第2話 初日2

 異動初日に女性たちから注目を集めていたなどとは全く気が付いていない時任律瑠ときとうりつるは、定時でパソコンをシャットダウンし、家路を急ぐ。


 乗り換えは一回。乗車時間は約四十分。

 久しぶりの満員電車にげんなりしながら辿り着いた自宅最寄り駅は、帰宅を急ぐ人々で賑わっていた。

 坂道を上りながら、自転車を買うべきか考える。

 毎日行き帰りでの坂の上り下りは、かなりいい運動となりそうだが、真夏はつらいかもしれない。

 高台にある閑静な住宅街。

 まだ新しい、玄関ポーチに明かりが灯った二階建ての家の前で立ち止まり、律瑠りつるは一つ息を吐く。

 駐車場には明るい緑色の乗用車が一台。

 駐車場と反対側に設置された門扉に手を掛ければ、犬の吠え声がした。


 レンガ色のアプローチ周辺には防犯目的の玉砂利が敷き詰められている。

 鞄の中を探りながら玄関ポーチまで辿り着き、鍵を取り出した。

 手にした鍵が、カギ穴へ辿り着くより前に聞こえた開錠音。


「おかえり、律!」


 開かれた扉の向こうから現れたのは、満面の笑み。

 化粧っけのない顔をした女性は、実年齢よりも幼く見える。

 玄関へ入ってすぐ左にある扉が開け放たれ、白いLEDライトの明かりが漏れていた。彼女の仕事場である書斎だ。通りに面した窓から律瑠が帰って来たのを見たのだろう。

 最愛の女性と愛犬へ「ただいま」と返しながら玄関の扉を閉め、施錠する。食事の後で犬の散歩へ出掛けるから、チェーンはまだ掛けない。


「仕事中?」


 靴を脱ぎ書斎へ入ると、デスクトップパソコンの電源が付いていた。キーボード脇にはマグカップが置かれ、資料も机上に広げられたままだ。


「あとは納品メールを送信したら終わるよ。お風呂入れておいたから、先に入って来る?」

「うん。そうする」


 香乃用のデスクは入口の対角にある窓際。律瑠用は、通りに面した窓際に設置してある。

 香乃が使う本棚は入口の正面、デスクトップパソコンが置かれたデスク脇。

 律瑠用の本棚は玄関側。律瑠が家で使うのはノートパソコンで、今は閉じられており机の上も片付いている。


 ノートパソコン脇の空いたスペースへ仕事鞄を置き、律瑠はスーツの上着を脱いだ。


「夕飯、作ろうか?」

「もう下ごしらえは終わってるから大丈夫。初日で疲れたでしょう? ゆっくりお風呂に入ってくださいな」


 何故か香乃の右手が差し出され、左手にはスーツ用のハンガーを持っていた。脱いだスーツを渡してみれば、彼女がスーツをハンガーへ掛けブラッシングを始める。

 二人の足元では、白と茶のシーズーが構って欲しそうにうろうろしていた。


「下も脱いで」

「え? 今? 風呂場で脱ぐよ」

「下着姿で行けばいいのに」

「いやだよ」

「そう言うかなぁと思って、スウェットのズボンがこちらに」

「これから風呂入るのに、わざわざ履き替えるの?」

「うん。だって、そのほうが絶対に楽だよ」


 書斎から風呂場までは、一度玄関ホールへ出て引き戸を通り抜けるか、書斎から続く犬用スペースを抜けるかの二択。夜にはブラインドを下ろしているが、犬用スペースにはドッグランに面した大きな窓がある。

