2. いつだって、今ここでが、ベストタイミング



 バルバルバルバルバルバルバルバルバルバルバルバル―――


 不快な騒音が鳴り響いていて、俺は意識を取り戻した。

 俺は誰だ?

 目を開いてまず、自分自身に確認した。

 俺は俺だ。村上真尋だ。

 次いで、時系列を確認する。

 俺はヒデちゃんの家の前の広大な原っぱの真ん中で、仁子ちゃんからオサキを引き受け、意識を失った。この場面は、その続きだ。

 認識が、正しくを捉える。

 俺は狂っちゃいない。

 視界は一面ベージュ色だった。俺は上を向いて横たわっている。プラスチック製の天井が見えている。

 てっきり自動車のシートにでも寝かされているのかと思ったが、身体を起こしてみるとヘリコプターの中だった。バルバルいっていたのは、ヘリコプターのエンジン音だ。

 視線を横に動かす。窓の外には空しかなく、昇ったばかりの太陽がほぼ真横から機内を照らしていて、俺は目を細めた。

「目が覚めたかね」

 助手席(ヘリコプターでも助手席というのだろうか? まあ、自動車だったら助手席と呼ぶ部分だ)に座った九鬼さんが、振り返らずに言った。たいして大きな声でもないのに、バルバルという騒音の中でも、不思議とよく聴こえた。

 パイロット席にはヘルメットを被った見知らぬ男が座っていて、ヘリコプターを操縦している。九鬼さんの部下の誰かなんだろう。

 ヘリの後部には四人掛けのシートが横一列に並んでいて、俺はそこに転がされていたようだ。

「起きたなら、シートベルトをしたほうがいい。揺れることがある」

 見ると、パイロットと九鬼さんはきっちりと四点式のシートベルトを装着していた。

 ――取り込まれるな。

 俺は思う。あるいは、それは俺に憑りついたオサキがささやいた言葉だったかもしれない。

 九鬼さんの場を掌握する、支配する力は、たぶんひとかどのものだが、陸吾の見せた、すべてを呑み込み粉砕するうつろほどじゃない。あれに比べれば、すべては子どものお遊戯みたいなものだ。俺は、俺のコントロールを手放してはいけない。

 落ち着こう。まずは、頭の中に落ち着くようなBGMを流すんだ。たとえばこう、壮大なクラシック音楽とか。

「ヨハネス・ブラームスの、シンフォニー・ナンバーワン・フォース・ムーヴメントか。悪くない趣味だ」九鬼さんが言った。余裕のある態度が鼻について、ムカついた。「露骨なベートーヴェンのオマージュだが。そう、敬意が感じられる。心を落ち着けるには、やや騒がしすぎるきらいがないではないがね」

「ずいぶんとやり方が派手ッスね」前かがみになり、おでこを押さえて、俺は言った。「歳のわりには人生経験あるほうだと思うんスけど。ヘリコプターに乗ったのは、生まれてはじめてだ」

「悪くないもんだろう? しかしまぁ、そう、派手さは問題だ」

 かさかさに掠れた俺の声は、たぶんヘリコプターの騒音にかき消されて九鬼さんには届いていなかったのだが、九鬼さんは平然と返事をしてきた。なるほど。心を読む能力ってのは、便利なもんだ。

「騒音がすごいし、機体も大きく、離着陸の場所も限られる。操縦技術の習得も難しい。それらの問題点は今後、電動マルチコプターが解決するだろう」

 ヒデちゃんの家の前は広い平らな原っぱになっている。あそこなら、ヘリコプターの離着陸もできただろう。ヘリコプターで乗り込んできた九鬼さんは、オサキの憑いた俺をヘリにサッと積み込み、そのまますぐに飛びあがったというわけだ。太陽の高さからして、まだそれほど時間は経過していないはずだ。

「やはり、君はなかなか頭の回転が速い。つとめて冷静でいてくれているのも助かるよ。むやみに感情的になったところで問題はなにひとつ解決しないし、無駄な手間ばかりが増える」

