第四章 明かされたオトギリソウ

懐古と夕陽と流れ星

 少年はどこまでも退屈していた。


 静かで平坦な自分のベッドに腰掛けながら、何かやることを脳内で検索していたが、特に何もない。自室の本棚に押し込まれていた問題集はほぼ全て解きおわり、新しく買ったドリルも二週間で攻略し切ってしまった。

 学校の予習をしようにも、問題集を解くときに答えと睨めっこしながらやり方を覚えて鍛えたから終わらせたようなものだ。


 小説を読もうと思っても、藍色の髪を持つあの少年が脳裏にチラつき、すぐに閉じてしまう。外に出ようと思っても、鳥と一緒にあのトリニを思い出す。


 そんなことをしている間にも、あの日の記憶は反芻され続け、どんどん記憶に焼きついて離れなくなる。もはやヒルや寄生虫といっても差異はない。肥えに肥えたその虫を上品に喰らいながら、少年の作り上げたもう一人の彼が、虫の毒よりもずっとずっと苦くつらい暴言を吐いてくる。一つも優しくて甘くて気遣った言葉などない。どの単語も少年を傷つけるのを目的に彼の口から発砲されていた。


 ふと、少年は特に何もない天井を見上げた。脳内のドスグロとよく似た、黒色の天井。一つ息を吸って、少年は二週間の間一切触っていないバッグに目を向けた。自分の出番がもうないのだろうかと落ち込んでいそうに口がだらしなく重力に従っている。


 少年は立ち上がって、それに歩み寄った。冷めた目で眺める。お前の出番は、今日きりかもな。そうつぶやいて、バッグの肩紐を、手が痛くなるくらい強く掴んだ。



 家の外に出る。しっかりと鍵をかけた。スニーカーで思いっきり地面を蹴った。背中からバッグがふわりと離れて戻ってきた。


 息が詰まるほど無音な住宅街から急いで離れて、身を隠せる雑音がそこらじゅうに転がっている大通りに少年はその体を滑り込ませる。普段は嫌気が差すような場所も、今だけは許せた。


 さて、と息を吐くと、少年はゆらりと足先の向く方向を変えて、肩紐を握る。目的地は、いつものあの場所。

 願わくば、これがいい選択になりますように。



 記憶の中から、少しずつ、道順を掬い上げていく。初めて、あの場所に行った日のことを思い出す。


 全てを投げ出して、■■■■ではない自分になりたくて。物語の中の主人公たちに憧れて、嫉妬して。ただただ暑さに焦がされ溶かされ、蒸発したかった。気体と同化して、静かに、しずかに、誰にも知られずに、消えたかった。


 鼓膜を震わす日常の音と、蝉の鳴き声と、燃える温度が自分を隠して連れて行ってくれたらよかったのに。そしたらずっと楽なのに。


 少年はそう思いながら、それでも消えていない今に少しだけ、かすかに、ほっとしていた。自分が存在して、地面に両足を乗せて立っている。


 当たり前も、今の少年には輝いて見えた。かつての希望に価値はもうなくなった。足で蹴って消せてしまう。


 角を曲がって、下がって上って。でも路地には入らない。小さな公園が視界の端を覗き込んで、見えなくなった。


 ゆっくり足を動かして、いつもと同じように呼吸をして。けれどその手は確かに震えている。唇は硬く結ばれていて、足も無理に前に突き出している。こんな状態を友人に見られたら、なんて、少年は一人心の中で苦笑する。


 きっと笑われるだろう。しかし、今はそれを求める時ではないことを、少年は選んでいた。


 生ぬるい風が隣を駆け抜けていく。そっと頬を包んでくれたそれに呼応するため少年は歩幅を広げてスピードを上げた。一瞬だけ恐怖が拭われた。


 瑞々しい葉をつけた花壇を横切り、ひらひらとバルコニーにかかっている布を見上げる。普段は見ないもの。本当はどうでもいいもの。それもしっかりと目に焼き付けたかった。


 だって、きっともう


 瞳を地面に向けて、少年は息を一気に吸った。肺で一度それを留めさせて、一気に吐き出した。目を三回瞬かせると、ゆっくりと顔を上げる。


 森が変わらず、そこに堂々といた。


 距離にして五十歩。風に吹かれて声を立てながら、木々草花はゆらめいていた。目元を抑えながら、少年は彼らに近づく。くしゃくしゃと足元の雑草は音を立てて潰れていく。たったっと走れば、すぐに境界線に辿り着いた。ここまでこれた、額を入り口の木に押し付けながら呟く。植物の匂いがする空気に包まれる。どこまでも懐かしい場所。


 ふと音がした。前の方からだ。鳥が、地面を歩く時のような、音。


 ゆっくりと顔をあげてみると、木と木の間に、すっと背筋の伸びた赤橙のトリニがいた。ポニーテールが揺れる。翼は綺麗に畳まれている。


「久しぶりだな。ノラ」


 優しく言うフォセカは、こちらに歩いてくる。地表に顔を出している根を跨いだ。ノラも額を押し当てていた木から離れた。しかしばつが悪くなったのか俯く。


「事情は知っている。全部聞いた」


 ノラはこれまでにない勢いで顔を上げた。星色の目が不器用に揺れた。そんな彼の様子に驚きながらも、フォセカは話を続ける。


「ネモネとデンファレが二人同時に泣きついてきたんだ」


 本当に焦ったよと笑う彼女に、ノラは困惑する。フォセカに聞こえないほどの声で、なんで、とこぼした。どうして笑っているの?


「最初は二人が何を言ってるのかさっぱりだったよ。同時にしゃべるし、呂律は回ってないし、ろくな説明できてないし。ニゲラとチアがいて助かった」


 ノラの目と自分の目がかち合うと、フォセカは口の端を頑張って持ち上げ、草をかき分けた。


「ノラ、まだ、自分の中で消化しきれていないところがあるんだったら、ゆっくりでいいから、自分でその答えを見つけて欲しい。もちろん、一人で抱え込め、なんて意味じゃない。ただ…」


 ノラの目の前に立つと、彼の肩に手を置いて、フォセカは、願うように、泣きそうに言う。


「うやむやに、終わらせることが一回あったんだ。それを、私はずっとそれを、今の今まで後悔している。こんな最悪な気持ちは、体験しないほうがいい」


 風が通り過ぎてフォセカのポニーテールがサラサラとなびいた。横殴りの夕日がぐしゃぐしゃになっているノラの顔を照らす。透明な流れ星が彼の頬をゆっくり煌めき落ちた。フォセカは立派な翼を広げて、ノラを優しく包みこむ。


 すまん、と呟くようにフォセカが言っても、ノラは言うべき言葉が見つからない。どうしようもなくなってフォセカの肩に顔をうずめた。


「…うん」


 どうしようもなくて、掠れた声で返した。フォセカの手は大きくて、温かかった。よかった、よかったぁ。

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