 毎日着て出掛けるスーツの置き場は、二階の寝室より書斎のほうが良いだろうと考えたのだが、律瑠は動線についてを深く考えていなかった。


「じゃあ、お言葉に甘えて」

「どうぞどうぞ」


 脱いだスラックスも香乃がハンガーへ掛け、ハンガーラックへ収納してくれた。

 ワイシャツにスウェットズボンというのは少々間抜けだなと感じたが、これから風呂に入るのだから構わないだろう。

 開けたままだった扉から玄関ホールへ出ると、香乃がぴたりと後をついて来る。

 玄関ホールには、帰宅後すぐに手を洗えるよう洗面台が備え付けられていた。その隣にはトイレ。香乃が書斎で仕事をする時に、移動が少なくて済む間取りとなっている。

 すぐに風呂へ入るのだから、さすがに手洗いとうがいはいいだろうか。後に続く香乃の反応を気にしつつ、洗面台はスルーしてLDKへ続く引き戸を開けた。

 背後の足音は二つ。香乃と、その後ろでフローリングを蹴る爪音。カチャカチャ鳴る微かな音がかわいらしいなと、律瑠りつるは頬を緩ませる。

 右へ進めばカウンターキッチンとリビングダイニングがあるが、律瑠は真っ直ぐ進み、左手にある階段を通り過ぎて階段脇の引き戸を開けた。そこは、設計時に香乃がファミリークローゼットなのだと楽しそうに話して聞かせてくれた部屋で、二人の寝間着と部屋着が収納されている。


「五年振りの通勤ラッシュ、どうだった?」


 後で散歩に出掛けるから外に出られる服がいいかと考えつつ、引き出しを開けた律瑠りつるの背へ掛けられた声。異動初日について聞かれたのが電車のことなのが、彼女らしい。

 律瑠りつるは、小さく笑った。


「日本に帰ってきたなぁって思ったけど、嫌な文化だよね」


 香乃は、通勤ラッシュが嫌だからと在宅で出来る仕事をフリーランスでしているのだ。

 一年前までは別の仕事をしていたが、その仕事も通勤ラッシュとは縁がなかった。


「五年後に起こるパンデミックでも無くならない悪習だよ」


 微かに顔を顰めた香乃が、足元で主人を見上げていたシーズーを抱き上げる。


「一時は、無くなったんだろう?」

「うん。でもまた復活した。その後で改善されたのかもだけど、私はそれを知らない」

「香乃も知らない未来が来るの、楽しみだね」


 着替えを手に、入ってきたのとは違う引き戸を開けて脱衣所へ向かった。右側を見ると、愛犬を抱いた香乃が顔を出している。

 律瑠が開けたのはファミリークローゼットから続く引き戸で、彼女が開けたのは、廊下側の引き戸。


「一緒に入る?」


 香乃は律瑠と目が合うと、不満そうに唇を尖らせた。

 腕の中の愛犬の前足を持ち、ちょいちょいと手招きするように、犬の右前足が動かされる。

 彼女の表情と行動から、風呂に一緒に入りたいわけではないのだと理解した律瑠は、要望に応えて愛犬を抱いたままでいる香乃へと歩み寄った。


「モナ、怒らない?」

「怒るかなぁ? でも、したいな」

「俺も。したい」


 更に一歩距離を縮めて身を屈めた律瑠の行動は、犬の唸り声に阻まれた。


「もう。モナちゃんはヤキモチ妬きですねぇ」


 嬉しそうに笑った香乃が律瑠の唇へ軽くキスをして、愛犬の頭に鼻を埋める。

 満足したらしく、モナを抱いたまま香乃は「あとちょっと、お仕事頑張って来る」と告げ、書斎へ戻って行った。


 律瑠は、シャワーを浴びて一日の汚れを洗い流す。

 広い浴槽に張られた湯へと身を沈めれば、初日の緊張と疲れも溶けていくようだ。

 風呂から出てキッチンへ向かうと、タレの付いた肉が焼ける香ばしい匂いが鼻を撫でた。

 仕事の区切りが付いたのだろう。エプロン姿の香乃が台所を動き回っている。柵が設置されていてキッチンスペースへ入れないモナは、柵の前でお座りして尻尾を振っていた。


「ビールとグラス、冷えてるよ。それとも水がいい?」

「風呂上がりのビール、最高ですね」

「そうでしょうそうでしょう」


 機嫌良く笑った香乃が、冷蔵庫から取り出した缶ビールと冷凍庫から出したグラスをキッチンカウンターへと置く。

 座れという無言の指示を受け、律瑠はキッチンカウンター前に置かれたハイチェアへと腰を下ろす。座りながら、確かに楽だなと律瑠は思った。

 スラックスを履いた状態で風呂場に行った場合、風呂の後でスラックスを持って一度書斎に戻らなければいけなかった。明日からは朝の着替え時点で脱いだ服を書斎に置いておこうか。部屋着を数枚、書斎のクローゼットへ置いておくのもいいかもしれない。

