第10話 とんとん拍子にも程がある

 前のタクシーを追ってください、そんなことを言うなんて、人生においてきっと最初で最後だろうと思う。


 結局なゆに追いつくことは出来ずに、美優がNight Lilyに着く頃には話がまとまり掛けていた。


「最近じゃ"飛ぶ"女の子も多かったからね、きちんと話してくれて良かったよ」

 

 店長の口調は一貫して穏やかなものだった。

 とても今月中、それも出来るだけ早く辞めさせてほしいと頼んでいる人間との会話とは思えない。


「本当に、突然すみません」


「さみしくなる、本当に」


 なゆと店長は堅く、熱い握手を交わしている。


「待ってください……! 店長本当にいいんですか?」


 美優は思わず横から口を挟んだ。


「仕方ないじゃない。それに、覚悟もしてた。黒服志望だったなゆちゃんを、無理言ってキャストとして雇ったってこともあるし……。でも、気が向いたらいつでも戻って来て。なゆちゃんならいつでも歓迎するから」


「ありがとうございます、店長」


 二人は戦友の様にお互いを強く抱き締め合っている。

 一体どんな言葉を使えばここまで彼を説得出来たのだろう。美優にはさっぱりわからなかった。


「……シフトはいいんですか?」


「シフトなんてあってないようなものよ、一昨日も一人飛んだから。なゆちゃんは少し前に一ヶ月だけレギュラー出勤してもらったけど、基本は週1〜2だったからね。あと数回くらいは出てもらうことになると思うけど……新しい門出を応援する」


「……本当にそんなあっさりでいいの?」


「そりゃあ惜しいよ。でも、無理はさせちゃだめだから。それに、なゆちゃんは理由も正直に話してくれたし、応援する」


 店長は涙を拭うような嘘くさい素振りを見せた。


「美優ちゃんこそ、ライバルが減って良かったんじゃないの? そんな、辞める女の子をわざわざ店に追いかけて来てまで引き留めるようなキャラじゃなかったでしょ?」


「それは……」


 本当にどうしたのだろう。なゆが辞めるなんて本望のはずなのに。


「せっかくだから、二人とも少しお茶していかない?」


 店長はケロッと表情を戻すと、場の空気を変えるように両手を打った。パンッといい音が響く。


 差し入れで頂いたコーヒーと、店長のお気に入りの店のとっておきのクッキーを二人の前に出してくれた。


 時折、"カップルセラピー"と称してこうして三人で膝を突き合わせていたのに、それも最後になるかもしれない。


(あんまり実感が湧かない……)


「それで、なゆちゃん新しい部屋は決まった?」


「まだです、だから今もホテルにいるんです」


「部屋?」


 店長はすっかり和やかな雰囲気でソファに深く腰を下ろしている。話題はすっかりただの世間話になっていた。


「あれ、言ってないの? 面白い話なのに。……いや、面白いなんて言っちゃまずいか。なゆちゃんが最近引っ越した部屋ね、事故物件だったんだって」


 店長は悪戯っぽく笑った。そもそも、なゆと膝をつき合わせて真剣に言葉を交わしたのは昨日が初めてだった。

 なゆが引越し魔な所があるということも今知ったばかりだ。

 そう言い訳もしたくなるが、なんだか居心地が悪い。

 なゆの方をチラッと見ると、困ったように肩を竦めた。なゆが幽霊などの類を信じていることなんて意外だった。


「そうなんです。だから、私も早く引っ越したいんです。でも、契約上あと半年は住んでないといけないらしくて……怖いから今はホテルに泊まってます」


「ホテルってどこの?」


 興味本意で訊ねると、なゆは声を抑えてホテルの名前を言った。それは誰でも知っている有名な高級ホテルだった。


 美優が驚いて絶句ているのを、店長はにやにやと見ていた。どうやら知っていたらしい。


「家から近くて、しばらく連泊できるホテルがそこしか空いてなかったんです。その頃はお金もちょっと持ってたから気持ちも大きくなってて……」


 なゆは慌てたように一言付け加えた。


「僕の部屋に泊まってもいいけど……そういう訳にもいかないでしょう。だからね、……そうだ。美優ちゃん、前に部屋が余ってるって言ったよね」


「……え?」


 唐突にぶっ込んだことを言い出す店長に、美優は驚いて思わずコーヒーを咽せた。咳込む美優の背中を、なゆは優しくさすってくれる。鼻の奥がツーンと痛んだ。


 確かに部屋は余っている。あのマンションは店長が勧めてくれた物件で、かなりの好条件の割に家賃を安くしてもらっていた。


 その際に、「住み心地はどう?」と訊ねられて「余ってるくらいです」と言ったことがあった。


「聞いたよ、昨夜はお泊まりデートでしょ」


 店長はゆったりとコーヒーを啜りながら、漏れ聞こえてくる店内BGMに合わせて体を揺らしている。


「冗談じゃない、なゆが辞めるならもう百合営業だって必要な……」


 必要ないじゃない、そう口に出し掛けた美優だったが、なゆの少し期待したような瞳と目が合ってしまう。


 昨夜は散々お世話になった恩がある。それに、計らずも美優のせいでNight Lilyを辞めることになったと言っても過言ではない状況で罪悪感もある。

 それらを踏まえると、彼女と自分は無関係だと突っぱねる事ができなかった。


「……わかった」


 店長となゆはハッと顔を見合わせると、美優に気付かれていないとでも思っているのか二人で静かにハイタッチをして喜びを分かち合っている。


(いつの間にあんなに親しくなったの……?)


「その代わり、半年だけだからね。向こうの契約が終了した瞬間が私との契約も終了した時だから。それまでに良い部屋見つけて」


 美優はできるだけ冷たく言い放った。店長がいる手前、なゆに甘い顔を見せるのは癪だと思ったからだ。

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