4. 秩父市太田部のA井H子さん



 昨日に引き続き、絶好のおでかけよりだった。

 俺とヒナとユーリと茂木さん、四人を乗せたタウンエースは関越自動車道を軽快に進んでいた。茂木さんの運転は相変わらず丁寧だったけど、例の黒塗りの車のように地面から浮いてるような乗り心地とはいかず、タウンエースはゴトンゴトンと適度な揺れをともなって、俺たちを北へ北へと運んだ。

 タウンエースには純正ラジオ以外のオーディオ機器がないので、周波数をナックファイブに合わせていた。二発しかない貧相なフロントスピーカーから、軽薄なJ-POPがシャカシャカと流れていた。

 児玉インターチェンジで高速を下り、あとは下道で西へと向かう。すぐにあたりはパカッとひらけた、のどかな田園風景になり、それがだんだんと山間の景観にかわっていく。まっすぐ平坦に伸びていた道が、ぐねぐねとしたワインディングロードになる。ナックファイブに雑音が混ざりはじめ、ついにはただのノイズだけになった。ツーリング趣味の人たちに人気の道らしく、気合いの入ったロードバイクの集団をいくつも追い抜いた。

 やがて木立のあいだから、左手に大きな湖が見えた。水面が反射する光が流れる木立にさえぎられ、俺のまぶたをストロボライトのようにパカパカと赤くらした。

「うわー、綺麗だね」と、ヒナが嬌声をあげた。

かんですね」茂木さんが解説してくれる。「かんがわの水をせき止めてできたダム湖です。神流川をずっとさかのぼっていきますと、たかの尾根のあたりに出ます。1985年に日航のジャンボ機が墜落したところです」

「あ、それはなんか聞いたことはあるよ」と、ヒナが応じる。

「あの事故で、多くの方が亡くなりました。歌手の坂本九さんも、そのひとりです。スキヤキを歌った人です」

「スキヤキ?」ヒナが首を傾げると、「スキヤキのミュージック」と言って、ユーリがメロディをハミングした。とても澄んだ、綺麗な音色だった。茂木さんが「そう。それがスキヤキです」と、頷いた。

「僕もそれは知ってるよ。えっと、なんだっけ? 有名なやつだよね。ふふふふ~ふふ、だから、えっと、あれだ。『上を向いて歩こう』だ。うーえをーむーうーいて、あーるこーおおお♪」

「そうです。そうです。『上を向いて歩こう』です。それのジャズ・カバーが『スキヤキ』というタイトルで、イギリスでヒットしたのです。それで、スキヤキです」

「なんでスキヤキなの?」

 茂木さんの解説に、ヒナが首を傾げる。

「私もよく分かりませんが、たぶん『上を向いて歩こう』はイギリス人には発音が難しかったのでしょう。日本の曲だしスキヤキでいいんじゃないか、みたいな、いい加減な話だったのではないかと思います。しかし彼の歌に独特な、あの懐かしさとともに胸に染み入るような温かみに『スキヤキ』という語は非常にマッチしているように、私には感じられますね」

「あ~、まあたしかに。スキヤキって、なんとなくノスタルジーだもんね」

「ええ、そうです。ノスタルジーです」

 ラジオも切ってしまっていたので、ユーリのハミングだけがドライブのBGMだった。ユーリのハミングは、決して大きくはないのによく通る。なんだか静謐な雰囲気で、わりと景色にもマッチしていて、悪くなかった。

 いったん視界から湖が消え、ぐねぐねと坂を上って下り、また湖のほとりに出たあたりで、例によってヒナの「お腹すいた~」がはじまった。

「もう間もなく目的地付近になりますが、そうですね。そろそろ昼になりますし、このあたりで一度、休憩を挟みましょう」

 茂木さんの提案に一同が同意したが、延々と山道が続くばかりの道のりで、一向にお店の一軒もなかった。坂道を上って下り、上って下りしたところで、やっと『お休処』の看板が現れた。

「こちらでいかがでしょうか?」と、茂木さんが訊いたが、他に選択肢はなかった。「なんでもいいよ~。なにか食べよう~」と、ヒナが返事をして、茂木さんが左にハンドルを切り、駐車場にタウンエースを入れた。