「それにしたって、ずいぶんと準備がいいんですね」

 俺が訊くと、九鬼さんは前を向いたまま頷いた。

「それはもちろん。ユーリからちくいち報告は受けていたからね」

 ユーリは九鬼さんの部下なのだから、それは当たり前の話ではあるのだけど、俺はすこしショックを受けた。なんとなくユーリも俺たちに馴染んでくれているように感じてしまっていたが、彼女はもとから九鬼さんの側なのだ。つまり、俺たちの敵だ。

「まあそう敵視してやらんでくれ。彼女の君に対する好意は、どうやら本物だよ。感情を持たない冷徹な機械のようだった彼女が、どうして突然そんなことになったのか、私にも皆目わけが分からないのだが。まあロマンスとはもともと、そういうものなのだろう。人の歴史さえもが、個人の非論理的な感情に振り回されるのも、そう珍しいことではない」

「そッスか」

 九鬼さんの言い分を鵜呑みにするわけではないが、俺はユーリに対する判断は保留にする。今はとにかく、目の前のこの男に対処しなければならない。いよいよラスボス戦だ。俺は、ちゃんとしなければ。

「彼女は君をよりしろにすることには最後まで難色を示していたが、しかし、言ってみればこれは大いなる運命の導きのようなものだ。誰にもどうすることもできない。君は、なるべくしてオサキの憑代となった。そうだね?」

「あ~、まあ。そッスね」

 俺も同意する。別に俺がすすんでオサキを憑けたってわけでもなく、なんとなく色んな流れが、その方向に収束してしまっただけのことだ。

「でも、それもこれも九鬼さんの意図した通りではあったんでしょ? ヒデちゃんのことだって、最初から分かってたんスよね?」

「もちろんだよ」九鬼さんはこともなげに頷いた。「私をなんだと思っているんだね? 多少、想定したよりも時間は掛かったが、あの場所じたいはとうに特定できていた。しかし、一度オサキが逃亡を図った以上は、私が追いかけたところで、またなにか想定外の事態が起こって逃げられてしまう。追っても無駄なんだ。一方、オサキに呼ばれた者は、どのような経緯を辿ったとしても、最終的にはオサキと出会うことになる。君は導かれたのだよ」

「なるほどね」

 俺は溜め息をついた。

「体調はどうかね? 発熱などはないようだったが」

 九鬼さんの質問に、俺は「すこぶる快調ですね」と、返事をした。実際に、寝起きにしては体調はめちゃくちゃよかった。思考も、いつも以上にくっきりしてるくらいだ。

「素晴らしい。オサキを取り込んだ直後は、誰しも体調を崩すものだが、どうやら君は先生同様に適性があったのだろう。だからこそ、オサキに呼ばれたわけだ。たしかに君には、すこし先生と似たところがある。飄々としていて屈託がなく、妙なものに好かれやすい。奇妙なかたちの、包容力のようなものがあるのだろうな」

「で、このまま木更津まで直行ですか?」

 俺が訊くと、九鬼さんは頷いた。

「万が一にも間違いがあってはいけないからね。木箱に閉じ込めればさすがになにもできまいと考えていたが、やつは私の想定を上回っていた。私も、もう油断はしない。さすがに上空六百メートルの密室となれば、もはや取れる手段はないだろう。あらゆる可能性はすでに、閉じられている」

「で、なんでその大事な木箱の中身が仁子ちゃんだって、最初から教えてくれなかったんスか?」

 親父が金目のものをネコババしてトンズラしてるっていうのと、実の娘を木箱から助け出して逃げているっていうんじゃ、随分と話が違う。

「私は可能な限り、君に正直に話をしたつもりだがね」悪びれもせず、九鬼さんは言った。「私が探していたのはオサキであって、新井仁子の肉体ではない。あの時点では、すでにオサキが村上智尋氏に移っている可能性も大いにあった。空の新井仁子を連れてこられても仕方がないのだよ。概念的には、彼女は私が探していた『毛むくじゃらの犬のようなもの』ではなく、それを収めていた木箱にちかい」

