第13話 危機

――どうしたらいいでしょうか。婚約破棄されるかもしれません。


 スマートフォンへ届いた後輩からのメッセージ。

 しばらく眺めてから、篠田は通話の操作をする。


「時任お前、一体何をやらかした」

「篠田さん……。秘書課の彼女と、旅行中ですよね?」

「そうだよ。篠田さんは美人な秘書課の彼女と、沖縄で青い海を眺めているんですよ」

「うらやましいです」

「おいお前、泣いてんのか? 本気でまずい状況なのか?」


 篠田の声を聞いた恋人が異変を感じ取り、近寄って来た。

 相手が時任律瑠ときとうりつるだと告げて状況を簡単に伝えると、スピーカーにするよう指示される。


「時任。噂の秘書課の彼女が相談に乗ってくださるそうだ。スピーカーにしてもいいか?」

「女性のご意見、助かります。旅行中、本当にすみません。でもこんな情けない話、篠田さんにしか相談出来なくて……」

「今はホテルでのんびりタイムだったから、別にいい。篠田さんってば、お前らの話大好きだし」

「本当にね。薫って、いつもあなたたちの話ばかりなのよ」


 はじめましてと、篠田の恋人が自己紹介をした。

 井上明日香。篠田が今、本気で結婚を考えはじめている女性だ。


「聞いてあげるから、お姉さんとお兄さんに何があったか話してごらんなさい」


 明日香は篠田の三つ上。大人の魅力が漂うキレイなお姉さんなのだ。


「……昨日、俺の友人たちが遊びに来たんですが」


 小中で学校が一緒だった友人たちが来て、その中に、中学時代に交際していた女性が混じっていたこと。

 その女性の存在と発言が、香乃の気分を害してしまったことを律瑠は話した。


「完全にそれは、お前が悪い」

「そうねぇ……。フォローはちゃんとしたの?」

「香乃が言いたい事を吐き出し終わった後で、何度も謝りました。一旦は普段どおりに戻って、夜も普通に寝たんです。でも朝起きたら香乃の姿がなくて、スマホにメッセージが届いているのに気付いたんです。『律が泣かないようにモナは残して行くね。気晴らししたいから、しばらく放っておいて』と。スマホの電源を落としているようで、電話も繋がりません」

「あぁ、なんだ。モナが家にいるなら絶対に帰って来るな」

「あら、どうしてそう思うの?」

「香乃ちゃんにとって、モナは時任よりも大事な存在だから」

「それは少し、時任くんがかわいそうね?」

「気が晴れた結果、俺なんていらないという思考に辿り着かれてしまったら……俺、立ち直れません」

「なんだよお前、杞憂で泣いてんのかよ? お前の思考回路を熟知してるからこそ、香乃ちゃんはモナを置いて出掛けたんじゃないか?」

「それに、誰にだって一人になりたい時はあるわ」


 明日香は香乃のことを直接知らないから、ただの想像だと前置きして話す。


 元カノの件は、律瑠がすっかり忘れていたのならそこまで責められないと、香乃も一度は納得したのだろうと。律瑠に悪気があったわけではないと、わかってもいた。

 許すと決めて寝ようとしたが、寝しなに、その日の出来事が頭を過る。

 再度怒りがこみ上げて、だけど律瑠には十分怒りをぶつけたと香乃は考えたかもしれない。

 このままでは修復不可能な喧嘩を吹っ掛けてしまいそうだと思い、そうならないように、頭を冷やすため一旦一人で家を出たのではないか。


「もしかしたら、こっそり出掛けたのは香乃ちゃんからの意趣返しなのかもしれないけどね。しっかり反省しなさいってことよ」

「待っていたら、本当に帰って来てくれるのでしょうか」

「……時任って、香乃ちゃんが関わると途端に自信を失うよなぁ」

「長いこと拒絶され続けて来ましたからね」

「よく諦めなかったわね?」

「諦めるべきだとは、何度も思いました。でも、どうしても好きで、諦められなかったんです。……背筋を伸ばしてまっすぐ前を見て、何にも負けないという顔をしていた彼女が独りで泣いていたのを、見てしまって。あの涙が頭に焼き付いた」


