第4話 酒豪姉弟1

 開錠して玄関の扉を開けたが、残念ながら彼女と愛犬の出迎えはなかった。

 見覚えのない男物の靴が一足、揃えて置かれている。

 とりあえず鞄だけ書斎に置き、スーツ姿のまま人の気配がする奥の部屋に向かった。

 玄関ホールを抜けて引き戸を開けると、温かな香り。ニンニクと……トマトだろうか。


律瑠りつるくん、おかえりー」


 テレビ前の床へ座ってモナと遊んでいた青年に迎えられ、律瑠りつるはただいまと返す。

 座っていてもガタイがいいとわかる青年は、香乃の二つ下の弟の秀平だ。身長は律瑠りつると同じくらいなのだが、肩幅が一回りほど、律瑠りつるよりも大きい。太っているわけではなく、筋肉だ。


「おかえり。ごめんね、水音とテレビの音で気付かなかった」


 キッチンにいた香乃が手を拭いて出て来ようとしたのを止め、律瑠りつるは柵を開けてキッチンスペースへと入る。買ってきたビニール袋の中身を冷蔵庫にしまうためだ。


「足りないかと思って、ビールと酎ハイを買ってきたよ」

「やったね! 俺はワインとクラフトビール買ったんだ。ビール飲もう、ビール!」


 モナを抱いた大きな体が駆け寄ってきて、律瑠りつるは冷えた一本を取り出し柵越しに手渡した。


「律も、もう飲む? ご飯はすぐ出来るし、お風呂も沸いてるよ」

「とりあえず、着替えてくる。香乃も先に飲んでていいよ」

「ではお言葉に甘えて」

「どうぞどうぞ」

律瑠りつるくんおかえり~。帰国おめ~」

「あ! こら秀平っ」

「うっめぇ~」


 まったくもう、と言いつつ、香乃も冷蔵庫からビールを取り出しプルタブへ指を掛けた。

 楽しそうに微笑んでいる彼女の頭を一撫でしてから、律瑠りつるは着替えに向かう。スーツを脱ぎ部屋着になってから、玄関ホールにある洗面台で手洗いうがいを済ませてリビングへ戻った。


 モナの揺れる尻尾が視界に入る。

 どうやら、今日の夕飯は秀平があげたようだ。


 モナの活動範囲にある戸の種類や開き方を、香乃はかなりこだわっていた。

 玄関ホールからLDKへの入口が引き戸なのは、開けた扉がモナに当たらないようにするためだ。モナがいる側は壁になっていて、運悪く引き戸の間に挟まれるという事故も起きようがない作りになっている。

 引き戸を閉めて右へ視線を移すと、ダイニングテーブルには料理が並べられ、グラスとワインがキッチンカウンターへ置かれていた。


「律は、先にビール?」


 香乃の言葉に頷きで答えると、瓶に入ったビールと飲み口が広いグラスがキッチンカウンターへと出される。


「このビール、俺の職場の近くで売ってるやつなんだけど、香りがいいんだ」


 注ぎ方にもコツがあるのだと言いながら、栓抜きで蓋を開けた秀平がゆっくり瓶を傾け、泡が立たないようにグラスへビールを注ぐ。

 どうぞと手渡されたグラスから小麦色の液体を喉へと流し込めば、確かに、鼻を抜ける香りがとてもいい。フルーティだが甘ったるくなく、爽やかだ。


「立ってないで座ったら?」

「香乃姉だって、そこで立ったまま一本飲み干しただろ」

「だって、柵を開けて出て行くのが面倒だったんだもん。最初の一本なんてすぐに飲み干しちゃうし」

「モナがキッチンに入れないようになればいいんだろ? それなら、跨げるような高さの柵でも十分じゃない?」

「それだと、私が足を引っ掛けて転んじゃう」

「香乃ならやるね」

「やるねー。香乃姉どんくさいもん」

「でしょう? だから、この柵が一番使い易いと思うの。それでね、カウンターの下に空間があるじゃない? お酒専用の冷蔵庫でも買おうかなぁ、なんて」

「ちょい待ち香乃姉。今どこから冷蔵庫の話に繋がったの?」

「ビールの一本目はすぐに飲み干しちゃうところ」

「その発言聞き流してた。律瑠りつるくん、いかがですか?」

「俺は、香乃が快適に過ごせるなら何でもいい」

律瑠りつるくんって香乃姉を甘やかすよね! いいな! 俺が律瑠りつるくんの奥さんになりたい!」


 和やかな笑い声の中、三人は酒と料理を楽しんだ。

 皿が空になってワインが一本空いたところで香乃が立ち上がり、「散歩に行かないと」と呟いた。

 汚れた食器をキッチンのシンクへと運びながら秀平が、モナの散歩は自分が行きたいと申し出る。だが、何故か香乃は浮かない表情で……


「秀平一人じゃ、ダメ。前の時、秀平のせいでモナが車に轢かれそうになったことがある」

「え! 俺そんなひどいことしたの?」

「スマホ見ながら歩くんだもん。行くなら私も行く」

「前の俺も俺なんだろうけど、今の俺は無実だよ? でもそれなら、律瑠りつるくんと行って来る。香乃姉は片付けよろしく~」


 律瑠りつるが一緒なら構わないという許可を得て、男二人は食後の運動がてらモナの散歩へ出掛けることになった。

 靴を履き、玄関の壁に掛けてあるハーネスを装着してやると、モナは玄関の扉を見ながら勢い良く尻尾を振りはじめる。散歩グッズの入ったカバンを持ち、香乃に見送られた二人と一匹は、外へ出た。


