第40話 たった二文字の言葉


「だから……だから私も智明のこと、家族だって思うようにしたんだよ? 智明が私のこと、そういう風に見てくれないなら……私も同じようにしないといけないって、思ったんだよ?」


 流れる涙を拭うことすら放棄して、楓花が語る。


「智明は私の家族だって何度も自分に言い聞かせて、ようやく受け入れられたんだよ? それで高校生になって、新しい恋ができて、私も変われるって思ってたんだよ?」


 強く握り締めた両手の拳を自分の胸に押しつけて、楓花が胸の内を吐き出す。

 怒りながら、そして泣きながら。それは決して伝えるつもりのなかった言葉だと言っているような顔だった。


「やっと自分の気持ちが整理できたんだよ? それなのに……なんで今更、そんなこと言うの? どうして今になって、そんなこと言っちゃうの?」


 吊り上げた楓花の目が、少しずつ変わっていく。


「……もう戻れないよ。あの時の気持ち、もう戻せない。だって、それをしたら……私の今まではなんだったの? 私が必死に言い聞かせてきたことは無駄だったの? 新しい恋で、悠一君を好きになった気持ちはどうなるの?」


 ほんの少しずつ、でも確かに彼女の顔は歪んでいった。


「この気持ちは、嘘じゃない。悠一君を好きだって気持ちは、嘘じゃない。だって好きになったんだもん。絶対に、嘘にできない」


 流れる涙が増えるたび、彼女の顔が歪んでいく。


「だから……もう智明がなにを言っても、もう全部遅いんだよ。私と智明は、ずっと、これからも家族なんだから……家族で居続けないといけないの!」


 そして涙声になりながらも、楓花はそう言っていた。嗚咽を漏らして、必死に声を出して。

 それはまるで自分に言い聞かせているようにしか聞こえなかった。

 漏れる嗚咽を堪えているのか、楓花が崩れそうになる表情を抑え込んで俺を睨んでいる。


「……」


 そんな彼女を見て……本当に俺は、言葉がなにも出なかった。

 楓花が胸の奥底に隠していたことを改めて知っても、それを理解することができなくなっていた。


 どうしてそんなことになったのかわからなくて、理解の範疇を超えていて、放心してしまった。


 楓花が、俺のことを好きでいてくれた。

 楓花が、俺と同じ気持ちだった。

 楓花も俺と同じように、いつか自然と気持ちを通じ合って、大人になっても一緒にいると思ってくれていた。

 全部、俺と同じだった。同じ気持ちだった。


 それなのに、どうして彼女がそれを認めないのか……本当に理解できなかった。


 なんで諦めたんだ?

 なんで勝手に諦めてるんだ?

 どうして勝手に決めつけて、新しい恋を始めてるんだ?

 今、俺も同じ気持ちだったと知ったのなら、その気持ちに正直になれば良いだけじゃないのか?


 それを認めれば、全て丸く収まるはずなのに。


 今の気持ちが無駄になるだって?

 俺を諦めた覚悟が、気持ちが、無意味になる?

 新しい恋、風宮悠一を好きになった気持ちが嘘になる?

 その原因が、全部……俺だって?


 今までの楓花の話が、頭の中を駆け巡る。

 全部、俺が悪いと。


 こうなった原因が……俺?

 確かに俺は、楓花に俺達は家族だと言ってきた。

 小さい頃、引っ込み思案だった楓花と一緒にいる時から、俺はそう言ってきた。

 楓花がいじめられた時も、そう言って何度も助けた。

 ずっと俺達が一緒にいるのは、俺達が幼馴染で家族だからだって……そう言い続けた。それが彼女と一緒に居られる言葉だと思って。

 そうしないと俺は、楓花と一緒に居られない。なにか理由がないと、どうしようもなく好きな彼女と一緒に居れないと思って。


 それが楓花に、こんな馬鹿げた思い込みをさせていた?


 俺が今までどんな気持ちかも知ろうとしないで?

 俺がどれだけ楓花のことが好きなのか分かりもしないで?

 家族だって言葉だけで、それだけで俺のことが好きだって気持ちを諦めた?