 駐車場は砂利敷きで他に車はなく、建物は簡素なプレハブ小屋で、古びたダイドーの自動販売機が一台、表に出ていた。入り口の脇には色あせた『おやき』ののぼりがはためいていて、年季を感じさせた。アルミサッシの扉を引いて中に入ると、カウンターの奥で赤い手ぬぐいを頭に巻いたおばちゃんが「いらっしゃい」と言った。

「えっと、休憩できます?」

 俺が訊くと、おばちゃんが「できますよ」と、返事をした。「休憩なら、奥の座敷にどうぞ」

 店内は四人掛けのテーブル席と、ちゃぶ台がふたつの座敷席があるだけだ。靴を脱いで座敷にあがる。ヒナが窓辺に這い寄り「あ、すごいよ。オーシャンビュー!」と喜んでいたが、オーシャンではないと思う。レイクビューか、リバービューだろうか。わりに幅が広いので、ここもまだ湖なのかもしれないが、細長いので川と言われれば川にも見える。ダム湖というのは、どこまでが川でどこからが湖の判定になるのだろうか? まあなんにせよ、どちらもオーシャンビューよりは訴求力がいまいち弱い。

 壁には木の札に毛筆で書かれたメニューが掛かっていて『しゃくし、あずき、きんぴら、あまみそ、のざわな、きりぼし』とあった。お茶を持ってきてくれたおばちゃんに「しゃくしってなんですか?」と訊いたら「葉っぱだよ」と言われた。ずいぶんと漠然としている。

「ぜんぶおやきだよ。おやきしかないよ。あ、あと、焼き栗とつけものくらいはあるけど」

「えっと、じゃあ。とりあえずおやきを全種類と、焼き栗とつけものをください」

「はいはい。いまあずきないから、それ以外になっちゃうけど」

「はい。それで大丈夫です」

「お茶はサービスだから。いくらでも飲んで」

 いったんカウンターの奥にひっこんだおばちゃんが、すぐにお盆におやきを乗せて戻ってくる。「これがしゃくし、こっちがきんぴら、で、あまみそ、のざわな、きりぼし大根」と、早口で説明をしてくれたけれど、外観はぜんぶ同じなので、おばちゃんが引っ込む頃にはどれがなんだか分からなくなってしまった。

「まあ、食ってみりゃ分かるか」と、あまり期待せず口に入れてみたら、これがまためっぽううまかった。俺が食べたのはたぶん『しゃくし』だったけど、たしかになんかの葉っぱで、野沢菜にちかいような感じだけど、もっとシャキシャキしていて、さわやかな口当たりだ。

 おそらく『あまみそ』をとったヒナも「あ、おいしい」と言う。

「まーくんの、それなに?」「たぶん、しゃくし」「しゃくしってなに?」「葉っぱだよ」「一口ちょうだい」

 俺がおやきを差し出すと、ヒナが身を乗り出して一口かじった。十秒咀嚼。

「うん。こっちもおいしい。これだけじゃ量がぜんぜん足りないけど」

 たぶん『のざわな』を食べたユーリが「しょっぱい」と顔をしかめた。もぐもぐと噛んで飲みこんだあとで「甘いのと思いました。でも、おいしいです」と、頷いた。

「なんかユーリ、毎回それ言ってるね。ひょっとして甘いのが好きなの?」と、ヒナが訊いた。

「ダ。甘いは、からだがホットになります。からだ~、よく動く」

「あ、糖分は燃焼がはやいてきな話? 好き嫌いじゃなくて」

 意外と実際的な理由だった。ヒナもそうだけど、ちょいちょい殺伐とした世界観に生きているのが、ちょっと気になるといえば気になる。 

「はい、焼き栗とつけもの」と、持ってきたおばちゃんが、ユーリに「うまいかい?」と訊いて、ユーリはもう一度「おいしいです」と、頷いた。

「あそう。アレだったら写真も撮ってね。あなたインスタグラマーでしょ」なにを根拠にしたのか分からないが、おばちゃんが一方的に断定する。「インスタグラマーが広めてくれると、東京の若い人がいっぱいくるから」

 おばちゃんに言われて、ユーリは素直にかじりかけのおやきの写真を撮る。ずんぐりとしたベージュ色でインスタ映えするタイプの食べ物じゃないので、写真だとあまり美味しそうには見えない。

