「約束」の考察

 気温が下がり始めた街の中では、公園から帰っていくのを拒否する子どもや、仕事に解放されて安心している大人や、今日の晩ご飯をどうするか悩む声が混在していた。


 少年もそれを形成する細胞のような役割になっていたが、他の細胞たちの出す音声には見向きもせず、ただひたすらに自分の思考に閉じこもっていた。

 自分自身の編み出している思考に眉をひそめる少年の足は、主人に見合わないと彼が感じるほど優秀で、彼を家に連れていった。


 青い家の前に立つと、ほとんど無意識に少年は扉の鍵を解いて、中に入っていく。帰ってきたことを報告することもせず、自室に吸い込まれていった。後ろ手に乱暴に鍵を閉める。リュックを床に投げ捨てて、自分の身もベッドに放り込む。もう何もかもが嫌になった。


『約束』を守らないとネモネが傷ついてしまう。みんな、触れられたくもないそれを抉られてしまう。彼らと離れないといけなくなるのは嫌だ。せっかく、友達みたいな関係になれたのに。ずっと夢想していた場所があるのに、それを手放さないといけなくなる。


 それはいやだ。


 また、あの味気ないつまらない意味も見出せないような日々に、日常に、当たり前に戻ってしまう。


 甘い蜜の味を知った少年は、それがなくては気が狂ってしまいそうな気がしていた。それを壊してしまうかもしれないこの疑問は、永遠に和解できない敵だった。


 ごろりと寝返って天井を見上げる。明日も学校に行かないといけない。その後、教会にいけるだろうか。きっと大丈夫だ。僕になら、きっとできる。きっと。今までだって、行きたくなくてもいけたじゃないか。


 ああ、でも、愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶんだったっけ。結局僕は愚かなただのこどもなんだな。遠くからリオの声が響いてくる。あはは、もういいかな。でも、お母さんに迷惑かけちゃうかな。かけるだろうな。ちゃんとしないとな。泣きそうでも泣いちゃだめだ。泣いたら弱い。弱いものは皆等しく蹴落とされるんだ。


 ここは人間しかいないようなフィクションの世界じゃない。人間以外いる夢物語でもない。諦めよう。僕はどこまでも凡人なんだ。


 少年は立ち上がって、ドアの鍵を開ける。


「どうしたの? リオ」

「帰ってきてもただいまの一言もない我が兄の生存確認」

「ごめん」


 リオはじいっと少年を見つめる。兄によく似た薄黄色の双眸が彼を疑う。


「ま、いいや。あ、今日の晩御飯、ハンバーグだって」

「そうなんだ。楽しみだなぁ」

「ママのハンバーグ美味しいもんね」


 兄妹は笑い合う。


「じゃあ僕宿題してるね」

「りょうかーい。晩御飯できたら多分ママ呼びに来るよ」

「うん。リオもちゃんと勉強しなよ」

「へいへい」


 面倒くさそうな顔をしながら、リオは自分の部屋に向かう。その様子を見て、少年は笑ってから、自分の部屋に戻っていった。


(さて、どうしよう)


 静かな状態になった瞬間、少年は落ち着いた思考を稼働した。妹に伝えたように、宿題をするためにタブレットを立ち上げる。


 けれど彼は勉強用のアプリを開く素振りも見せずに、描画アプリのアイコンを指先で起こした。付属のペンをチャージャーから外して握る。黒い色を選ぶと、言葉を書き始めた。


(まず、『約束』を整理してみよう)


 小さい頃に使っていた文字の見本によく似た形の文をペン先から紡ぎ出しながら、少年は考える。


(外で秘密基地のみんなを見かけても、話しかけてはいけない。過去を詮索してはいけない。原因は、外で話しかけたらその子が怒られたから。それからもう一つ。傷つけたくないから。前者はいいとして、後者はあまり理解できないな。いや、完全に理解できないって言ったら嘘になる。だけど、知ることはとっても大事なこと。でも、もちろん、知られたくない過去だってある。多分、僕も)


「うーん」


 自分から招き入れた問題の強大さが想像以上で、少年は思わず頭を抱える。しかしその頭の中に「諦める」という単語が浮かぶ気配すらもない。

 初めて現状を変えようとしていることに、少年は気づかない。気づく暇もないくらい、この疑問との格闘に集中している。


(この疑問は、共有しちゃダメだよな。どっかでアジュガを捕まえるくらいでしか話せない)


 そう思っても共感したい、一緒に考えて欲しい、そんな願望が心の中で渦巻いた。


(そもそも、話していいのかな。…受け入れてくれるって、期待してるな)


 左手の人差し指で唇を無意識でいじりながら眉をひそめる。自分の淡い期待に気づいてもそれを否定しなければならないような気がした。


(いつまでも一人で悩むのも不毛だしなぁ)


 窓の外を見ながら秘密基地に来る面々を思い浮かべた。彼らが受け入れてくれて、今この自分がいる。そんな彼らの大切なことをぶち壊してしまうようなことは絶対にしたくない。彼らを失望させることなんて、そんなことをしたら、きっと心臓が自己嫌悪に耐えきれずに弾け飛ぶような感情に一生苛まれるだろう。


 でも、それでも。彼らを傷つけないように。彼らともっと仲良くなるために。知りたい。そのために、話してみたい。僕の考えたことを。だけどやっぱり怖い。否定されることが恐ろしいだなんて、いつ以来だろう。


「……! ご飯だよ!」


 遠くから母の呼ぶ声が聞こえた。思考の海に漂っていた意識が一気に水中から引き上げられた。晩御飯の香りが鼻腔をくすぐった。あまり興味の湧かないものだけど、食べなければ考えることもできない。


 もとよりすでに一度切れてしまった思考だ。リビングに行くための廊下を渡っていこう。独りの国の扉を開いて、足を踏み出す。


(明日のことは明日がやってくれるって任せて生きてきたけど、そろそろ無理かなぁ)


 その日暮らしの効力が薄れてきたのを感じながら、少年は自嘲的に目を細めて床を見た。教会の地面がフラッシュバックした。ああ、ここまできたか。もう心の大部分を占めている。


 なくすのがおしいな。

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