 律瑠にも気分転換することを勧め、香乃が帰って来たら誠心誠意謝罪するようアドバイスをしてから、通話を終了した。


「前から気になっていたのだけど」


 通話を切った直後、明日香が篠田の顔を覗き込む。


「後輩だから。同じくイギリス支社で働いていた仲間だから。それだけにしては薫って、時任くんのことを気に掛け過ぎじゃないかしら? 時任くんのことだけじゃなくて婚約者ちゃんのことまで詳しいわよね?」


 ベッドの上で足を投げ出して座った状態で、まぁなと、篠田は返した。


「赴任当初は、ただの可愛げのない後輩だったんだけどなぁ。完璧超人が来たって、仲間内で噂してた。だけど香乃ちゃんが絡んだ途端、時任ってポンコツになるんだ」


 懐かしいなと、篠田は目を細める。

 新卒二年目にしては過ぎるほどに仕事が出来て、かわいげがなかった。その上、日本に婚約者までいると言うじゃないか。順風満帆で、妬ましいとすら思っていた。


「もう、四年前になるのかな。仕事中、時任が突然、顔面蒼白になって立ち上がったんだ」


 慌てた様子でどこかへ去って行く背中を、体調不良を心配して、篠田は追い掛けた。

 廊下へ出てすぐの場所で、どこかへ電話を掛けている様子だった。状況把握のため聞き耳を立てていると、聞こえた会話から、緊急事態を悟った。


『秀平くん! 誰にも電話が通じなくて。香乃が、血を吐いて倒れたってニュースを見たんだ。今、どういう状況なの?』


 婚約者の名前が『香乃』というのは、知っていた。

 なぜ婚約者の情報がニュースに流れるのかは不明だったが、それは少し後に、判明した。


「時任の奴、卒倒するんじゃないかって程に狼狽えててさぁ。婚約者が入院中らしいってのもわかって、とりあえず日本に帰してやらなきゃって。簡単に事情を聞いてから、俺も一緒に上司の所へ話しに行ったんだ。急遽取得した年休の終わりに、時任は香乃ちゃんを連れて戻って来た。色々やっぱ、心配じゃん? お節介焼きまくって、かなり深く関わり持って、今や二人のお兄さん的立ち位置なわけ」

「…………予知動画」


 うつ伏せの状態でベッドに横たわり、左手で頬杖を付いた明日香は、篠田を見上げている。


「薫も、関わってるの?」

「あぁ、わかっちゃった?」

「付き合いは短いけれど、一応私、あなたの恋人なの」

「……近い内に、紹介する」

「楽しみにしてるわ」


   ※


 篠田が恋人と幸せな休暇を過ごしている時、律瑠は自宅で、小さな舌をのぞかせたシーズーと見つめ合っていた。


「俺たちは、何をして過ごそうな?」


 モナの首が、微かに傾げられる。


「とりあえず散歩か?」


 首は反対側へと傾けられた。


「車はあるから、ドライブも出来るぞ?」


 大きく首を右側へ倒したモナを見て、律瑠は噴き出し、笑う。


「俺とモナだけって、初めてだな?」


 小さな頭を撫でようと手を伸ばしたが、するりと躱された。


「……香乃、許してくれるかな」


 窓の外へ視線を向けた律瑠の手に、柔らかな温もりが押し付けられる。モナの鼻先が手のひらを探して潜り込み、律瑠が手のひらを差し出してみれば、気遣うようにそっと舐めはじめた。


「お前って本当に犬?」


 動物は好きだが、自分で飼った経験はない。犬は人の気持ちに寄り添う動物だという話は聞いたことはあったが、これがそうなのかと、律瑠は一人考える。


「俺が落ち込むってわかってたから、香乃はお前を残して行ってくれたんだよな」


 返事はない。視線も合わない。

 まぁいいかと考え、律瑠は立ち上がる。


「俺たちも気分転換に出掛けるか」


 マイナス方向へ落ち続けそうだった思考は、篠田と秘書課の彼女のお陰で踏みとどまれた。

 反省はすべきだ。だけど失敗を引き摺るのは、違うのかもしれない。


 有意義な一日をはじめよう。


 律瑠はモナを抱き上げ、立ち上がった。

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