第8話 彼女が信頼できる人

 佐々景子は、芸能事務所の社長だ。

 大手から独立して以降、苦労もあったが、今では数百人の俳優とタレントを抱えて忙しい日々を送っている。

 一年と少し前に稼ぎ頭だった女優が引退してしまったのはかなりの痛手だが、数年前から予告されていたため覚悟も準備も万全だったのは、不幸中の幸いと言えた。


 出会った当初から、彼女は妙な子どもだった。


 ちょうど子役に力を入れ始めた時期で、オーディションに訪れた彼女を採用したのは景子だ。

 彼女の母親は、少し気が弱そうだが普通の女性。

 対して娘ははっきり物を言う、明るく人懐っこい子ども。容姿にこれといって目立つところはなく、大人になったら美人へ化けるかと言われると、そうでもなさそうだなというのが第一印象。

 だが他の子どもと比べようもなく、演技の基礎が出来ていた。

 四歳でこれなら、しかるべき稽古を受けさせれば大物も夢じゃないかもしれないという展望が見えたのが、採用の決め手だ。


 将来の夢は、自分で稼いだ金で家を建て、犬を飼うこと。


 子どもが抱くにしては夢のない彼女の夢は二十年経っても変わらず、長年の望みを叶え、犬との余生を過ごすのだという理由で彼女は引退した。

 世間には景子の判断で、普通の生活を送ってみたいからだと公表しておいた。


 三十にもなっていない小娘が余生とは何事か。

 景子は、怒りに近い感情をぶつけたことがある。


『元々、子役になったのは、子どもがお金を稼ぐ手段が、それしか見つけられなかったからなの。想定以上に稼げたのは景子さんの力。……もし、もしだよ? 死んだと思ったら四歳の自分になっていたとしたら、景子さんなら、どう生きる?』


 冗談や例え話にしては雰囲気が妙で、鳥肌が立ったのを今でも覚えている。

 景子は自分に満足している。だからまた、今と同じこの場所に立てるような生き方をするだろうと答えた。


『私も、あの時持っていたものを取り戻したいの。でも無自覚の時にだいぶ変えてしまったから……不安なんだ』


 やっと、彼女のことが理解出来たような気がした。

 七歳で「株の買い方を知っているか」などと言い出す子どもを景子は、彼女しか知らない。


 出会いの時に抱いた景子の期待を、彼女は裏切らなかった。


 これといって目を引く容姿ではない。平凡な顔かたち。だが長年、景子やプロである周りの大人が『商品』として磨き続けた。

 姿勢、歩き方、視線や指先の動き、表情の浮かべ方。

 大人になった彼女は、美しいという形容詞が似合う女性となった。


「景子さん、相変わらず忙しそうだね」


 取り留めもなく過去へ想いを馳せてしまったのは、受付からの内線が、彼女の名を告げたからだ。

 金城香乃。芸名は、白金かのん。

 二十二年間、景子が手塩に掛けて育てた女優。


「忙しいわよ。あんたが抜けた穴を必死で埋めてるんだから」

「だいぶ稼いで、恩返しはしたもの」

「もっとよ。もっとも~っと、あんたなら稼げたんだから」


 軽やかな声で笑って、誤魔化された。

 どうやら彼女は、復帰についての話をしに来た訳ではないようだ。


「私、律と結婚するの。景子さんは第二のお母さんみたいな人だから、結婚式に参列して欲しいなぁと思って、都合を聞きに来た」

「やっと? 時任くん、随分気が長かったわね」

「本当にね。こんなに待ってくれるなんて、想定外」


 香乃と律瑠のことは、景子も知っている。

 演技以外で感情の起伏がなかった香乃が、高校に入学してからやたらと機嫌が悪かった原因が、時任律瑠ときとうりつるという名の同級生だった。


「あんただって、途中からは彼のことが好きだったじゃない」


 己が芸能人だから、香乃は彼を遠ざけたのだろう。初めはそう考えていた。

 それ以外に何かあるのかもしれないという可能性には途中で気付いたが、景子はそこに、触れさせてもらえなかった。


「竹取物語の真似して無理難題。律の気持ちを無視した条件を出したのに、全部、突破されちゃった」


 結婚の報告だというのに香乃は、どうして憂いを帯びた表情を浮かべるのか。


「あんた、まだ何か隠しているの?」


 大好きな人との結婚のはずだ。それならもっと、幸せそうに笑ってほしい。そうでなければ景子は、心から祝ってやれないではないか。


「私は、律が大好き。だからこそ、あんなに素敵な人を縛り付けていることが、申し訳なくて堪らない」

「どういう意味よ」

「律には、伝えてあるの」

「だから何を」

「私――」


 香乃の瞳が、景子を捕らえる。


「死ぬの。私が死なないと、代わりの誰かが死んでしまう。結婚も、子どもだって作るべきじゃない。だけど私がいなくなった後で、律には支えが必要だから。私は律の望みを、受け入れる。約八年後、もし私が本当に死んでしまったら、律の力になってほしい。私……律以外では景子さんしか、信頼出来る人がいないの」

