学校にて その1
ゆるくて全然気がつかなかった傾斜をのぼっていく。
猫背気味の背骨をただして、学校のモードに切り替えた。大通りに出ると、朝の登校出社ラッシュの濁流がものすごい勢いで流れていた。その波に乗って少年も学校に行く不特定多数の生徒の中に紛れる。
動いては止まって、動いては止まる車の音と雑踏がごちゃ混ぜになったものが耳に飛び込んでくる。風で揺れてざわめく街路樹の緑が眩しく光を乱反射していた。
オレンジ色のスクールバスが道路を走っていった。ちらりと見れば、乗っている子どもたちが無邪気に笑いあっていた。
坂道を登っていく。そこそこ急で、いつも登り切った頃には肩で息をしている。でもそのうち慣れるだろうな、と少年は予想していた。今回も登り切ったら息が荒い。整えながら学校の門を通る。
早めな時間のおかげで、学校の敷地内にはひっそりとした空気が漂っている。
校舎の入り口の両開きの扉の右扉を音を立てずに押して、学校の中に入っていく。廊下の壁にかけられた、ここ二週間掲示内容が変わっていない掲示板の張り紙の群れを追い抜き、分岐点を右に曲がり、自分に割り当てられた教室のドアを掴んで捻って引いて中に入って後ろ手にとじる。
今日は一番乗り。あのメガネをかけた生徒はいない。名前も声も知らないけど。
自分の席に座って、ぼーっと窓の外を眺める。特にやることはない。学校には実物の本は持ってこない。家にいる時に似た気持ちになってしまうのは避けたい。
時計の針はゆっくりとしか動いていかない。のんびりにも程がある。心拍数が早いと時間の経過が遅いと感じる、みたいな話をどこかで聞いた。
なんとなく少しだけ開けていた窓から、静かに風が滑り込んできて、頬のそばを通っていった。別に何もないけど、なんとなく前を向いた。
タブレットでなんかの論文でもみようか、とバッグからタブレットを取り出して開いたとき、後ろの方で何かが動いたような微かな音がした。誰か確認する必要なんてない。この時間にくるのはきっとあのメガネの子くらいだろう。
転入してからまだ一回も声も名前も噂も聞いたことのない、性別も何も知らない子。せいぜい分かるのは人間族であること。どの人間族に属するのかもわからない。まぁそんなことはどうでもいいけど。
タブレットの画面を開いて、元からダウンロードされていた、世界中の論文が見れるアプリのアイコンを指先で押した。パッと開かれた白い画面には検索欄と、おすすめの論文がずらりと本棚のように本の背表紙が敷き詰められて形で表示された。
実は少年が設定をいじって好みのホーム画面にしたのだ。ホーム画面をカスタマイズする機能の自由度が高いのがこのアプリの特徴の一つ。ネットを見てみればセンスの爆発した画面がわんさか出てくる。
検索欄にどんな言葉を打ち込もうか考えて、少年は無意識に机を指先で軽く叩いた。トントンと規則的に音がなる。ふと浮かび上がったのが「執着」という単語だった。
どうしてだろう、と疑問に思ってすぐに脳裏に浮かんだのは、四日前のニゲラの言葉と表情だった。あの沈み込んだ藍色の双眸と口から出てきた発言が、ノラの目には執着に見えたのだろう。それが少年に伝播した。
検索欄に執着、と素早く打ち込む。
エンターキーを押せば六百を超える検索結果が出た。論文の題名が行儀よく並んでいるページを下に下にとスクロールしていく。
それでも溢れてくる題名の中に少年の興味を満たしてくれそうなものはなく、なんだか違うなぁと思いながら次へ次へと流していく。もはや作業と化している。
「あ」
声が出た。慌てて口を手で塞ぐ。題名をタップする。開かれた論文は、少年が今欲していたものだった。『なぜ執着は存在するのか』
少年が論文を読んでいると、教室の後ろの方から紙をめくる音が途端にした。とてつもなく静かなんだ、そう思いながら、少年は読み進んでいく。両者ともお世辞にも早い読書スピードではない。
ゆっくりと動いていく薄い黄色の目と、メガネごしに文字を追う暗い色の目は交わらない。そもそも二人は互いの目の色なんて知らない。
彼らはそれぞれ追い求めるものやことにばっかり目が塞がれている。一ミリしか離れていない二本の平行線のような、一生交わりそうにない関係。そんな事実に彼らが気づくはずがない。
次第に騒がしくなっていく廊下。その空間を満たしているのは、できるだけ長い時間友達と話したいという願望を持った社交的な者たちなのだろう。
次に来るのは比較的真面目だったり、なんとなく早く来てみた生徒。そこで教室の空間の三分の一ほどが埋まる。とある女子グループの会話に、興味を持った自由奔放で恐れ知らずの鬼族がわずかな隙間に入り込み会話に参戦した。
どういう生き方をしてきたら、ああなるのだろうと少年は横目でその一部始終を見ながら思う。
論文にまた集中しなおした時に、少年と特段仲のいい男子が三人が、教室に入ってきた。各々のバッグを机の横に掛けると、すぐさま少年の周りを取り囲む。
いつも通りだな、と思いながら論文アプリを閉じてタブレットをバッグに戻す。
「今朝来る途中に三十センチくらいあるミミズ見た」
「きっしょ」
「どうやったらそこまでデカくなるんだよ」
栗毛色の髪を持った人間族のダルカが真顔でどうでもいいことを報告すると、ククメ族のイードゥが六本の各足を一歩だけ後退させた。異常なまでの大きさにウヴはツッコミを入れた。
「お前はなんかあった? 最近」
振り向きながらヌメヌメの指で少年をさす。粘液が少し飛んだが、すぐに蒸発した。どういう成分をしているのか、少年には見当もつかない。
「んー特に目立つものはないかなぁ」
「つっまんね」
口角を下げて心の底からつまらなそうにイードゥは言う。
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