第17話 待ち焦がれた出会い

 梅雨の気配はまだ遠い、夏を感じる陽射しと気温。

 大きな窓から降り注ぐ光の中で小さな命を囲み、誰の顔にも、笑顔が溢れている。


「まったく。まるで、この家に子どもが産まれたみたいじゃない」


 ゆったりした服に身を包み、座り心地のいい椅子へ腰掛けた留美が、苦笑を漏らした。

 留美が座る椅子は、書斎から運んできたものだ。普段は、香乃が仕事をする時に使っている。


「だって、律がやたらと張り切って色々買ってくるんだもん」

「だって、近い内、俺たちにだって子どもが出来るから」

「え? 香乃妊し――」「まだしてない!」


 誤解を生む発言をした律瑠を、香乃が睨んだ。


「ベビーベッドも立派な物をもらっちゃって、何だか申し訳ないよ」


 黒縁の丸眼鏡を掛けた男性が、律瑠と香乃へ感謝の言葉を伝える。


「ベビーベッドも、使い終わったらうちにもらおうと思っただけなので」

「気が早過ぎるよ、律」

「入籍したら、すぐにでも仕込むつもりだからね」

「やめっ、親の前でそういう発言をするな!」

「律瑠くんって、なんか最強感あるよねー」

「茶化すな秀平!」

「だって、香乃姉をこんなに慌てさせるなんて、律瑠くんにしか出来なくない?」

「ほーんと。律瑠くん、妹をよろしくお願いします」

「安心して、任せてください」


 子どもたちと、その伴侶たちの様子を、ダイニングチェアに腰掛けた初老の男女が笑みを浮かべて眺めていた。

 女性の腕には、しわくちゃの赤ん坊が抱かれている。


「留美に子どもが産まれて、香乃もとうとう、お嫁に行くのね」


 初孫を腕に抱き、女性が穏やかな笑みを浮かべた。


「香乃は一生、結婚出来ないものかと思っていたんだがな」

「まぁ、お父さんったら」


 女性から窘められ、男性はふんと鼻を鳴らす。

 二人は香乃の両親。母の美佐と、父の省吾だ。

 留美が無事に出産を終え、体調が安定してから、出産祝いのため家族が香乃の家へと集まった。

 はじめは留美の家に行こうという話だったのだが、家族全員が揃うには狭いからと、留美から香乃の家を貸してほしいという申し出があったのだ。


 赤ん坊がやってくると聞いて、一番大騒ぎしたのは律瑠だった。


 出産祝いのベビーベッドは留美の家に設置してしまっていたから、赤ん坊はどこに寝かせるのかと気にしてバウンサーを買った。おむつも必要じゃないか、退屈しのぎにおもちゃもいるだろうと言う律瑠を、香乃は止めなかった。

 香乃も、赤ん坊に会える日を心待ちにしていたからだ。


「美紅~? 香乃おばちゃんですよ~。大きくなったらかわいい声で、かのちゃんって呼んでね?」


 美佐の腕から小さな体を受け取り、香乃は赤ん坊へ微笑み掛ける。


「お母さんたちは、何て呼ばれたい?」

「えー? そうねぇ……お母さんは、ばぁばって呼ばれたいかなぁ」

「お父さんは?」

「母さんがばぁばなら、じぃじだろう」

「ほら美紅ちゃん。じぃじとばぁばだよー」


 家族の中で一番浮かれているのは香乃だった。

 その理由を知っているのは、律瑠のみ。


「律はなんて呼ばれたい? りつるくん? りっくんなんて、かわいくない?」


 それぞれの呼び名を考えながら、姉弟と姉弟の母がローソファへ集まり、赤ん坊を愛でている。

 秀平以外の男たちはダイニングテーブルへ集まり、輪に加わらず離れた場所にいる省吾の話し相手となった。


「留美はともかく、香乃が結婚とはなぁ」


 感慨深げに零した省吾の呟きを拾ったのは、留美の夫である木本一きもとはじめ。留美とは同い年で、二人は婚活アプリで知り合った。


「どうしてですか? 香乃ちゃんはしっかりしてるし、料理も上手いですよね。お腹が大きかった留美に代わって作ってくれたご飯、とっても美味しかったですよ」

「あの子は昔から何でも出来る。親なんていらない子どもだったんだよ」


 めでたい場だ。喧嘩するわけにはいかない。

 律瑠は笑顔を保ったまま、口を噤んで耐えようと努力した。


「十歳のあの子は、俺がばあさんから一億の借金を背負わされて破滅するだとか言って大騒ぎして、挙句にかわいげもなく千五百万をぽんと出した。『これは私の高校から先の人生の代金です』だとよ。子役ってのは、みんな、あぁなるのかねぇ」

「……実際、おばあさんから打診はあったんですよね?」


 律瑠が口にした「おばあさん」というのは、香乃の祖母。省吾の母のことだ。


「土地を買い取らないかってのはあった。だが俺は、香乃にそそのかされて別の場所で新築を建てちまってたからな。断ったよ。断らなければ、じいさんとばあさんも、ああして潰れて死ぬこともなかっただろうに」

