第二章 枯れたホトケノザ

朝の時間

 朝だ。


 閉じた目が開いて光を感じ取った。いつものように、起きる。いつも通りの天井が視認できた。こんなことに時間なんてとっていられない。


 壁にかかっている時計を読んで、普段と変わらない時間であることに安心する。ベッドから滑り落ちるように出ると、両足が青色のカーペットを踏みつける。


 床で行儀良く待っているスリッパに足を入れる。あくびを口から引きずり出しながら、ドアノブをひねって扉を開ける。


 まだまだカサドゥが昇って早い時間に起きるのが少年の常だ。リビングに移動して、最近読んでいる小説を開く。カメイカの昔話やおとぎ話の本。


 小さいときによく聞いた話の大半は、ここに載っている。けれど、内容はだいぶ違っていて。やっぱり現実は理想とかけ離れているのだと、安心して怖くなる。


 まっくら闇を映し出しているテレビの目の前のソファの隅っこに体を預けて、まだ淡い空気を呼吸に利用しながらページを開く。小さな小さな擦れた音を立てる紙のはじを指先で撫でる。目が追う文字は、頭の中に見たこともない世界を作り上げてくれる。


 くり返すまばたきの時間も惜しいほど、言葉のおりなす風景を眺めていたい。そんな時間が、永遠に続いてくれたら。無理だ。知ってる。いつか、おわる。知ってる。だけどね、望んでしまうんだ。


 家族の誰よりも早起きな彼の、おぼろげな雰囲気をまとうひとりの時間は、少年にとっては大切な大事なものだ。


 まだ寝ぼけている街の音は遠くで工事しているような音や、いつも歩いていく大通りを走る車のかすかな音や、電柱に止まっているのであろう鳥の鳴き声がその緩やかなひとときを彩る。ページをめくる音も耳に心地よい。自然と息が浅くなってしまう。


 薄い黄色の瞳が追う言葉の羅列は、別の国で古くから伝えられてきた伝説だ。便利な世の中になって、こういう話も知れるようになった。ありがたいなぁと毎日思いながら読む。冷たい足先を温めるために丸めて体に引き寄せた。


(海底の花、か)


 次の話の題名を見て、期待に心がふるえた。海底、という文字を見た瞬間、少年の心は深い深い海水の中に飛び込んだ。息をしなくても平気な、静かな海のような文章を目で見て脳で理解する。


 頭の中に展開されていく世界は、どこまでも透き通っていて、屈折した光がゆらめいている。主人公が寝そべっている海藻の原っぱのような場所が、今ここにいる場所のように思えた。こんなにも繊細な言葉の一つ一つが、太古の昔より語り継がれてきたとは思えない。


 そうやって言葉に、文章に感動していると、時計の秒針は少しずつ、少しずつ、進んでいく。それは三十秒となり、五分となり、そしてやがて、他の三人も起きる時間を告げるまでにいたる。

 階段のある方から、ぺたりという音が聞こえてきた。少年が顔を上げる。木の階段を降りてくるのは柔らかい黒の髪をぼさっとした状態のままにしている母だ。


「おはよお」


 へにゃへにゃな声で言う母は、まだ眠気が払いきれていないのか、ソファに倒れ込むように座り込んだ。


「うん。おはよう」


 ずっと前から変わらない調子の母を見て、少年はくすりと笑う。読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。


「おはよ〜…」


 リオが寝癖を十五本ほど立たせながら歩いてきた。母が寝癖が立っているのを指摘してからわしゃわしゃと彼女の髪の毛をかき回した。それにリオは呼応して破顔する。


「朝ごはん何がいい?」

「「目玉焼きのせトースト!」」


 兄妹二人で揃って同じことを同じタイミングで言う。こんなにも仲のいい兄妹なんてそうそういないだろう。


「りょーかーい」


 カウンターに挟まれたキッチンに母は入っていく。上の階からどたんとずっこけた音が天井越しに聞こえた。三人同時に吹き出す。


「パパそのうちずっこけすぎて床に穴開けるんじゃない?」

「たしかに」


 いたずらっぽく言うリオに、少年は同意した。


 そうこう話している間にトースターの焼き始めの音が聞こえて、父が階段を降りきる。テレビのリモコンを手に取って、スイッチを押す。いつも通りのニュース番組が昨日の夜、エレグ港の近くで火事があったことを報道していた。


「放火?」

「みたい」


 ディダル語で話しかけてきた父に同じ言語でリオは返す。


「最近物騒」


 短く言う少年に、母が声をかけた。

「ねー。なんでだろうね」


 目玉焼き乗せトーストとトマトの乗った皿二枚をテーブルに置いて、キッチンにかえっていく。


「俺は?」

「自分で作って」


 辛辣にいう母に、父がぶつくさ文句を言う。


「そんなこと言っても変わんないよ」


 もうすでに目玉焼きの目玉を食べ終わったリオが言う。母と同じく辛辣な妹に、少年は頬を緩めた。


 そんなふうにいつもの朝食を見送って、朝支度を終わらせて、妹より一足はやく家を飛び出す。片手にバッグが一つ。中にはお弁当とタブレット。それからお守り代わりの、小さい頃もらった空っぽのペンケース。服はいつも通りの黒い半袖のTシャツとちょっと緩い感じの紺のジーンズ。


 一日の大半が閑静な住宅街も、こういう時間ばかりは少しざわつく。メガネをかけたリジン族。走っていくジウ族。大きな影が地面を駆けていったから、上を見てみたら真っ青な羽を持ったトリニ族が翼を広げて飛んでいた。小さい頃は空を飛べることが羨ましかったけど、今じゃもう怖くて願うことも思うこともなくなった。


 大人はこれを成長というのだろう。夢が削られること、現実を見ること、これができないと異常者だ。

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