第15話 高校時代の二人2
「――――律?」
親しげに、そう呼ばれるようになったことがどれほど嬉しかったか、香乃はきっと知らない。
「モナ、ただいま。今日は律と二人で何をしてたの?」
静かな声が降ってきて、髪をそっと、撫でられた。
「香乃……?」
「ただいま、律。今日はごめんね?」
高校の制服姿じゃない、大人になった彼女がいる。
手を伸ばせば触れられる。
伸ばした手を、当然のように握り返してくれる。
「寝ぼけてる? そんなに疲れることをしていたの?」
「……花壇……野菜でも植えようかと、モナと、ホームセンター行って、苗を植えた」
「あれ野菜なんだ? 花かと思った」
「玄関のほうは花だよ。庭の花壇が野菜。実用的なほうが、好きかと思って」
繰り返し髪を梳く手が、心地いい。
「香乃は今日、何をしてきたの?」
「海を見てきた。電車も混んでて、何か食べようにも人が多くて、そうだゴールデンウィークだったって、思ったよ」
苦笑を浮かべ、香乃は立ち上がる。
「肉まん買ってきた。ちまきと、月餅と、胡麻団子もある。一緒に食べる?」
「食べる。モナと休憩してたらいつの間にか寝ちゃって、昼飯食ってないんだ」
「私も。律の顔見たらお腹減ってきた。地ビールも買ったら、重くて腕が痛くなっちゃった」
二人で台所へ向かい、蒸し器を出して肉まんとちまきを蒸かした。
香乃が買ってきた地ビールはまだ冷えていなかったから、ストックの冷えたビールを出して、グラスへ注ぐ。
「中華街?」
「うん。街の景色が好きなの。海の向こうに工場が見えるのも、好き」
「よく行くの?」
「嫌なことがあった時、一人で行く。ベンチに座ってぼんやり海を眺めてると、段々気持ちが晴れてくるから」
「昨日は本当に……ごめんな」
「私も、一度許したくせに引き摺って、ごめん。今朝は顔合わせたくなくて……心配掛けたのも、ごめんなさい」
大きな口を開けてちまきを頬張り、香乃はビールを煽った。一息で半分程飲み干して、深い息を吐く。
どこか、ほっとしたような表情だ。
「肉まんは、醤油とからしを付けたほうが美味しいよ。ここの肉まんって皮が分厚いの。酢醤油とか黒酢でもいいかも」
「どこの店?」
「場所で覚えちゃったからなぁ。あ、袋に書いてあるよ」
大きな肉まんを、香乃は半分、律瑠は一つ半。ちまきは一つずつ完食して、二人は膨れた腹をさすった。
「モナの部屋、日当たり良くて、眠くなるよね」
「香乃があそこでよく昼寝してる気持ちがわかったよ」
そうでしょうと言う代わりに、香乃は微笑む。
「野菜は、何を植えたの?」
「ミニトマトとキュウリ。慣れてきたら、もっと色々やってみるつもり」
「楽しみだね」
穏やかな空気が流れ、ハイチェアに座っていた香乃はカウンターで頬杖を付き、律瑠の顔を下から覗き込む。
「実は、律にもまだ話してないことがある」
何も言わないことで先を促すと、香乃の視線が逃げるように、カウンターの上を滑った。
「悪いこと?」
香乃の様子を見て何となく、そう感じた。
「……どうだろう。でも、律の心配事は、減るかもしれない」
「何?」
心配事が減るならいいことだと思いたいのに、あまりいい予感がしないのは、香乃と視線が合わないから。
「前の時に死んだ原因。本当は強盗じゃないの。……旦那さんに、殺されたんだ」
あまりの衝撃に、眩暈がした。
香乃は今、何と言った?