「それはっ――」「りーつ。いいの。こっち来て?」


 苦笑交じりの香乃の声に呼ばれたが、律瑠は席を立つことが出来なかった。

 だが、それ以上言葉を発する気にもなれず、奥歯を噛み締める。


「親父ってばさぁ、酒も飲んでないのにどうしたー?」

「ほらほら、お父さん。かわいいい孫の、美紅ちゃんですよー」


 すかさず秀平が父親の肩を叩き、留美が孫の姿を見せて微笑んだ。

 ハジメは戸惑っているようだったから、金城家の事情を、留美から聞いていないのかもしれない。


「ごめんね、ハジメさん。実は私とお父さんって、上手くいってないんだよね」


 省吾と入れ替わりで香乃がダイニングテーブルへやって来て、義兄へ謝罪の言葉を掛ける。


「意外だね? 姉弟の中がすごくいいから、家族全員仲良しなんだと思ってた。留美から聞いていた話とお父さんが話した印象も違っていたから、少し、驚いたよ」

「同じ出来事でも、人によって見え方は変わるからね。それに、おじいちゃんおばあちゃんの件は」

「香乃のせいじゃない」


 苦笑交じりの香乃の言葉を遮ったのは、美佐だった。

 香乃の隣の椅子へ腰掛け、美佐は娘の右手を握る。


「香乃が自分に出来る最善を尽くしたんだって、お母さんはちゃんと、知ってるわ」


 ハジメの視線が、事情を知っているだろう律瑠へと向けられて、説明を求められているような気がした。


「ハジメさんって、犬好きでしたよね?」


 だから律瑠は、モナと遊ぼうと庭に誘う。


 玄関から出て、ドッグランへハジメを案内した。

 モナの部屋の鍵を外から開けて、モナを呼ぶ。

 モナが外へ出た後は室内に声が入らないよう、ぴたりと戸を閉めた。


「……律瑠くんは、香乃ちゃんと長いんだったよね?」


 一通りモナとじゃれた後で、ハジメが切り出す。


「交際していない期間を含めると、十三年経ちました」

「色々、詳しい?」

「金城の家のことについてですか?」

「そう。留美はのほほんとしているからさ。気付いてないこととか、色々あるのかなって」

「……香乃が、留美さんの笑顔を守りたいと頑張った結果です」

「それなら僕は、聞かないでおいたほうがいいのかな?」

「知ることで拗れてしまうのなら、やめたほうがいいかと」

「拗れるような内容ということ?」


 腕を組み、律瑠は唸り声を上げた。

 少なくとも律瑠は、省吾のことを良く思っていない。だけど彼は香乃の父親で、留美と秀平も、家族の形を守ろうとしている。


「俺は、香乃を愛しています。香乃の望みは叶えたい。俺の感情で、香乃たち家族の形を変えてしまうのは傲慢だと考えています」

「……留美の知らないことを僕が知ってしまうのは、香乃ちゃんの望みに反するかな?」

「そうかもしれません」

「そう。……なら律瑠くんは、どうして僕を連れ出したの?」


 律瑠はハジメの瞳をまっすぐに見返して、苦く笑った。


「あの場に居続けるのは、居心地が悪いかと思ったからです」


 律瑠の知る限り、省吾は場の空気など読まず己がしたいように振舞う人物なのだ。もし何も知らない状態であの場にいたら、さぞかし居心地の悪い思いをしただろう。


「居心地は……悪かったかな。ありがとう」

「俺とハジメさんも、家族になりますからね。兄を気遣うのは弟として当然です」

「結婚って、家族が一気に増えるんだね」


 緩やかに、ハジメの表情から緊張が解けていく。


「子どもも産まれて、羨ましい限りです」

「律瑠くんと香乃ちゃんだって、来年には」

「頑張ります」

「うん。頑張れ」


 モナが退屈そうに欠伸をして、律瑠の足元で寝そべった。上目遣いで、何かを訴えている。


「モナが中に入りたそうなので、戻りますか」

「そうだね」


 引き戸を開け、すぐ脇の壁面収納に置かれている犬用のボディタオルを取り出して、モナの体と足を拭いた。これで終わらせると香乃に怒られてしまうからと、乾いた清潔な布で乾拭きもする。

 外の日陰で簡単にブラッシングを済ませ、律瑠はモナを部屋へと帰した。


 念のため、ハジメと律瑠の服は粘着クリーナーで毛を取る。


「室内で犬を飼うと、手入れが大変そうだね」

「今のは簡単に終わらせたほうですよ」

「他には、何をするの?」

「目やにを取って、耳が汚れていれば掃除して、歯も磨きます。俺はまだ、口は触らせてもらえないんですけどね。香乃にはされるがままです」

「そういえば留美からも、香乃ちゃんのモナ愛がすごいって聞いたな」

「定期的に爪を切って、毛を刈って、風呂にも入れて。口に入る物だって、添加物とかアレルギー気にして。モナは、我が家の長女なんです」


 動物を飼うというのは命の責任を負うということで、簡単なことではないのだと、律瑠はモナとの日々で実感していた。


「モナって普段からあんなに静かなの?」

「そうですね。ほとんど吠えない犬種らしいです。でも、ご飯の時は大騒ぎで、ものすっごい跳躍を見せますよ」

「へぇ! 見てみたいな」

「うちに泊まれば見られます。もし良ければ、今度、うちでゆっくり酒でも飲みましょう」

「いいね。でも僕、お酒は好きだけど強くはないんだ」

「俺もです。丁度いいですね」

「そうだね」


 ここから二人は、長く良好な関係を築いていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る