第3話 2日目

 微かな振動音で目を覚ます。

 慌ててスマートフォンのアラームを止めてから、隣で眠る香乃の様子をうかがった。

 音に敏感な彼女も目を覚ましてしまったようで、小さく唸っている。


「……律の、ばか」


 寝起き早々、掠れた声で罵られたが、心当たりはあるのだ。


 細く柔らかな髪を撫でて唇へキスしようとするも、拒絶された。布団の中へ潜り込んでしまった香乃を追うのは諦めて、律瑠りつるはベッドから下りる。

 トイレを済ませてから二階の洗面所で顔を洗い、一階へ向かった。階段を下りる足音に反応したのか、モナが前足で柵を引っ掻く音がする。

 モナの部屋へ続くスライド式の柵を開けてやれば、勢い良く飛び出し足元に纏わりついて来た。


「おはよう、モナ。ご飯はもうちょっと待って」


 撫でてから少し遊んでやると満足したようで、モナは開放された柵の向こうへ歩いて行き、自分のベッドへ寝そべった。

 キッチンでコーヒーメーカーをセットしてから書斎へ向かい、ワイシャツを着てスラックスを履いた。簡単に着替えを済ませてからキッチンへと戻り、エプロンを身に着け人間と犬の朝食を作る。

 帰国してからの、律瑠りつるの毎朝の仕事だ。


 モナへ食事を与え、ふさふさの尻尾を振りながら皿へ顔を突っ込む姿を見守っていると、階段から足音が聞こえた。

 パジャマ姿で目をこする香乃が、顔を出す。

 恨みがましい視線を送られたが、律瑠りつるは晴れやかな笑顔を返した。


「筋肉痛。律のせい」

「舞台にも出なくなったから、運動不足だね」

「痛い。腰」

「柔軟体操、手伝おうか?」

「いらない。眠い」

「香乃はまだ寝てていいのに」

「やだ。一緒にご飯、食べる」

「コーヒーあるよ」

「飲む」


 キッチンまでついて来た香乃へコーヒーの入ったマグカップを手渡そうとしたが、無視される。

 腰に細い両腕が回され、香乃の顔がワイシャツの胸元へ埋まった。


「今日も満員電車。がんば」

「頑張るの、そこだけ?」

「仕事のほうは、律は頑張り過ぎるから。ほどほどでいいよ」

「香乃もね。今日も留美さんの所、行くんでしょう?」

「うん。るぅちゃん、お腹破裂しそう」


 律瑠りつるから受け取ったコーヒーをすすりながら、香乃が嬉しそうに笑った。

 留美というのは香乃の三つ上の姉で、出産を来月に控えている。大きなお腹での家事は大変だろうと、香乃は通いで家政婦をやっているのだ。


「やっと……もうすぐ、全部を取り戻せる」

「俺っていう新顔がいるけどね。前の時も、家政婦してたの?」

「してたよ」


 律瑠りつるが作った朝食をキッチンカウンターへ並べ、二人はスライド式の柵を開けてキッチンスペースから出る。

 朝は忙しいから、ダイニングテーブルは使わない。カウンターにはハイチェアが二つ。朝食や酒を飲む時など、よく使う。


 カウンターに並んで座り、二人は両手を合わせ「いただきます」の挨拶の後で食事を開始した。


「前は無気力な引きこもりで、お金もらってやってたんだ。前の私は、るぅちゃんのおかげで立ち直れたってのもあるから、今回は自主的にやろうって決めてたの。今のるぅちゃんは何にも知らないんだけどね。自己満の恩返し」

「二人目の子は、どうしたの?」

「産まれるまでは旦那さんと頑張ってたけど、産まれて退院してからは、一人目連れてうちに来てたよ。二か月くらいいたかなぁ? でも、今回は私が実家にいないし実家の場所も違うから、どうなるかはわかんない」

「その頃には、俺たちにも子どもがいるかもね」

「私、お腹に子どもがいる状態で結婚式するの、嫌だからね」

「ダメか~」

「ダメだー」


 律瑠りつるが朝食の後片付けをしている間に香乃は身支度を整え、ネクタイを締めてスーツのジャケットを着た律瑠りつると共に家を出る。モナも一緒だ。律瑠りつるを見送りがてら、香乃とモナは朝の散歩に出掛ける。


「満員電車、がんば」


 毎朝の見送りの言葉がこれに固定されそうだなと、律瑠りつるは苦笑を浮かべた。

 満員電車に好きで乗っている人間など存在しないだろうが、香乃はかなり満員電車が嫌いなようだ。


 多くの人の流れに乗って会社まで辿り着き、まず向かうのはロッカーだ。パソコンなどの仕事道具が全て、そのロッカーに入っている。

 律瑠りつるの会社では今年からフリーアドレスを採用したため、自分の席というものがない。オフィス内のどこで仕事をしてもいいのだが、同じ部の人間は固まっていたほうが何かと便利だ。昨日の内に教えらえていたスペースへ向かうと、数人の先輩が既にパソコンを開いていた。