「なるほど。まあ、辻褄は合わないことはないッスね」

「さて、話をしよう。過去ではなく、これからの話だ」九鬼さんが芝居がかった仕草で、腕を広げた。「幸い、到着まではまだ二十分ほどある。ここなら、誰の、どのような邪魔も、決して入らない」

「これからね」俺は自分のこめかみに指を当てた。「あんまり気は進まないッスけど、いちおう、おうかがいしますよ」

 九鬼さんは、一呼吸だけ置いて、話しはじめた。

「君だって、今の世界はなにかがおかしいと感じているはずだ。かつてはこの国にも、真面目に努力しさえすれば、凡庸な人間でもちいさな幸せに手が届く。そんな夢のような時代があったのだ。そんな程度のことが、今のこの国ではまるで夢物語のようになってしまっている。そうだろう?」

「ええ、ええ。まあ、そのあたりの感覚には、俺もあるていどは同意しますよ」俺は頷く。「どうも、俺たちの世代はずいぶんな貧乏くじを引かされちゃっているようだと。そんな気は、しないこともないッスけど」

 俺は、背嚢いっぱいに糸を詰め、焼け野原をとぼとぼと歩いたひぃじいちゃんのことを思った。

 川崎の街角でロールスロイスを盗んで走り出した、怒れる茂木少年のことを思った。

「哀れなことだよ。君たちになにか非があるわけでもないのに。生まれた時代が悪かったのだ。かつては、巨大な単一のシステムが人々を支配していた。優れた資質を持つ、単一の王による支配だ。しかし人々はシステムを恐れ、憎み、打ち倒し、粉々に粉砕した。その結果はどうだ? 矜持も持たぬ利己的な獣がいくつも台頭し、世界をめちゃくちゃに食い荒らしただけだ。私はこの荒廃した世界を、立て直さなければならない。真に英雄に相応しい王による、単一の支配を取り戻す必要がある」

「王、ねぇ」

 俺はイラクの地下で、クウェートの人々の平和な暮らしのためにトンネルを掘っていたヴィジャイのことを思った。

 亡くなったおばあちゃんが残した台所で、ひとり中力粉を練るおやき屋のおばちゃんのことを思った。

 そういった、今、この俺に繋がる、俺が皮膚感覚で実感できる、それぞれのエピソードの肌触りみたいなものが、俺をこの男から守ってくれていると感じた。

「君のことだよ。村上真尋くん」九鬼さんが言った。「地盤も、組織も、ネットワークも。必要なものはすでに、すべて整っている。君の居場所は、私が用意した。あとは空位の玉座に王を迎え入れるだけなのだよ」

 俺は午前二時に窓辺で三角座りをしていたレーコさんのことを思った。

 継いだ質屋をあっという間に潰してしまったじいちゃんのことを思った。

 松田龍作が出るドラマが流れているあいだは、なにが起こっても決して反応しないばあちゃんのことを思った。

 どうしようもなくだらしない親父と、なんでか、その親父が大好きでしょうがない母ちゃんのことを思った。

「この世を阿呆が踊り狂う、混沌のディスコクラブにしておいてはいけない。誰かがタクトを振り秩序を与えねば、シンフォニーは成立しないのだ。君は王になるんだ。私がサポートしよう。私と君で、この世界を美しく調和のとれた楽園にするんだ」

 俺は最強のかわいいを目指し、日々の鍛錬を怠らないヒナのことを思った。『相手にとってやっかいな相手になるっていうのが、勝ちにいくってことだからね』俺の脳裏に、ヒナの言葉が浮かんだ。

 あ、やべ。思い浮かべちゃった。

「申し出はまぁ、なんつーか……」俺は言った。相手はこっちの心を読む。思い浮かべてしまった以上は、対応する時間を与えず、即行動に移すしかない。「大変、興味をそそるところではあるんですけれど」

