第18話 家族

 律瑠とハジメが外へと出て、室内に残された家族は無言だった。

 音量を絞ったテレビからは、旅番組が流れている。これは省吾が好きな番組で、省吾の視線は産まれたばかりの孫ではなく、テレビへと注がれていた。


 彼が不器用な人物だというのは、家族の共通認識だ。だが腹を立てるかどうかは別の話。


「お父さんって、どうしていつもそうなの?」


 留美が静かに、言葉を吐いた。


「あのまま、あの家に住み続けて、おばあちゃんの言いなりに借金を背負うことが、本当に良かったって思ってるの?」

「るぅちゃん。怒ると体に良くないよ」


 香乃が駆け寄って、留美の背を撫でて宥めようとする。だが留美は涙を浮かべて、妹を見上げた。


「香乃も。どうしていつも、黙って全部背負い込んじゃうのよ」


 何も言わず、香乃は困ったように微笑んだ。


「俺は、あの家を出られて良かったよ。あそこは……嫌だった。香乃姉が未来を知ってたから、悪い未来を変えてくれたんじゃないかって思ってる」


 秀平も、いい機会だからと自分の考えを口にする。

 だが省吾は、ふんと鼻を鳴らした。


「未来を知ってたんならどうして、大勢の赤の他人は助けて、自分の祖父母は見殺しにしたんだよ」


 父親からの鋭い視線に射抜かれ、香乃の笑みが凍り付く。

 見殺しにしたわけではない。香乃が知っている未来では、四年前の震災で倒壊することなどなく、あの古い家で暮らしていた家族は全員、無事だったのだ。

 だけど香乃の選択の結果が祖父母の死を招いたことは、否定出来なかった。


「――お父さん、忘れちゃったの?」


 赤ん坊を抱いた美佐が、静かに夫へ告げた。

 ゆっくり体を揺らしながら、彼女は手慣れた様子で赤子をあやしている。

 何をだという無言の問いへ、美佐は潤んだ瞳を向けた。


「あの、ニュースになった動画。あれが世間様の注目を集める前に、律瑠くんが電話で、教えてくれたじゃない」

「……律が? 何を話したの?」


 留美の隣で床へ膝をついた状態のまま、香乃は驚きが隠せない。


「香乃の額の怪我、前の時は、二歳の秀平が負うはずだった。秀平の親指の傷は、前の時は香乃が負った傷。短大の時に留美が腕の骨を折ったでしょう? 前の時は、香乃の怪我だったんだって。香乃はそれを、自分が変えた未来を世界が修正しようとしてるんだって考えて、悩んで……悩んで。体を壊すほどに悩んで。……知っているのに何もしないまま、見殺しにした罪悪感を背負うか。世界が修正する力なんて杞憂かもしれない可能性に掛けて、出来ることをした上で後悔するか。香乃は選んだんだって。律瑠くんと一緒に、選んだのよ? 選んだ結果、変わってしまった未来で、香乃に何が出来たというの? 過程にも、結果にも、誰より苦しんだのは香乃なのに。……責めるのは、簡単ね。だけど親なら、一緒に背負ってあげるべきなんじゃないかしら」


 省吾は何も答えなかった。ただ、テレビ画面へ視線を投げていた。


「前の時って、律瑠くんもこの前言ってたけど、それって、どういう意味なの?」

「律は、るぅちゃんに何を話したの?」

「何にも? ただ、『前の時と聞いて思い当たることはありますか』って。香乃にそういう不思議な力があるんだっていうのは例の動画で知ったけど、そこまで細かく、知ってたの?」


 香乃は何も答えず、顔を俯ける。


「そっか。姉ちゃんはあの時、部活でいなかったんだ」


 一人、得心がいったという風に秀平が呟いた。


「あの時って、何?」


 興味を惹かれ、留美が首を傾げる。


「香乃姉が、じいちゃんたちの家から出るのを提案した時。その時に一度だけ、香乃姉は『前の時』の話をしたんだよ。香乃姉は今の人生を一度、生きたんだって。だから、あのまま一緒に住み続けたら家族が崩壊するって言ってた」

「えー……どうして私がいない時だったのー?」


 留美が上げた不満げな声。嫌悪は欠片も混じっておらず、本当にただ、残念そうだった。


「……るぅちゃんは」


 口を開いた香乃へ、省吾を含めた全員の視線が向けられる。


「前の時も、幸せだったの。お父さんたちのことは何とかしたかった。だけど、るぅちゃんの未来は、変えたくなくて」

「俺に伝えたってことは、前の時の俺の状態は、あんまり良くなかったってこと?」


 香乃の首が、縦に動いた。


「私しか、知らないから。私にしか出来ないから。だけど正しいのかなんてわからなくて……美紅が産まれて、本当に良かった」


 家族の前で香乃が泣くことは、これまでなかった。

 テレビの中でしか、見たことがない。


「ずっと隠してきたのに、どうして今、話してくれる気になったの?」


 両手に顔を埋めた香乃を、留美がそっと抱き寄せる。


「それは……私の知っている未来が、残り少ないから。るぅちゃんがハジメさんと出会って、美紅も産まれた」


 言葉の意味を考えて、家族全員の動きと思考が、一時停止した。


「ん? ちょっと待って。なんか不穏?」


 留美が右へ首を倒し


「少ないって、いい意味? 悪い意味?」


 秀平は左へ首を倒した。

 姉と弟に向けて、香乃は微笑む。


「私は、律と新しい人生を生きるって決めたから。未来であり、過去でもあった記憶にこだわるのはもう、おしまいにするの」


 頬を濡らした涙を自らの両手で拭い、香乃は立ち上がった。


「過程も結果も、後悔も罪悪感も、全部背負って私は前を向いて歩くって決めたんだ。だけど……おじいちゃんとおばあちゃんを守れなくて、ごめんね、お父さん」


 モナが柵を引っ掻く音が聞こえ、香乃はモナの部屋へと向かう。ドッグランで遊んだ後で、帰って来たことを主張しているのだ。


「おかえり、モナ。たくさん遊んでもらった?」


 律瑠とハジメは玄関へ向かったのだろう。ドッグラン側の引き戸が施錠されている。

 香乃はスライド式の柵を開けてモナの部屋に入ると、おやつを取り出した。いつもの流れで、モナへ運動後のおやつを与える。


「あ! おやつあげちゃったの?」


 律瑠とハジメが室内へ帰ってきて、明るい喧騒も、戻ってきた。


「ダメだった?」

「ダメではない。けど、ハジメさんがあげたそうだった」

「そうなの? なら今度は、ハジメさんにお願いするね」

「おやつの時にも、ものすっごいジャンプをするの?」


 ハジメの疑問には、律瑠が笑って答える。


「ジャンプはしないけど、ものすっごく、かわいいんです」


 重たい雰囲気は霧散して、家の中には笑顔が戻る。


 省吾の香乃への態度が軟化するのは、もう少し、先の出来事。

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