 夜風は少しひんやりしているが、酒で火照った体には心地よい。


「俺がお呼ばれした理由、香乃姉から聞いちゃった」

「……君たち姉弟って、あけすけですね」


 留美と香乃と秀平の姉弟が仲良しなのは、以前から知っていた。だが流石にそんなことまでも話してしまうのかと、律瑠りつるの頬は引きつってしまう。


「患者さんからも『姉弟仲がいいのねぇ』とは、よく言われる」


 秀平の職場は、接骨院だ。国家資格を取り柔道整復師として働いている。


「香乃姉は、俺が物心つく前から働いてて何でも一人でやれちゃう人だったから、俺は世話になってばっかでさ。今日、頼ってもらえたのが嬉しかったんだ。腰痛がつらいって言う香乃姉に施術しながらさ、大人になって良かったなぁって、思った。役に立つって、こういう方法もあるんだなって」


 香乃の腰痛はどうやら、留美の家での家事を頑張り過ぎたせいでもあるらしい。


 毎晩、香乃と律瑠りつるの二人で歩く、モナの散歩道。

 歩き慣れているモナは、男二人を先導するように尻尾を振りながら進んでいる。まるで「ついて来い」と言っているようだ。


律瑠りつるくんは、香乃姉の『前の時の話』って、どこまで聞いてるの?」


 どこまでと聞かれると難しい。何が全てなのかは、香乃本人しか知らないことだ。

 香乃が思い出す度少しずつ、色々な話を聞いているという事実を告げると、秀平は泣きそうな顔で、だけど嬉しそうに、笑う。


「俺たちには、ほとんど話してくれないんだ。というか、一度だけだった。助言は色々くれたけどさ、前がどうだったとかは教えてくれなかった。だからさっき、話しの流れの中で普通に『前の時』とか言われて、実は内心、かなりビビった」


 ハハ、と秀平は乾いた笑いを漏らした。

 律瑠りつるはモナの揺れる尻尾を眺めながら、散歩に誘われた理由を悟る。秀平は、律瑠りつると話をしたかったのだ。


「うちの親の話も、聞いてる?」

「前の時の?」

「両方」

「……聞いた」

「俺は両方、聞いてない。今の俺が見たことしか、俺は知らないんだ。でも今になって少しずつ、こうだったのかなぁって、見えてきたものもある。……前の時の話を香乃姉が家族にしたのは、俺たちが小学生の頃だったんだ。姉ちゃんは制服着てた覚えがあるから、中学生だったのかな」


 秀平は、長女のことを姉ちゃん、香乃のことは香乃姉と呼ぶ。一人っ子である律瑠りつるは、慣れるまでその呼び分けに戸惑ったものだ。


「あの時、香乃姉が親父とやり合わなかったらどうなってたんだろうって、最近よく考える。頑固親父をかなり必死に説得してたからきっと、前の時は悪い事があったんだろうな。助言出来るプロの人まで呼んだんだよ。香乃姉って本当、すご過ぎ」


 香乃が話していないことを、律瑠りつるの口から話す気はない。秀平もそれは望んでいないようで、夜の闇に紛れるような静かな声で、話し続ける。


「友達とも遊ばないで、自分で金の管理して、必死に稼ぐ香乃姉を見て、じいちゃんとばあちゃんは悪口言ってた。まぁ、そうだよな。世の中をよくわかってなかった子どもの俺から見ても、怖かったもん。でもさ、それって全部、俺たち家族のためだったんだろうなぁ。たぶんだけど香乃姉は、親父の選択に巻き込まれる母さんを助けたかったんじゃないかな。……最近、母さんとよく晩酌するんだけどさ、あの頃のことを、ぽつぽつ話してくれるんだ」


 秀平は、今も両親と実家暮らしをしている。


「香乃姉が、血ぃ吐いて倒れた時があったじゃん。あの時ですら、俺たちは香乃姉の本当の悩みを教えてもらえなかった。ニュースで流された動画見て、あぁこれかぁって、思った。香乃姉が全部を話すのは、律瑠りつるくんにだけなんだ。血を吐くほどのストレスが何なのか、母さんにも姉ちゃんにも全くわからなくて。香乃姉は大丈夫しか言わないし、本当……途方に暮れたよ。律瑠りつるくんがイギリスから急遽帰ってきてくれて、みんな心底、ほっとした」

「……あの時、俺は、美佐さんと省吾さんに結構ひどい言葉を浴びせちゃったんだけどね。言うだけ言って、退院した香乃を攫ってイギリスに逃亡したし」

「うちの両親にはいい薬になったよ。……律瑠りつるくんが香乃姉の前に現れて、諦めずそばに居続けてくれて、感謝してるんだ。高校の時の香乃姉って、めちゃくちゃ怖くなかった?」


 出会ったばかりの頃を思い出し、律瑠りつるは苦笑を浮かべた。確かにすごく、怖かったからだ。


「香乃にとって同級生は、通り過ぎるだけの風景なんだって気付いた時は、悔しかったな」


 だから必死に手を伸ばした。自分を認識してもらいたくて、律瑠りつるは香乃を構い倒し、一時は本気で嫌われていた。


「俺も頼られるような人間になるように、もっと頑張ろーっと」


 両手を天に突き出し大きく伸びをした秀平を、モナが振り返る。まるで「もうお話終わった?」と聞いているような目をしている。

 笑みを浮かべた秀平が腰を屈め、モナの頭を撫でた。


「あ、うんち」


 秀平のつぶやきで、律瑠りつるは慌てて散歩用のバッグを探り、袋を取り出す。

 健康的な、いいうんちだ。

 帰って香乃に報告しよう。男二人は顔を見合わせ、頷き合った。

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