。物怖じせずに大きな牛に向かっていくもんだから、私とハジメさんで大慌て。兎とかヒヨコも好きで、触れ合い動物園が大好きだった。私のスマホの中身はね、モナと美紅と一華の写真ばかりだったんだ。……私は、子どもが好きなわけじゃない。だけど大好きな姉の子どもって、かわいらしさが桁違いなの」

「そうなんだ? 俺は一人っ子だから、それは味わえないな」

「律は元々、子どもが好きでしょう?」

「かわいい子は、好きだよ」

「博愛主義ではないと?」

「そういうこと」

「でもきっと、自分の子どもはかわいいんだろうね?」

「そうだね。でも……男の子は少し、嫌だな」

「妬くとか言わないでね」

「妬くよ。香乃にとっては異性じゃないか」

「想像してごらん」

「うん?」

「律がまた、バイクを買うでしょう? ガレージで整備してるところに、息子が来る」

「うん」

「瞳を輝かせて、一心に見つめてくるの。その内、会話も弾むようになって、一緒にツーリングにも行っちゃう。女の子は油の匂いとか、嫌がるかも。そういう風に育てたわけじゃなかったのに、美紅はかわいいものや、いい匂いが好きだったよ」

「……パパ臭いとか言われたら、立ち直れない」

「息子と一緒に、強く生きて!」

「まぁ本当は、香乃と俺の子なら、男でも女でもかわいいと思うんだ」

「私も、そう思う」


 香乃がグラスを傾けて、ぺろりと唇を舐めようとするのを止めて、口付ける。ワインの味を舐め取って、律瑠は微笑んだ。


「明日は日曜だよ」

「……知っていますが」

「モナもほら、寝てる」

「モナはほら、一日のほとんどを寝て過ごす動物だから」

「嫌い?」

「嫌い……ってわけじゃ、ない。けど……慣れない」

「いつまでも初々しいままって、堪らないな」


 爽やかな笑顔で言い放ち、律瑠はテキパキと片付けを始める。

 飲み掛けのワインの瓶に栓をして、食べ掛けのつまみにはラップを掛けた。

 香乃は立ち上がらず、爆睡中のモナのお腹を左手で撫でながら、グラスに残ったワインをゆっくり消費する。


「このワイン、おいしい」

「うん。そうだね。ここででも、いいよ」

「やだ! モナは私の娘なんです!」

「モナ~。お部屋で寝ようね~」


 律瑠にモナを攫われて、香乃は観念して、グラスの中身を空にした。

 モナをベッドへ寝かしつけ、戻って来た律瑠に、空のグラスも奪われる。


「お手柔らかに、お願いします」

「香乃がかわいさを抑えればいいんです」

「かわいさなんて出してない」

「無自覚なら、無理だね」


 二人の夜は、まだ、これから――。

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