第10話 語らい

 帰宅した律瑠を出迎えた香乃は、いつもと変わらない笑顔だった。

 だけどモナの様子が違う。普段から香乃の後をついて回っているが、今日は必要以上に、ぴたりと張り付き離れない。

 風呂上りの律瑠をじっと見つめる黒い瞳を見返して、律瑠は内心、苦笑を浮かべた。

 香乃がこの犬にこだわり続けた理由が、理解出来た気がする。


「何か、あった?」


 キッチンスペースへ入って香乃を手伝いながら、聞いてみた。


「何も? どうして?」

「今日はビール、飲まないんだね?」

「律は飲んでいいよ。午前中に景子さんの所でお菓子食べて、るぅちゃんの家でもお昼ご飯食べ過ぎちゃったんだ」


 だから夕飯も少しにすると告げた香乃にそれ以上の追及はせず、二人はダイニングテーブルで向かい合って、香乃が作った夕飯を食べる。

 話題は主に、香乃が子ども時代から世話になっていた事務所の社長のことと、結婚式についてだった。


「香乃は悩むと、すぐ胃にくるよね」


 香乃のほうから話してくれる気はないようだと判断して、話の区切りがついたタイミングで律瑠は切り出した。


「今は、何を悩んでいるの?」


 視線は合わない。

 先ほどから全く進まない箸を置いて、香乃が吐息を零す。


「……前との違いが今に与える影響を、考えていたの」

「それは、どうして?」

「るぅちゃんが、私が犠牲になるのは嫌だって、言うの。るぅちゃんは何にも知らないはずなのに」

「言われなくても、実際に見ていなくても、感じることはあると思うよ」


 無言の時間が過ぎて、食事の後片付けをしている律瑠の背中へ、香乃がそっと抱き付いた。


「私、余計なことしてるのかな」

「そういうことじゃないと思う。留美さんはただ、香乃が心配なだけだよ」


 モナの散歩も夕方に終わらせ、風呂も済ませていた香乃。

 もしかしたら香乃も、律瑠に話を聞いてもらいたいと思っていたのかもしれない。


 今日はこのままゆっくりしようと、二人はテレビの前に設置したL字型のローソファへ腰を下ろした。

 モナが香乃の膝へ上り、体を丸めて目を閉じる。


 香乃が騒がしい話し声が苦手だと言うから、テレビを付けることはあまりない。

 朝と夜にニュース番組を付ける程度。あとは映画やドラマを観る時で、バラエティー番組を観るのは、ごくたまに。

 律瑠もテレビを観たいと思う事はほとんどないから、音が無くて寂しいと感じる時には音楽を流している。


 この日選んだのは、香乃も好きな女性ボーカルが歌うジャズ。


「無理なんて、してないんだよ? 家のことと仕事の両立なんて、ほとんどの人がやってるじゃない。むしろ私は家で仕事をしている分、外に働きに出ている人よりも楽だと思う。お母さんがるぅちゃんの家の手伝いを断ったのは遠いからだし、近くに住んでいればきっと、私と同じことをしたよ」


 音量を絞った、夜の静けさを邪魔しない音の中で律瑠は、香乃の声に耳を傾ける。

 香乃の右手はモナの背を撫で、律瑠の左腕は、香乃の肩へと回されていた。


「私が行くよって話になった時もそう言ったのに、どうしてるぅちゃんは、まだ気にしているんだろう」

「留美さんがその話をはじめる前、二人は何を話していたの?」


 短い間記憶を辿り、香乃は口を開く。


「結婚式の話、だったかな?」

「なら、それだね。留美さんは俺に気を使ったんだよ」

「どうして? 来年のことなのに」

「俺が今、香乃とこの家で一緒に暮らしているから。家政婦の件が決まったのは、俺の帰国が決まるより前だっただろ?」

「そうだっけ?」

「そうだったと思うよ。……俺だって一通りの家事は出来る。香乃が一人でやる必要なんてない。洗濯も掃除も、毎日やらなくても良くないか? 週末に二人で、一緒にやろう」

「でも、私が気になるんだもの。それに律は、外で他人と関わって神経使ってるでしょう? 家が汚いと心が休まらないじゃない」

「香乃」

「なに?」

「大好き」

「突然、何よ」

「言いたい時に伝えようって、決めてる」

「はいはい」

「香乃はね、他人なんてどうでもいい、気にしないって言って実際そうなんだけど、懐に入れたら自分を犠牲にしてでも大事にしようとするよね。香乃の身も心も保たなくなるから、懐に入れるのは少数なんだ」


 香乃は何も言わず、両膝を立てた。

 眠っていたモナが小さく唸って抗議したが、抱き締められると嬉しそうに、両耳が動く。


「その上自覚もないもんだから、心配されるんだよ」


 香乃の左肩に置いた手のひらへ力を入れれば抵抗なく、香乃の体は律瑠の肩へと寄り掛かった。


「香乃って、突拍子もないことや無茶なことも平気でするしね」

「必要なことをしてるだけよ」

「そのせいで父親からは、敬遠されたままだね」

「……そう仕向けなかったら、親としてだけじゃなく人間としても、ダメになってた。私のせいで、あの子たちからおじいちゃんを奪う訳にはいかないもの」

「留美さんにはこれからも、話さないつもりなの?」

「お母さんか秀平が話すのなら、今はもう、止めない」

「留美さんがハジメさんと出会って、前の時と同じ道を歩んでいるから?」


 肯定の言葉を紡ぎ、香乃は目を閉じる。


「お金があれば上手くいくんじゃないかって、思ったの。だけど、そんな単純な話じゃなかったってだけ。それでも前の時よりは比べようもないくらい、いい結果になってる」

「香乃が、心を犠牲にしたお陰だね」

「まだ言うの? 私だって、前より幸せになったよ。モナだけじゃなくて……律がいる」

「俺の長年の夢が一つ、叶ったな」

「他には何があるの?」

「香乃との子どもが欲しい。おじいちゃんとおばあちゃんになっても、香乃と仲のいい夫婦でいたい」

「これからもたくさん、努力しないと無理ね」

「そうだね」


 力を抜いた香乃が身を預けてくれたのが嬉しくて、律瑠の口元には笑みが浮かんでいた。

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