 生活動線と収納の関係について思考しながらプルタブを開け、グラスへビールを注ぐ。

 キッチンから伸びてきた手がカウンターへ、ナッツの小袋を置いた。

 律瑠はお礼を言って、開けた袋からナッツをつまむ。カウンター越しに、手際のいい香乃の手元を眺めた。

 炭酸で刺激された胃が、きゅるると鳴って空腹を主張する。

 ふと足下に気配を感じて視線を向けると、ふさふさの尻尾が脛を撫でて通り過ぎたところだった。

 律瑠の視線に気付くと、開けた口から小さな舌を出したモナの前足が膝へと乗せられる。頭を撫でてやったが、どうやら要求しているのは違うもののようだ。


「はい。モナのご飯はこれね」

「そうか。モナもご飯の時間か」


 タイミング良く出されたモナ用の皿を受け取り、律瑠は立ち上がる。

 帰国してから、この家に住む群れの一員なのだと認識してもらう目的で、モナの食事は毎回、律瑠が与える係になっていた。

 自分用のご飯の皿だと、見てわかったのだろう。律瑠の後を追って来る足音が聞こえる。

 玄関ホール側の引き戸から入ってすぐ左側の壁際には、モナ用のテーブルが備え付けられていた。皿をそこへ乗せて、律瑠はモナと向き合う。

 期待に輝く瞳を見つめ、右手の人差し指を立てた。


「おすわり」


 びしりと座る姿に毎回、感動してしまう。

 お手とおかわりもスムーズに済み、人差し指で床を二度叩いて「伏せ」と指示を出せば、尻尾を振りながらモナが体を伏せる。


「待て」


 食べたくてたまらないという表情を浮かべたモナが、一心にご飯へ視線を注いでいた。早く「よし」と言ってあげたいが、香乃からは律瑠の目を見るまではダメだと言われている。

 互いに忍耐の時間が過ぎて、黒くつぶらな瞳が律瑠を見上げた。


「よし!」


 ほっとしながら告げれば、勢い良く食事が開始される。


「よく出来ました」


 ご主人様からお褒めの言葉を賜り、律瑠は笑みを浮かべて立ち上がった。


「今日は外で食べようか。少し寒いかもだけど、ブランケット持って行けば平気かなぁ」


 私たちもご飯にしましょうと言われ、香乃の提案に律瑠は頷く。

 キッチンカウンターに並べられた料理は、ダイニングテーブルではなく、ウッドデッキにあるテーブルへと運んだ。

 香乃が冷えたビールとグラスを持って庭へと出て来て、律瑠は窓辺に常備しているブランケットを取りに行く。

 香乃の肩と膝へ持って来たブランケットを掛けると、彼女は軽やかな笑い声を立てた。


「律は? 寒くない?」

「俺は平気。寒くなったら、もう一枚取りに行くよ」


 冷えたビールを外で飲むにはまだまだ寒い季節だが、身を寄せ合って座っていれば、寒くない。


「この庭、殺風景だよね。律が帰ってきたら相談しようと思ってたから、こっち側は何もしてないの」

「反対側のドッグランは、随分快適そうなのにね」

「だって、あっち側は私のテリトリーでしょう?」

「こっち側も好きにして良かったのに」

「そう言われるかなぁとは思ったけど。ウッドデッキを欲しがったのは律だし、やりたい事でもあるのかなって」

「俺は、香乃とこうして外でご飯食べたり、お茶したりするのも楽しそうだなって思ったんだ。でも、庭をどうするか、考えてみる」

「うん」


 異動初日の会社でのこと。律瑠の二年先輩で世話になっている篠田の話題や、香乃の一日について。

 話題は尽きることなく、食事の時間はゆっくり、過ぎて行った。

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