第21話 冬の香り

 香奈子の店から一歩外に出ると、冷たい冬の風に鼻の奥がツンと痛くなる。


 スマホを取り出すと、ふと綺麗に飾った指先が目に入った。香奈子に勧められたピンクベースのツイードネイル、ポイントで乗せられたパールが上品で可愛い。


 もう少し派手なネイルも考えていたが、彼女のアドバイス通りにして正解だった。ベースの色も美優の指先に絶妙に馴染んでいる。


ーー結局ね、なんだかんだ上品さが大切なのよ。大人の色気っていうのは。


 だから戦闘力ばっちり、香奈子はそう言って得意げに笑っていた。


 ネイルを新しくするといつも気分が上がる、綺麗に飾られた指先が何かのタイミングで目に触れる度に美優は幸せな気持ちに浸っていた。


(帰りになゆの好きなものでも買って帰ろうかな)


 昨夜からなんとなく気まずいままだ。そう思っているのは自分の方だけなのかもしれない。


 埋め合わせ、というほどでもないが今日だって部屋の掃除やら何やらを任せてしまったことへと感謝の気持ちを示したいという思いもある。


(そういえば、なゆの好きなものってなんだろ……)


 それなりの時間を過ごしているはずなのに、なゆの好きなものがわからなかった。

 

 華奢な割によく食べてよく飲む子だというのは知っている。料理を作るのも上手だけど、いつも美優の好きなものばかり作ってくれる。


 通りの向かいにドーナツ屋が見える。少し前に久しぶりに食べたいなんて話をしていたことを思い出した。


 ジムの帰りはいつも甘いものが食べたくなる。体を絞りたくてジムに通うのに矛盾していると思われるかもしれないが、2時間以上頑張ったら食べてもいいという美優なりのルールがある。


 だから、今日は食べてもいい日。ドーナツなら おそらく嫌いではないと思う。よく店長の行う"カップルセラピー"で嬉しそうに食べていたのを知っている。


 ただ、ドーナツの中でも何が1番好きなのかがわからない。


(適当に買ってこうかな……それとも一応聞いておく?)


 再びスマホに目を落とすと、通知音と共に懐かしい名前が表示された。最初は見間違いかと疑うほどだった。

 

『黒のファーコート取りに行っていい?』

 

 噂をすれば、なんて言葉が頭を過ぎる。ほとんど一年振りくらいの連絡であるにも関わらず、まるで昨日まで一緒にいたくらいあっさりとした文体だった。


(元気なのか、とか……他に言うことない訳?)


 いいよ、と一言だけ返す。普段の癖でスタンプのひとつでも付けたくなったが、なんだか悔しくて随分と素っ気ない文字だけが送信される。


「黒のファーコートか……」


 二人で暮らしていた最後の日、そのコートを着ていたのは美優だった。


 洋服をシェアすることはほとんどなかった。お互いに服の好みが違い過ぎるし、そもそもサイズも合わない。


 けれど、あの日は特別に寒い夜で、美優の手持ちのコートよりも暖かそうなあのコートを貸してくれたのだった。


 結構似合うじゃん、と笑った顔を思い出す。


(あの日は返さなくてもいいなんて言っていたけど、いつか絶対取りに来るって言うと思ったんだよね)


 念の為にクリーニングに出しておいて良かった。


 あの日に返さなくていいと言ったのは本心だったのだと思う。単に貸し借りのやり取りが面倒だったのか、散々好みが合わなかった所で自分のお気に入りのコートを美優が着ていたのが嬉しかったのか。


 それでいて、いよいよ寒くなってきた頃、お気に入りだったコートの存在を思い出して着たくなってやっぱり取りに来ると言うのもあの人らしい。


 そこに深い意味なんてないし、こちらがそのことについてどう思うのかなんて気にしない。こういう時にありがちな口実でもなんでもない。


「……似合ってたもんなー、あのコート」


 ふと、あの夜にコートに染み付いた香水の甘ったるい香りを思い出す。あれが結構好きだった。


 いつ来るの、と返事を打ち掛けるとすぐにまた新しいメッセージが届く。


『もうすぐ着きます!』

 

「……なんて?」

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