 始業開始時間になるとチャイムが鳴り、本社での仕事に慣れていない律瑠りつるは、篠田の下について仕事を教わる。

 篠田はイギリス支社でも面倒を見てくれていた先輩だ。気心が知れていて、やりやすい。


 十二時になると昼休憩を知らせるチャイムが鳴り、篠田と連れ立って食堂へと向かった。


「昨夜、何食った?」


 メニューを選びながら篠田から問われ、焼き鳥だと律瑠りつるは答える。


「香乃が業務用スーパーで箱買いしたとか言って、いろんなタレの焼き鳥と、獅子唐とか長ネギとか、椎茸もありましたね」

「いろんなタレって?」

「味噌と、辛いのと、照り焼きっぽいのと、塩でした」

「それとビール? いいねぇ」


 律瑠りつるは塩サバ定食、篠田は唐揚げ定食を選び、空いている席に座った。


「お前ら、いつ結婚すんの?」


 篠田が唐突なのは今に始まったことではない。

 塩サバを咀嚼して白米を口に放り込んでから、律瑠りつるは動じず返答する。「揉めています」と。


「昨日の婚姻届けの話じゃないけどさ、お前の事だから帰国したらすぐにでもするのかと思ってたんだけど、まだなの?」

「俺はそのつもりだったんですけど、香乃が、結婚式にお義姉さん夫婦の出席は必須だって。来月出産だから、産まれた子の首が座るまで待つ予定なんです。それは理解出来るのでいいんですけど……入籍は結婚式の後にするもんだって、昔お世話になった監督に言われたから、入籍もまだしないとか言うんですよね」

「監督は誰さん?」

「音瀬っていう映画監督です。結婚式にも呼ぶって」

「大物出た~。テレビで見た感じ、厳しそうな人だもんな。言うとおりにしたほうが良さそう」

「私は六年でも逃げなかった。あと一年半くらい余裕で待てるよね、だそうです」

「香乃ちゃんらし~。でも、なんで一年半なの?」

「お義姉さんの子どもが一歳になるのを待って、でも夏は出席する人が大変だから秋にしようってことらしいです。俺はそんなに待てないんで、どうやって短縮させるかを考え中です」

「お前はいつがいいの?」

「せめて、来年の春までには入籍したいですね。俺としては三月がいいんじゃないかって思うんですけど、年度末だから迷惑だって言われそうで」

「三月かぁ。前半なら何とかなるんじゃないか?」

「篠田さんも、香乃の説得手伝ってくれませんか」

「いいけど。香乃ちゃんって結構、頑固だよなぁ。――……電話?」


 篠田の視線の先では、律瑠りつるのスマートフォンが着信を知らせていた。

 画面には「秀平くん」と表示されている。


「香乃の弟だ。ちょっと電話して来ます」


 席を立とうとした律瑠りつるを、篠田が止めた。面白そうだから盗み聞くため、この場で出ろということらしい。

 相手を待たせるのも悪いと考えたのだろう。座り直した律瑠りつるは、通話のアイコンをタップした。


律瑠りつるくん、香乃姉と激しい運動でもしたの?」


 相手の第一声に、困惑する。


「モナの写真付きで、会いに来ていいよってメッセージが来たんだけど。律瑠りつるくん、帰ってきたばっかだろ? 律瑠りつるくんに悪いから行かないって返信したら『香乃が筋肉痛で苦しんでるって伝えれば、律もおいでって言うよ』って。律瑠りつるくんもしんどいようなら、筋肉疲労に効くマッサージ、しようか」

「……俺は、平気。だけど香乃は引きこもりだから、無理させたかな。悪いけど、来てもらってもいい? 夕飯ご馳走するよ。秀平くんは何時に仕事終わるの?」

「今日はもう終わり。泊まって行けって言われたから、このまま向かうね。何か酒買ってく。律瑠りつるくんの帰国祝い」

「ありがとう。夕飯は、香乃に好きな物をリクエストしてね」

「わかった! モナと遊んで待ってる!」


 通話が終了した途端、律瑠りつるは項垂れた。

 相手の声は流石に聞こえず律瑠りつるの声だけが聞こえていた篠田には、香乃の弟が夕飯を食べに来る事で何故落ち込むのかが理解出来ない。


「帰国した時、荷物の整理で気付いたんですけど……」


 篠田は黙って、律瑠りつるの次の言葉を待つ。


「一階にあるファミリークローゼットに、香乃の姉、弟、母と、俺の母のも、着替えが常備されているんです」

「お前がいない間、みんな泊まってたんだろうな。一人と一匹で住むにはデカ過ぎるんだろ?」

「別に、それは構わないんです。でも、こういう使い方があるのかぁ……って」

「ん? 香乃ちゃんの弟くん、お泊まりするの?」

「はい。毎晩その……求めていたら、怒った香乃に弟を召喚されました」

「今夜はお預けね! ざまぁ」


 異動二日目。今日も聞き耳を立てていた女性たちの頬が、微かに赤らんだ。

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