「すいません。このしゃくしってのを、全員にもうひとつずつ」と、俺はおばちゃんに注文する。「はいはい」と、軽い調子で返事をして、おばちゃんはまた奥に引っ込む。

「あそこにすこし見えている太田部橋というのを渡った先が、秩父市太田部という地区になるようです」

 消去法的に『きんぴら』を取ったと思われる茂木さんが、窓の外を指差して言った。見ると、遠くのほうにギリギリ、赤い吊り橋のようなものが見えた。ためしにスマホで検索してみると、あの橋を渡った川向こうのエリア一帯ぜんぶが太田部という地区のようだ。

「けっこう広いッスね」

 本には秩父市太田部としか書かれていなかったので、親父が取材した元オサキモチの家が太田部のどこにあったのか、その詳細までは分からない。

「ええ、けっこう広いです。この地区のどこかにいるかもしれない、オサキモチの家を探さなければなりません」

「なかなか大変そうッスね」

「ええ、なかなか大変そうです」茂木さんが頷いた。「あるいは、山中に分け入って、野生のオサキを見つけてくるか」

「それもなかなか大変そうッスね」

「ええ、ええ。それもなかなか大変そうです」

 そこでおばちゃんが「はいよ。しゃくし、しゃくし、しゃくし、しゃくし」と、おかわりのおやきを持ってきた。俺はおばちゃんに「太田部の、元オサキモチの家系の人を探してるんですけど、なんか知らないッスかね?」と、訊いてみた。

「なにモチ?」

 言って、おばちゃんは顔をくしゃくしゃにしかめる。なに言ってんのこの人? の顔だ。

「オサキです。オサキモチ」

 一瞬、心が折れそうになったが、このおばちゃんの他には訊く相手もいなかったから、俺はがんばってもうちょっと食らいついた。ナイスガッツ、俺。

「オサキ? いや、聞いたこともないね。こっちはモチってより、基本まんじゅうかおやきだから」

「いや、食べ物の話じゃなくて、うーんと、たぶん動物です。イタチとか、そういう類の」

「分かんないね~。わたし、もともとこのへんの人間じゃないから。五年くらい前まで、千代田区の保険会社でセールスやってたもの。シティーガールなの」

「え? そうなんスか?」

 わりと意外だ。なんか、赤い手ぬぐいと色あせたエプロンとまんじゅうがすごい似合っていて、地元のおばちゃん感がめちゃくちゃ溢れている。でもまあ千代田区で保険のセールスやっていたのは本当かもしれないけど、ガールは言い過ぎじゃないだろうか。五年でガールからおばちゃんに劇的進化を遂げた可能性もなくはないが。

「ここ、もともとわたしのおばあちゃんがやってたとこなんだけど、亡くなっちゃってね。でも、けっこう根強くファンがいたものだから、お店を潰しちゃうのもしのびなくて。それで、そのころちょうどわたしも離婚したりなんだりで、なんか都会の生活に行き詰ってたから、いい機会だと思って引き継ぐことにしたの。て言っても、わたしそれまでおやきなんか作ったこともなかったし。孫は孫なんだけど、たくさんいるうちのひとりで、その中ではわりと疎遠なほうだったから。おばあちゃんが生きてるうちは、そんなに仲が良かったってわけでもないんだけど。だけどおばあちゃん、わりと筆まめな人でね。レシピノートを残してくれてたから。それもけっこうな達筆でね。たぶん筆ペンで書いてたんだと思うけど。わたしはそれ参考にしながら、どうにかおばあちゃんのおやきを再現しようって頑張って。でもレシピって言ってもアレよ? 他の誰かに作り方を伝授するような書き方じゃなくて、本人のメモみたいな感じだから。レシピっていうより、日記みたいな感じかね? おばあちゃんはたぶん、毎日毎日おやき焼いてるだけの人だったから、日記を書いてもレシピに近づくみたいな感じで。で、それを解読しながら、むかしからのお客さんにどうですか? どうですか? って聞いて試行錯誤して。でも全然うまくいかないし、当然もうからないし、なんでこんなこと始めちゃったのかな~? もう辞めちゃおうか~? って何度も思ったんだけど。でも、おばあちゃんの残した台所で、おばあちゃんの残したレシピ見ながら中力粉を練ってると、なんだかおばあちゃんと一緒にやってるような気になってきてね。腰が痛くて、ふと頭を上げたときなんかに、ああきっとおばあちゃんもこうやって背筋を伸ばして、この光景を見たんだろうな~って。なにもぜんぜん、面白い景色じゃないよ? ただの散らかった台所なんだけど。でもきっと、おばあちゃんもたしかに、これと同じ光景を同じように見たんだろうなって思って。生きてるときは、そんなに喋りもしなかったのにね。わたしもぜんぜん、おばあちゃんっ子っていうのでもないし。でも、おばあちゃんってこんな人柄だったのかなぁ? とか、そういうのがね、なんかだんだん分かってくるわけ。手掛かりはすごく少ないんだけど、でもいたるところにちょっとずつあって。そういうのが浸透するみたいな感じでね。細かなつぶつぶが集まって砂絵みたいに全体像を作るような感じに、おばあちゃんっていう人が見えてくるわけよ。死んだあとで仲良くなったみたいな感じね。そうなると、な~んだか途中で放り投げるのも忍びないでしょ? やり始めちゃったものは仕方ないし、これはせめて、おやきを完成させるところまではちゃんとやらねばと思って、おばちゃんりきを入れてまた中力粉をこねてこねて、アレしてコレして、一年ほどかかってやぁ~っと常連さんにも、うん、これはおばあちゃんのおやきだなって言われるくらいになってね。こんなお店だけどね。ここまでなるのに、おばちゃん、わりと大変だったんだから」

