第五章 『日本社会の暗部に迫る! 陰謀File すべては奴らの思いのまま―― 王塚紀一郎 ~平成最後の影のフィクサー~ 揉み消された不都合な真実編』

1. はじめに



 戦時中に蓄えた物資を占領期に売りさばき得た莫大な資金をつかって戦後の右翼を糾合し「政財界の黒幕」として暗躍した児玉誉士夫。

 あるいは、戦前から対外資本の導入を研究し、大蔵省や都市銀行に対して絶大な影響力をふるい「金融界の黒幕」と恐れられた大橋薫。

 そういった積極的な活動を通じて「日本社会の影のフィクサー」と呼ばれた人物たちに比べると、王塚紀一郎という人物はいささか影が薄いと言える。

 しかし、戦後の歴代総理大臣経験者に「日本の思想的指導者は?」と問えば、十人中十人が王塚紀一郎の名前を挙げたという。

 一般的に知られる王塚の経歴は、1977年に明治大学哲学科の教授職を定年退職した時点で途切れており、以降の活動は数冊の著作が出版されているだけで、自宅で隠遁生活をしていたと言われている。

 だが実際のところは、ごく近年においても政界、財界、また皇室までもが王塚を頼り、多くの人々がたびたび木更津の自宅を訪れ、助言を求めていたという。

 王塚自身は自分のことを『野良の研究屋』と称しており、大学教授を辞して以降は一切の組織に所属しておらず、また組織を有しもせず、徹底的になんの権力も持たない個人であり続けた。しかし、各界の著名人がこぞって王塚の教えに心酔し意見を求めたため、王塚は個人でありながらも絶大な影響力を持ち続けた。

 その、そもそものきっかけとなったのが、卒業論文を元に自費出版した初の著書『身体性について』である。この本がたまたま高級官僚たちの勉強会である国維学団の目に留まり、彼らが勉強会のテキストとして用いたのを皮切りに、さまざまな研究会がそれを主題とした講演を行ったり、討論会を開いたり、一行一字ずつを精読し検討をするなど、並々ならぬ関心を寄せることとなった。

 しかし、そうして自身の著作が話題となっていた頃、王塚はひとり放浪の旅に出ており、長らく音信不通の状態だった。様々な人が王塚の著作の記述について、その真意や意図を訊ねたがったが、それが叶わないために議論はますます紛糾し、ふたつの学派が大論争を繰り広げるまでに加熱していた。

 このころ王塚の著作は、当時支配的であった右派団体によってしきりに援用されていたが、今日では彼らはまったくの誤解に基づいて王塚の著作を引き合いに出していたのだと理解されている。たまたま本人が失踪中であったために、訂正の機会が得られないまま、根本的に内容を誤解されたままで王塚の著作は右派の間に浸透していった。

 現代の視点から俯瞰して見れば、喜劇的とさえ言えるエピソードではあるが、しかし不思議なところがある。

 もともと成績優秀であったとはいえ、市井の一青年に過ぎなかった王塚が、大学の卒業論文を元に自費出版しただけの書物が、出版からほどなくして、たまたま高級官僚の目に触れるなどということが、そうそうあるだろうか?

 そしてそれは、当時支配的であった右派団体が、たまたまその内容を誤解し、たまたま誤解したままに気に入ったので、しきりに援用された。

 そのころ王塚本人は、たまたま失踪中であったために、誤解を訂正する機会は得られないまま、議論だけが紛糾していった。

 彼の経歴には、こういった「たまたま」が異様に多いのである。彼の人生は常に、とてつもない幸運に恵まれているのだ。

 真に価値ある良いものを書けば、それは必然的に見出されるものだ、という考えは、あまりにも世界を善良に、素朴に捉え過ぎているだろう。

 ゴッホは生前、一枚しか絵が売れなかった。宮沢賢治は詩集を自費出版したが、誰にも受け入れられなかった。

 真に才能にあふれ、時代を先取りし過ぎていたために、正当な評価を受けるには時代が追い付いてくるのを待たねばならず、不遇のまま生涯を閉じた偉人は数多い。

 では、王塚の著書は、その時代に評価を受けるのにちょうど良い程度に、ほどよく先進的であったのだろうか?

 彼の著作の内容についてはそのものを当たって頂きたいので解説を省くが、彼の思想の根幹というのは初の著書である『身体性について』から一貫しており、今でこそ解説書も多数執筆され、その思想の一部は今ではむしろ常識と呼べるレベルにまで一般に浸透しているものの、その当時においては明らかに異端で、先進的すぎた。本来ならば、正当な評価を受けるまでに五十年は待つ必要があっただろう。

 ふらりと放浪の旅から戻った王塚は、各右派団体から熱烈なラブコールを受けることになる。多数の講演依頼や討論会への参加の打診はもちろんのこと、団体の代表や顧問として迎え入れたいという話も、ひとつやふたつではなかった。

 しかし王塚本人は、彼らとは方法論や関心事だけでなく、そもそも気質的に合わないと感じていたような節があり、数々の誘いには是でも否でもなく、のらりくらりといなしている。それは別に『たまたま』ではなかったかもしれないが、仮にこの段階で王塚が右派に完全に取り込まれ、その中心人物となっていたら、彼は戦後、戦犯として東京裁判の法廷に立つことになっていただろう。

 王塚の著作が右派のバイブルとなっていたために、戦後、GHQは右派の思想的リーダーのひとりとして、まだ年若い王塚も逮捕するように命じた。彼はA級戦犯容疑者として45年11月に巣鴨プリズンに投獄されている。だが彼の著作を実際に読んだGHQは、むしろ彼の思想の先進性に感銘を受け、彼こそが日本の戦後民主主義の思想的柱となるべきだと考えた。

 誤解によって、戦前、右派の精神的支柱とされた王塚が、GHQによってようやく正当に理解されたために、戦後、またしても新時代の民主主義の精神的支柱となったのだ。

 王塚自身の思想は本質的にまったく変化していないにも関わらず、王塚はそのときどきで、驚くほど都合よく時代の波に乗っている。

 ほどなく彼は釈放され、秘密裏にマッカーサーとも対談したと言われている。

 この、彼の人生につきまとうあまりの幸運は、本当にただの『たまたま』だったのだろうか?

 常々このような疑問を持っていた筆者が、あるひとつの噂を聞きつけたことが、この本を書くに至った動機である。

 曰く、著作を出版後、長らく王塚が失踪していたのは、精神を病んでいたためであると。

 なぜ精神を病んだのかといえば、それは、ある憑きもの筋の女性から、悪い憑きものを憑けられたからなのだと。

 そして調査の末、筆者はこの噂が事実であると確信するに至った。

 王塚に憑きものを憑けたという女性。筆者は秩父市太田部の山奥の集落で、その本人に会うことができたのだ。最初は口の重かった女性であったが、筆者自身も集落に住み込み生活を共にするうちに、徐々に打ち解け、ついに彼女から当時の話を聞きだすことができたのである。

 女性は語った。王塚は憑きものを憑けられたのではなく、自ら申し出て、それを女性から引き受けたのだという。

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