 俺が、どんな想いで楓花を諦めたのか知らないくせに――


「俺が……」


 そう思った瞬間、自然と声が出ていた。

 無意識に手に力が入る。いつの間にか作っていた拳が震えて、信じられないくらい痛かった。

 泣いている楓花を見ているだけで、どうにかなりそうな感情が湧き上がってくる。

 この気持ちを、俺は知っていた。これは俺が風宮に抱いていた気持ちと同じだった。

 楓花と風宮が一緒にいる場面を初めて見た時に感じた気持ち。

 これは、紛れもなく――怒りだった。


「俺が……! あの日、お前に好きな人ができたって言われた時……俺がどんな気持ちだったかわかるか?」


 自分の口から、声が勝手に出てきた。

 それを止められるはずもなく、俺の口は動いた。


「俺が……どんな気持ちで楓花を諦めたと思ってんだよ? どんなに辛くても、楓花が幸せならって諦めるしかなかった俺の気持ち、わかるか?」

「わかんないよ……! だって、知らないもん!」


 大きく首を横に振る楓花に、俺の声が少しずつ強くなっていくのが嫌でもわかった。


「あの日から俺はずっと楓花が風宮と一緒にいるのを見てきたんだぞ? お前が嬉しそうに風宮といるのを三ヶ月も、ずっと見てきたんだぞ? どうしようもなく好きなお前が他の男に取られる光景を三ヶ月も、毎日見せられたんだぞ? あの時間がどれだけ辛かったと思ってるんだ?」

「そんなの知らないよ! だって智明が私と同じ気持ちだったって知らなかったんだよ! 私にわかるわけないでしょ!」

「俺が好きだったって言うのに、そんなすぐに風宮に乗り換えられるんだ?」


 無意識に出た俺の言葉で、楓花の目が一瞬で変わった。

 ハッキリと俺にはわかった。彼女のその目は、怒りの込められた目だった。


「私がどんな気持ちで新しい恋を始めたのか知りもしないくせに!」

「俺にわかるわけないだろ! お前だって俺の気持ちを知りもしないで勝手に決めつけんなよ!」


 そもそも、それだけで良かった。

 最初から、俺と楓花が気持ちを確かめ合っていれば……こんなことにはならなかった。

 楓花が風宮を好きになる前に、楓花が俺を勝手に諦める前に、俺の気持ちを知っていれば、こんなことにはならなかった。


「そんなの智明が悪いじゃん! 家族! 家族だって言って! 私にそう思わせたのが悪いでしょ!」

「なら確かめれば良かっただろ! 俺がどんな気持ちなのか!」


 そう、聞けば良いだけだ。

 ただ一言、自分のことが好きかどうか聞けば良いだけだった。

 それができていれば、それで全部綺麗に収まるはずだった。


「できるわけないでしょ!」

「なんでできないんだよ!」

「私のことを家族だって思ってる智明に告白なんてできるわけない!」

「勝手に思ってただけだろ!」

「じゃあ智明が先にしてくれれば良かったじゃん! そう言うなら、なんで私にもっと早く言ってくれなかったの!」


 すぐに言い返そうとしたが、咄嗟に言葉が出てこなかった。

 楓花にそれを求めるのなら、俺にも同じことが言える。

 俺がもっと早く楓花に気持ちを確かめていれば、この気持ちを伝えていれば、話は変わっていた。


 だけど、それが今まで一度もできなかったのは……どうしてだろうか?


 ふと頭に浮かんだ疑問だったが、その答えはすぐに見つかった。

 とても単純で、馬鹿げた話。だけど、それは誰もが思う当然のことだった。


 この気持ちを伝えて、もし相手が同じ気持ちじゃなかったら……今の関係が変わってしまう。


 その悪い結果を想像して、俺は怖くてできなかっただけだった。

 もし楓花が俺を家族としか見てなかったら、今の関係が壊れると思って……言い訳をしてきた。

 それに気づかないフリをして、逃げてきた。


 いつか自然と気持ちを通じ合わせるなんて都合の良い言葉を並べて、先延ばしにしてきた。それが無意識に俺が選び続けてきた選択だったのだと、気づいた。気づいてしまった。


「言えないよね? 言えるわけないよね? その気持ちが自分だけかもしれないって思ったら、怖くて言えないよね?」

「っ……!」


 俺が言葉に詰まったのを良いことに、楓花が責めてくる。

 しかし、それは彼女も同じだった。


「楓花だって、俺に言えなかっただろ!」

「そうだよ! だってずっと智明に家族って言われ続けたんだから! 言えるわけない!」


 俺ができなかったように、楓花もできなかった。

 俺が家族という言葉を使ってきたから、自分と俺の気持ちが違うと楓花は思い込んできた。


 それを改めて理解した瞬間、ようやく俺はその言葉の重さを思い知った。


 俺が今まで使ってきた家族という言葉。

 そのたった二文字の言葉が、どれだけ俺達の気持ちを縛っていたのかを。


 楓花と一緒にいるために使い続けた言葉で、俺は楓花に家族と思われていると勝手に思い込んだ。

 楓花は俺に家族と言われて、俺に家族としか思われていないと思い込んだ。


 その短い単語だけで、俺達はそう思ってしまった。

 そうなった原因が誰かと言われれば、そんなのはわかりきっていた。


 その言葉を最初に使ったのは、俺だ。


 だから、こんなに俺達がすれ違うことになったのは……俺が原因だった。

 そのことを悟った瞬間、俺の喉から声にならない悲鳴が出たような気がした。

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