第9話 約束なんて
あっという間に食事を終えると、なゆは片付けまで手伝ってくれようとしたので美優は慌てて制した。
「なゆ、本当にありがとう。今度ちゃんとお礼させてね」
あれほどなゆを避けていたのに、美優はすっかり気を許していた。
「気にしないでください、私の方こそ昨夜は本当にありがとございました。美優さんとデートしたなんて夢みたいです」
その一言で美優は完全に陥落した。
酔った自分を介抱し、自宅まで付き添ってくれ、その上こんなに美味しい食事を作ってくれるような人間が悪い人間であるはずがない。
「なゆ……昨夜のことだけじゃない。今までのことも本当にごめん。私が勝手にプレッシャー感じてただけで、なゆは悪くないのに。嫌な態度いっぱい取ってたのに、こんなに良くしてくれてありがとう。……なゆ?」
言いたいことを勢いに任せて全て言ってしまうのは美優の悪い癖かもしれない。機関銃のように話し終えた後、相手がきょとんとしているなんてことは日常茶飯事だった。
ーーそれにしても、だ。
なゆはその言葉を聞いていたのかいないのか、涼しい顔でいそいそと身支度を整えていた。あの小さなバッグの中にきちんとそれなりのメイク道具を一式揃えていたとは恐れ入る。
なゆはほんの数分で簡単に身支度を整えた。昨夜の夜に着ていた出勤服に着替えている。黒のゆるっとしたトレーナーに黒のスキニーパンツ。シンプルだが、彼女のスタイルの良さが際立っている。普段に比べればずっと薄化粧だが、美しいことに変わりはない。
美優はまじまじとなゆの横顔を見つめていた。普段は薄暗い店内でしか見ていなかったが、日中の明るい日の光の下で見てもきめ細やかな肌をしているとわかる。
(他人の家に泊まってもこのコンディションを保ってるなんて……普段どんな化粧水使ってんだろう……)
友人の家やホテルに泊まると、例え普段と同じスキンケアをしようがなんとなく調子が悪いものだ。生まれながらにして顔立ちも骨格も整っていて、肌質も良くだなんて神様は不公平だ。おまけに性格も良い。
(これが大優勝って奴ね……)
以前来た女の子のお客さんが、美優となゆを見て言った言葉だった。その時は意味がよく分からなくて笑って流していたが、今はっきりと意味を理解出来た気がする。
弱みを握ってやろうだなって意気込んでいたが、そんなものあるはずもなかった。そもそも、昨夜の記憶がほとんどない訳だが。
「そうだ。私ね、昨夜のこと本当に何も覚えてないんだけど……」
何かやばいこと言ってないよね、美優は不安になって訊ねた。我を忘れるほど酔った経験なんてこれまで一度もなかった。
「大丈夫です、楽しい夜でしたよ」
なゆは、小さなバックを少し乱暴に掴むと、急に真剣な表情で腕時計を確認している。何か用事でもあるのだろうか。
美優はますます不安になった。
「なゆ、待って。私、本当に……」
なゆは不安そうな美優を安心させるように、その腕に優しく手を触れた。
「昨夜は本当に楽しかったです。バタバタしててごめんなさい」
なゆは優しく微笑みながら、美優を宥めるように目線を合わせた。
「……あ、ごめん。何か急ぎの用事だった? 」
せっかく心が通い合えたと思っていたが、それは美優の一方通行だったのかもしれない。なゆは優しいから言い出せないだけで、本当は早く帰りたいのかもしれない。
そう思うと、勝手は承知だが裏切られたような気持ちになった。腕を組み、美優は再びなゆに対する心の扉を閉じた。
「いえいえ……!そんなんじゃないですけど……」
なゆは美優との心の距離が離れてしまったことに気付いたのか、慌てたように手を横に振った。
「いや、そんなんじゃないって訳じゃないですけど……」
なゆは額に手を当てて、上手い言葉を探しているようだった。
「美優さん、私はまだ美優さんとの約束を果たせていません」
「……約束?」
なゆの表情は至って真剣だった。そんな顔をさせるような特別な約束なんてしていただろうか。
「だから、もう少し待っててください。終わったら連絡します。色々ありがとうございました。あ、昨夜貸してくれたヘアオイル、今もめちゃくちゃ良い香りしますね。美優さんが言ってた通りです。お邪魔しました」
なゆは早口で捲し立てるように言い残していくと、足早に家を出て行ってしまった。
朧げだが少しずつ記憶が蘇ってくる。なゆにシャワーを勧めた時、最近購入したヘアオイルも勧めたのだった。普段美優が使っているものより0が一つ多い特別なヘアオイルだったが、翌日の仕上がりが全く違って香りも良い。
良い物はどちらかというと人に勧めたくない美優だったが、酔っていた所為か、それともすでに絆されていたのかもしれない。
ただ、"約束"がどうしても思い出せない。
(待ってろってどういうこと……?)
昨夜のことを少しでも思い出そうとすると頭がガンガンする。テーブルの上には二日酔い対策の見慣れた頭痛薬の箱が置いてある。昨夜なゆが美優の見えるところに出して置いてくれたのだ。
ーー朝イチで辞めてきます。
(そういえば、昨夜……)
ーー私が夜を上ったら、美優さんは私のこと好きになってくれますか?
「やばい……っ!」
待って待って……、祈るように何度も繰り返す。サンダルを引っ掛け、Tシャツ1枚だったことも忘れて、美優は部屋を飛び出した。
だが、慌てて追いかけた所で、彼女の後ろ姿はすでに小さくなっていた。
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