 横を向き扉を見る。ヘリコプターの構造には詳しくないが、見た感じはタウンエースのスライドドアとあまり変わらない。

『だから、まーくんもヤベーって思ったら、ヤベーときこそ躊躇せずに即行動に移したほうがいいよ。覚えておきな』

 オーケイ、ヒナ。根拠のない異常な自信に基づく、躊躇なしの即行動だ。

 手を伸ばしハンドルを引く。空気抵抗のせいかべらぼうに重かったけど、扉は開いた。ドカンッ! と風圧がやってきて、すさまじい風が俺の髪をぐちゃぐちゃにした。

「なにっ!?」

 終始、余裕ぶっていた九鬼さんが慌てて振り返ろうとしたけれど、四点式シートベルトでしっかり固定されていて、うまくいかなかった。ガチャガチャとシートベルトを外そうするが、風でぐちゃぐちゃになった長い髪がとても邪魔そうだった。

「あんたのその、血の通わない空虚な言葉は、俺にはいまいち響かないみたいだ」

 俺は言った。だいたい、俺のかわいいかわいい実の妹を、言うに事欠いてあつかいするようなヤツが語る、調和のとれた理想的な世界なんて、俺にはまったく魅力的に思えない。

「待て! 落ち着きたまえ! 君がここで命を捨てたところで、いったい何になるというんだ! 君にはなんのメリットもないだろう!?」

「そッスね」俺は軽く首を傾げ、九鬼さんに向かって微笑んだ。「でもどうやら、俺はあんまり実利的な人間じゃないみたいッス。たとえ俺ひとりがババを引く羽目になるんだとしても、絶対、アンタにだけは得をさせたくない」

 おあつらえ向きに、脳内BGMのブライチも最後のコーダに差し掛かっていた。

 決断しろ! 村上真尋!!

 いつだって、今ここでが、ベストタイミングだ。そうだろ? 怜奈――

「そいじゃ」

 ひょいと。

 俺は扉の向こうに身を投げた。

 ふわっと。

 俺は重さを失う。エレベーターが上昇するときのような、一瞬の無重力体験。俺は反射的に目を閉じ、考える。そういう習慣になっている。

 俺は大海賊王みたいに豪快な王塚紀一郎が抱えていた虚無感と、憎悪さえも擦り切れてしまったオサキの悲しみを思った。

 ――すまんな。こんなことに付き合わせてしもうて。

 オサキが言った。

 ――まあ実際、たまったもんじゃないけどな。でもいいさ。最終的には、自分で決めたことだ。

 地球の重力が再び、俺を捉える。俺は存在にふさわしいだけの重さを取り戻す。全自動洗濯機に放り込まれた毛布みたいに空中でぐるぐると回っていた俺の身体が、風を受け止め、だんだんと安定する。風向きで、目を閉じていてもどちらが下か分かる。自分がどんどん加速しながら、まっさかさまに落ちていくのを感じる。しょんべんをちびりそうなほど怖い。でも、俺がどれだけビビッたところで、もはやできることはなにもない。

『わしをこの世界から消し去るには、あらゆる可能性を完全に断ち切るよりほかない』

 あらゆる可能性は既に閉じられている。

 ――オサキ。これでお前もやっと、先生と同じところにいけるだろ。

「わははははははははははははははははっ!!」

 オサキが爆笑する声を、俺は聞いた。

「こんなことがあるか!? つくづく悪運の強いやつじゃ!!」

「え?」

 俺は目を開いた。

 びっちり四角に敷き詰められた巨大なマットレスのかたまりが、猛スピードで眼前に迫っていた。

 秩父の山奥から木更津へと真っ直ぐに飛ぶヘリコプターから身を投げた俺は、落下しながらどんどん加速して、吉祥寺にある我が家の屋上を埋め尽くす、十段以上も積み上げられた『真実の眠りを提供する極厚マットレストゥルースリーパー』の山に、時速百二十キロでズバンッ! と着地した。



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