「…………病気なの?」

「違う」

「なら、予言ね?」


 首が縦に振られたのを見て、腹の底からマグマのように、怒りがこみ上げた。

 椅子から立ち上がった景子は大股で室内を横切り、応接用のソファに座っている香乃の隣へ、歩いた勢いのまま腰を下ろす。


「あんたの予言が百発百中だなんて、私も知ってるわ。だけどね、あんたは未来を変えて、ここにいるはずよ。たとえ変えたことが無知故の所業だとしても、あんたは今を、ここで、生きてるの。他の誰かなんて知らない。自分で生きて幸せになる。それくらいの気持ちでいないとダメよ。許さない」


 両手で頬を掴んで引っ張ると、香乃の瞳が潤んだ。


「私だって死にたくないよ。今度こそ、モナを置いて死にたくない。律もモナも、私がそばにいて、幸せにしたい。だけど景子さん……幸せを感じれば感じるほど私、怖くて堪らないの」

「――ほんっと、おバカ!」


 まっすぐに香乃の目を見て、景子は言い放つ。


「ほとんどの人間は、未来なんて知らないで生きてるのよ。そんなことも忘れちゃったの?」

「…………忘れ、てた」

「あんたは既に、あんたが知っていたのとは違う未来にいるはずよ。だって前回は、私も時任くんも、あんたのそばにいなかったんでしょう? それなら、あんたが今いるのは新しい人生。金城香乃が幸せになるための道へ進んだのよ。それに、時任くんがどんな人か、あんたが身を持って知っているじゃない。彼がみすみすあんたを死なせると思う?」

「……思わない」

「でしょう? ――新しい人生おめでとう、香乃」


 納得したのか、香乃の緊張が緩やかに、解けるのを感じた。


「ありがとう。景子さん」

「幸せになるの。なって、いいのよ」


 そっと抱き締めると、香乃の両腕が景子の背中に回された。


「それで、結婚式はいつなの?」


 湿っぽくなった空気を一掃する勢いで景子は立ち上がり、執務机の上にあった手帳を手に取り、ぱらぱらめくる。


「来年。三月の十二日がいいんだって」


 一度大きく息を吸ってから吐き出して、気持ちを切り替えた香乃が答えた。


「いいんだってって、あんたの結婚式でしょう?」

「二月とか一月とか色々言われたんだけど、寒いのも嫌だなぁって」

「ガーデンウェディングにでもするつもり?」

「神前式が良いの。神様に、誓いたい」


 伏した目には、覚悟の光が宿っていた。

 こうなった彼女はもう大丈夫なのだと、景子は知っている。


「白無垢で、神社の中を歩くのがやりたいなぁって」

「参進の儀ね。やるならちゃんと、調べなさい」

「まだ一年あるよ」

「もう一年もないわよ。必ず出席するから、招待状、寄越しなさいよ」

「うん。……あ。あと、音瀬監督に連絡取れる? 結婚するなら式に俺を呼ばないと許さないって言われたんだけど、個人的な連絡先を知らないなぁって、今更気付いて」

「わかった。監督の事務所に連絡を取ってみるわ」

「よろしくお願いします」

「他に、連絡取りたい人はいないの?」

「芸能界で? かなりいろんな人にお世話になったけど、誰を呼ぶべきか悩み中なの」

「今の仕事って、上司とか同僚はいないんでしょう?」

「モナが同僚かな」

「新郎側ばかりが多くても格好付かないじゃない。私のほうで見繕うわ。時任くん側が招待する人数がわかったら教えなさい」

「え? いや、それは悪いよ」

「お母さんなんだもの。別にいいでしょう? それに、あんたの仕事関係を誰よりも把握してるのは、私よ」


 虚を突かれた表情で固まっていた香乃の顔がゆるゆる変化して、泣きそうな笑みを浮かべる。


「ありがとう。お言葉に、甘えるね」


 生涯、誰とも結婚するつもりはないと言っていた。

 両親から自分の人生を買い取った後は、犬と過ごす余生のために全てを捧げるのだと公言していた、変な子ども。

 余生という言葉の意味が今やっとわかったが、余生になどさせるものかと、景子は誓う。


「心底思うわ。あんたの前に時任くんが現れてくれて、本当に良かったって」


 時任律瑠ときとうりつるが関わるようになってから徐々に、香乃の雰囲気は柔らかく、変化したのだから。


「うん。だから、幸せにしたい」


 どうか壊れることなく幸せになってほしい。


 景子は心から、願った。

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