「結婚、してたの?」
咄嗟に絞り出せたのは、その言葉。
「あの時点では別れてたから、元だけどね」
明るくしようとするかのように笑おうとして、香乃は失敗した。自分の笑みが引きつっていたことを自覚した彼女は、笑うのを諦める。
「モナはね、旦那の浮気の反省の証として、うちに来たの。本当は誕生日プレゼントで犬をねだってたはずなんだけどね。結果そうなった。しばらくは、モナと旦那と暮らしてたんだ。だけど壊れた関係は戻せなくて、最終的に離婚した」
淡々と、香乃は話す。
律瑠は耳を傾ける。
「離婚から何年も後に、彼が訪ねて来たの。それで、言われた。『俺は今も苦しんでる。なのにお前はどうして幸せそうなんだ』って」
「なんだよ、それ。そいつが浮気したからだろ?」
「離婚のきっかけはね。でもきっと、私にも悪い部分があったんだよ。……私だって、離婚してすぐに平気になった訳じゃない。だけど、私にはモナがいた。仕事もあった。自分の子どもはいなかったけど、るぅちゃんの子どもたちと頻繁に会って、あの時には結構、楽しい日々を送ってたの。それをどうやら、彼はどこかで見ていたみたい」
「ストーカーされてたってこと?」
寒気がした。
これは今の彼女の身に起こっていることではないと、律瑠は自分に言い聞かせる。
怒りで、どうにかなってしまいそうだ。
「うーん……どうなんだろう。全部聞く前に死んだから、わからない」
「どうして……? 殺すなんて……なんで……」
「今思えば、家に入れなければよかったの。でも、懐かしいなって思っちゃって。お茶を飲みながら話でもって、私は彼を家の中へ招き入れてしまった。何か力になれるかもしれないと思ったの」
それが大失敗だったのだと、乾いた笑いを香乃は漏らす。
香乃が足下を覗き込み、ハイチェアに座る二人の間の床で、安心しきった様子で眠るモナを見つめた。
つられて律瑠も視線を落とし、話の雰囲気にそぐわない寝姿に複雑な気持ちを抱く。
モナは仰向けで、急所の腹を晒していびきまで掻いていた。
「モナって、普段はほとんど吠えないじゃない? 『ご飯だぁ』って大喜びする時と、『誰か来たよ』って教えてくれる時くらい」
「……あとは、香乃がいなくなると少しの間、寂しそうに鳴いてる」
「私はその鳴き声、滅多に聞けないんだよね」
香乃が座り直し、カウンターの上に組んだ両手を置いた。
「あの時は、違った。私にはわからない何かを、モナは感じ取ったのかもしれない。モナが激しく吠えたてて、彼を威嚇して……頭に血が上った彼がモナに暴力を振るおうとしたから、慌ててモナを抱き上げた。だけど彼は止まらなくて、私は蹴られて、殴られて。必死にモナを守った。小さな体があんな力で殴られたら、あっという間に死んじゃう」
「近くに、助けてくれる人は?」
「両親も秀平も、仕事でいない時間だったの」
「香乃が一人の時を狙って来たってことか」
あぁそうかと、香乃が静かに呟く。
「彼は最初から、殺すつもりだったんだね」
律瑠の喉が、焼けるように痛くなった。目の奥が熱い。歯を食いしばって、律瑠は必死に耐えた。
まだだ。まだ、香乃の話は終わっていない。ここで律瑠が取り乱せば、香乃は言葉を飲み込み、また一人で抱えようとしてしまう。
「外に逃げればいいのに、私はモナを押し入れに隠して、彼を必死に、家から追い出した。玄関に鍵を掛けて、チェーンまでして。救急車を呼ぶコール音を聞きながら、気が付いた。見覚えのない、血の付いた包丁。真っ赤な廊下。電話の向こうへ助けてって、言ったと思う。視界がやけに暗くて……モナが私を呼んで、鳴いていた」
香乃の表情が静かで、それが返って、律瑠にはつらかった。
「それで目が覚め時には、私は過去に戻ってたの」
