二部 過去と現在の彼と彼女

第零話 はじまりの過去

 古い一軒屋が、彼女が大人になるまで暮らした場所だった。


 一階の狭い部屋へ押し込められるようにして生活していた、父方の曾祖父母。

 父の妹である叔母は独身で、自由な人だった。

 祖父母は感情に正直な人たちで、二階の一室が、彼女たち家族五人の住処として与えられた場所。


 曾祖父が病気で亡くなり、曾祖母は老衰だった。

 二人がいる頃はまだ普通の、幸せな家族だったのだ。大人になってから思い返し、その事実に気が付いた。


 毎夜のように、階下から漏れ聞こえる怒鳴り声。

 父はテレビの音を大きくして、不快な物音を掻き消した。

 母が絵本を読み、三人の子どもたちを寝かしつける。階下での出来事には、泣きそうになりながらも、気付かないふりをしていた。


 布団へ横になると聞こえるのだ。


 怒りに塗れた醜悪な怒鳴り声。ガラスが割れる音。重たい破壊音。


 ある程度、成長すると子どもたちは、家の支配者だった祖父母との関わり方を覚えた。

 自分たちの家族が普通とは違うなんて、そんなことは考えもしなかった。


 彼らの姓は『金城』。だが誰にも、その血は流れていない。


 金城は曾祖父の苗字で、祖母が曾祖母の連れ子だったのだ。

 戦時中、疎開先でのつらい経験から、祖母は曾祖母を恨んでいた。曾祖母は娘を一人で疎開させた負い目から、彼女を甘やかした。

 祖父は婿養子で、義理の両親を嫌っていた。

 父も叔母も、祖父との仲は険悪だった。


 家庭内の空気はどんどん、どんどん悪くなる。


 大人たちは、子どもたちには何もしない。だけど、その醜悪さを隠すこともしなかった。


 ある日、警察がやって来た。祖母が通報したのだ。

 祖父が、父の殺害を計画していたらしい。

 家族でさえこうなのだから、誰を信じればいいのだろう。

 彼女は思った。

 人間なんて、他人なんて誰も、信用出来ない。自分を救えるのは自分だけなのだと。


 彼女と姉と弟が、道を踏み外すことなく、人様へ迷惑を掛けるような人間にならなかったのは、母のお陰だった。

 悪い環境から抜け出すような力はなかったが、母は子どもたちを心から愛してくれた。

 姉弟仲も悪くなかった。

 三人の子どもたちは身を寄せ合い、互いの心を守っていた。


 子どもたちは成長して、それぞれの道を進んだ。


 長女は夢だった幼稚園の先生となり、いい夫と巡り会い女の子二人を産んで、専業主婦として目まぐるしくも充実した日々を送っていた。


 次女は結婚したが上手くいかず、夢は一つも叶わなかった。それでも何とか道を見つけ、自分なりの幸せを手にしていた。


 末っ子の長男は職場運が悪かったが、夢の仕事だったからとあきらめず、試行錯誤の日々を過ごしていた。


 子どもたちが大人になってからではあったが、古い家から出た一家は、父方の家族とは絶縁状態となった。

 離婚した次女が犬を連れて戻ってきて、長女を除く四人と一匹で、狭い賃貸マンションで暮らす日々。

 家族の問題が出尽くして、穏やかに過ごせるようになっていた、ある日。


 異変の連絡は、父の携帯電話へと最初に入った。

 だが彼は着信に気付かず、家族への連絡は取れないまま。


 自宅の惨状を最初に目の当たりにしたのは、母だった。


 母の携帯電話にも知らない番号からの着信が何件もあったが、留守番電話の設定をしていなかった母は、家に帰って次女に相談してから掛け直せばいいだろうと考えていた。詐欺の電話だったら怖いと思ったのだ。

 知らない番号からの着信は、いつもそうして対処していた。

 家に関わる緊急事態なら、在宅で仕事をしている次女から何かしらの連絡が入るはずだ。

 その次女自身に何かが起こったとは、欠片も考えていなかった。


 マンションの前に停まった警察車両。

 物々しい雰囲気に首を傾げつつ、ブルーシートで覆われた一室を目にした。


「あの……ここの家の者なのですが……」


 戸惑いながら、警察関係者らしき一人へ話し掛けた。


 娘の出掛ける予定は、聞いていない。


 家には犬もいる。


「香乃? 香乃ちゃん! モナ!」


 急に不安に駆られ、答えを聞く前に家の中へと駆け込もうとした。

 普段なら「おかえり」という声が聞こえる玄関。ふわふわ柔らかな毛を持つ愛犬が、尻尾を振りながら待っているはずで……。


 瞳が捉えたのは、床を汚す、赤黒い何か。


 制服姿の警察官に、止められた。


「わんちゃんは無事です。あちらの車両で保護しています。怪我もしていませんでしたよ」

「よかった。……娘は、どこの病院ですか?」


 愛犬の無事を伝えた警察官が、言い淀む。


「娘さんは……我々が到着した時には、もう……」


 ひどい耳鳴りがした。

 理解が出来ない。「もう」のその先を、聞きたくない。


「ご自身で、救急に連絡したようです。警察は近所の方からの通報で駆け付けました。この男に見覚えはありますか?」


 隣室の、カーテンの隙間から録られた動画だった。

 上着のポケットへ手を突っ込んだ男が足早に横切る。

 掠れた赤が、頬に付着していた。


「どうしてっ……この人、香乃の……娘の、別れた夫です」


 もう少し待てば春が来る。寒い冬の日の、出来事だった。

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