 相槌を打つ隙すらないレベルの、おばちゃんの独演会だったが、なかなか面白い話だったので「それはなかなか、大したもんッスね」と、俺は素直に感心した。

「めちゃくちゃおいしいよ、これ。しょっぱさがすごくちょうどよくて」と、ヒナも改めて褒める。

「どうもね」とヒナに笑顔を見せ、おばちゃんがお座敷のふちに腰を下ろす。「で、なんだって? イタチ?」

「あ、え~っと。オサキです。オサキ。毛むくじゃらの犬みたいな感じらしいんですけど」

 焼き栗をつまんで不思議そうに見つめているユーリに、おばちゃんは「こうやるのよ」と剥きかたのお手本を見せて、ひょいとひとつ口に放り込んでから、言った。

「毛むくじゃらの? なに? 犬のブリーダーみたいな話?」

「犬のブリーダー……、みたいな話ではないと思うんですけど、最悪まあ、それでもいいです」

 どうしようもなかったら、最終、九鬼さんには奥秩父産のポメラニアンでも渡すしかないので、まあなんであれ、情報はないよりあったほうがいいかもしれない。

「なんか一時期、橋向こうに犬のブリーダーが住みついてたことはあるらしいけど、わたしが越してきた頃にはもう空き家になってたね。空き家っていうか、えらい荒れてて、廃屋っていうの? けっこう有名な心霊スポットになっちゃってるみたいで、たまに若い子が肝試しに来たりするみたい。大きくなる種類の犬を育ててたみたいで、おっきな檻とかがそのまま残ってるんだけど、それで『座敷牢の家』とか呼ばれてて。普通に犬のケージなんだけどね」

 おばちゃんの説明に、俺は「そうなんスね」と、曖昧な返事をする。さすがにそれは、俺たちが探している『毛むくじゃらの犬みたいなもの』とは関係がなさそうだ。今はもう犬もいないみたいだし。九鬼さんをだまくらかすにしても、現物がないんじゃどうしようもない。

「まあでも、なんにせよ。太田部なら探すもなにも、今はヒデちゃんひとりしか住んでないから」

 さらりと言うおばちゃんに、俺は「え? そうなんスか?」と、訊き返す。

「そう。たしかに面積としては広いけどね。あの橋の向こうはもう手入れされてない山林と、耕作放棄された段々畑の残骸があるだけで。二年前くらいにヒデちゃんの旦那さんも死んじゃったから、今じゃヒデちゃんが太田部集落の最後の生き残りよ」

「そのヒデちゃんの、住所とかって分かります?」

「住所もなんもないよ。だって太田部にはヒデちゃんの家しかないんだもの。太田部のヒデちゃんって書いたらハガキだって届くよ。いや、ヒデちゃんじゃさすがに届かないかな? 届くかもしれないけど」

「ヒデちゃんって、名前はなんていうんスか?」

「名前は、なんていったかな~。このへんの人だから新井なのは間違いないけど、下は、ヒデだけだったか、ヒデ子だったか」

「新井ヒデ子さん」

 親父の本に出てきた、秩父市太田部のA井H子さんだ。


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