カウンターの上に置いていた拳に、香乃が手を伸ばす。律瑠の右手を、香乃の両手が包んだ。
いつの間にか強く握っていた律瑠の手は冷え切っていたが、香乃の手は、温かい。
「……これは、なくなった未来の話。家を建てる時、律が防犯面をすごく気にしてたでしょう? その時に、言おうか迷った。今の私と彼は、顔も知らない赤の他人。彼が私を殺す未来はなくなったから、心配しなくて大丈夫だよって」
だけどねと、香乃は言葉を続けた。
「他の方法で、私には死が訪れるかもしれない。私が生き残れば、別の誰かがその運命を背負うのかもしれない。考えると怖いから、口にしたくなかった」
声に感情が滲み出て、香乃の瞳からは、涙がぽろりと零れ落ちる。
「結婚するんだって口にするほど、幸せを実感すればするほど不安が増して……。律がどうとかじゃない。ただ時々、噴き出すように、不安に襲われるの」
香乃の瞳からは再びぼろりと、涙が零れ落ちた。大粒の涙がはらはら落ちて、白い頬を濡らしている。
律瑠は、やっと理解出来たような気がした。
香乃が頑なに律瑠との交際を拒んだのも、生涯結婚しないと決めていたのも、この記憶があったからだ。
「香乃は記憶力が良過ぎて、かわいそうだ」
香乃の記憶は薄れない。忘れようとしても本人の意思に反して、色濃く残り続ける。
感情が大きく揺さぶられた出来事は、『前の時』と『今』のどちらも香乃は、覚えている。ふとした瞬間フラッシュバックして起こる混乱を、長年、香乃は一人で耐えて来たのだ。
「律が疑わずに耳を傾けてくれて、少しずつ吐き出したから、前よりはずっと楽になった」
体ごと香乃のほうへと向けながら、律瑠は香乃の両手を握り返す。
指を絡め、二人の手が繋がった。
「最近、漠然と何かが不安で。自分がどこか不安定だなって、感じてた。……今日一人で海を眺めながら考えてみて、この記憶だって、思ったの。ごめんね、律。いつも私は、押し付けてばかり」
「いいよ。一緒に抱える。だから全部、話していいんだ」
「私が律だったら、重さに耐えきれず、見捨てる」
「俺は見捨てない。香乃なら全体重で圧し掛かってくれたって、構わない」
「……モナの散歩以外で運動してないから、結構、重たいよ」
笑みを零し、律瑠は立ち上がる。
香乃の頬を濡らした涙の痕を両手で拭ってから、柔らかな体を抱き上げた。
「うっ。花壇作りで屈みっぱなしだったから、腰がやばい」
「なら、こんなことしなければいいのに。秀平召喚する?」
「マッサージなら、香乃にされたい」
「してあげる。畳の上で横になって」
ローソファの後ろの窓際は、二畳の畳スペースになっている。大人が布団を敷いて眠るには狭いが、昼寝程度なら問題ない。
「景子さんがね」
歩きはじめた律瑠の腕の中、肩口に顔を埋めた香乃が、囁いた。
「新しい人生おめでとう、だって」
「あの人との出会いが、大きな転機だったよね。――よっ、と」
香乃を抱いたまま律瑠は畳の上で胡坐を掻いて座り、膝の上に乗せた愛しい女性を、力の限り抱き締める。
「香乃の道が変わってなければ、俺たちは会えなかった」
「……そうだね」
「新しい道を、楽しみながら歩いてほしい。香乃の不安は全部、俺も一緒に受け止めるから」
「…………うん」
床を蹴る爪音が聞こえ、モナが、香乃の腿へ前足を乗せた。
開いた口から舌を出し、尻尾を振ったモナは何か言いたげだ。
「ほら、モナも言ってる」
「なんて?」
「モナも一緒だよって」
モナの心を代弁した律瑠の言葉。
ふっと表情を和らげ、香乃はモナを抱き上げる。
「今度こそ私が幸せにするって、約束したもんね」
窓から見える空は青く。どこまでも、澄み渡っていた。
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