3. おいしいインド料理 マハーバーラタ 荻窪本店(※クーポンあり)



 いったんヒナが下りてきて「出掛けるなら化粧するから」と言って上にあがり、完成形のなんちゃって女子高生スタイルで下りてきて、じゃあそろそろ出掛けますかと腰をあげたのが十一時半くらいだった。ずいぶんとモタモタしてしまった気もしたけれど、もともと昼頃にという約束だったので、結果的には予定通りだ。

 ばあちゃんが表の通りまで見送りにきて、茂木さんに「また遊びにいらしてね」と、手を振った。

「茂木さん、車は?」

 俺が訊くと、茂木さんは「裏のコインパーキングに停めております」と、返事をした。「ファントムですと、ちょっと駐車をするにもいちいち気を使いますので、その点は、タウンエースのほうがはるかに優れておりますね」

「で、どうするの?」と、ヒナが言う。

「どうしようか?」と、俺は上を見上げる。空しかない。カラッと晴れていて、絶好のお出掛け日和ではある。

 どうするかもとくに決めないまま、俺とヒナとユーリと茂木さんの四人で、ぶらぶらとコインパーキングのほうへと歩き始めた。すこし前には貧相なナリだった街路のやなぎも、暖かな陽気に当てられフサフサに生い茂っていて、まったく別の木みたいに見えた。

「とりあえず、親父が荻窪に行ったことは分かっているから、荻窪のほうに行ってみるか」

 俺が言うと、ユーリが「画像、あります」と、スマホを見せてくれた。昨夜、九鬼さんに見せられたのと同じ、防犯カメラのキャプチャ画像だ。コピーやプリントアウトはNGということなので、ユーリに見せてもらうしかない。歩きながら、俺とヒナはユーリに顔を寄せた。

「このへんはなんか、見当つくね」と、ヒナが言う。「ここは事務所近くのローソンだし、その次は女子大通りかな」

「マップ、あります」ユーリがマップアプリを開くと、親父の車が防犯カメラの映像で確認されたポイントにピンが立てられていた。概ね、女子大通りから都道4号に入り、東に向かって、荻窪駅の北側で足跡が途絶えている。

「んじゃ、まあ。とりあえずこのルートを辿っていきますか」と、俺は提案する。

 コインパーキングの料金を折半せっぱんしようと財布を出したら、茂木さんが「経費で落ちますので」と、全額払ってくれた。そういうことならと、俺はあっさり財布を引っ込めた。無職のプーはなかなか経済的に苦しいのだ。

 フラップが下りたのを確認して、タウンエースに乗り込み出発する。日差しにチンチンに温められた車内は暑かった。ユーリが助手席で、俺とヒナは後部座席だ。

「これ、どうやって窓を開けるの?」と、ヒナが訊くと、茂木さんが「ハンドルを回してください」と返事をした。スライドドアにチョンとくっついている小さなハンドルをぐるぐる回すと、窓が下がった。

「うわ、すっご! こんなの初めて見た」

「以前は、車の窓といえばもっぱらそういうものでしたが、そういえば、最近は珍しいかもしれませんね」と、茂木さんが言った。「むかしは対向車に怒鳴るのにもハンドルをぐるぐる回して窓を開けないといけませんから、大変でした。左手でクラクションをバンバン叩きながら、右手でハンドルをぐるぐる回して首を出し『お前みたいにどんくさい坊主は車の運転なんかしてないで家に帰ってママの茹でたスパゲッティでも食ってな!』と、怒鳴るわけです。一連の動作をスムーズにこなさないと、なかなかません」

「思ったよりも長文」

 さっき、ばあちゃんと思い出話に花を咲かせたせいか、血気盛んだったころの怒れる茂木少年がちょびっと顔を出しているような気がする。まあいいか。

「へえ、茂木さんもむかしはそんな感じだったの?」と、ヒナが驚く。そういえばヒナは聞いてなかったなと思って、俺はヒナに、ばあちゃんと茂木さんの縁についてや、茂木さんが先生と出会った経緯などを説明した。

「昨日通ったアクアラインも、鎌倉と木更津にそれぞれ先生が住んでいたから建造されたらしいぜ?」

 俺がそう言っても、ヒナは行きも帰りもアクアラインを爆睡状態で通過したので、あまり実感がないようで「ふーん?」みたいな微妙な反応だった。

「茂木さんの先生って、そんな有名な人だったんだ。なんて名前なの?」

 ヒナが訊くと、茂木さんは「先生のお名前は、王塚紀一郎です」と、答えた。

「王塚紀一郎。オーヅカキイチロー。う~ん、僕もなんか聞いた覚えがあるような。いや、聞いた覚えじゃないな。なんだろう、見覚え? があるような」

 ヒナがむぅ~んと考え込む。

「高名な先生でございましたし、著作も多数ございますから」と、茂木さんが言うが、ヒナは「いや、哲学の先生なんでしょ? そんな難しそうな本とか、僕が読むわけないよ」と、首を横に振る。「ていうか、そもそも本じたいまったく読まないし。あーでも、本。本な気もするな。文字として見た気がする。キングの王に、グレイヴの塚でしょ? 僕いま、王塚紀一郎って名前を聞いて、ナチュラルに頭の中で変換できちゃったもん。それもなんか、赤と黄色で。でも僕、本なんか読まないしな~」

 そこで窓の外に目を向けていたユーリが「ここ」と、かどの郵便局を指差した。

 俺とヒナはリアシートから身を乗り出し、ユーリのスマホを覗き込む。親父のハイゼットが映っていたポイントだ。ユーリがスイスイと、画面をスワイプする。「あ、ほらあそこ」「そのファミマがそれでしょ?」と、画像と現場を見比べる。

「ていうかアレだね」と、防犯カメラの画像を見ながらヒナが言う。「こうして客観的に見ると、ともくんってめちゃくちゃ挙動不審だね」

「いや、それはアレじゃねぇの。やっぱ逃亡中だから」と、俺。

「逃亡中なんだっけ?」と、ヒナ。

「ニェ。それまだ、わかりません」と、ユーリ。

「あれ? そっか。そこもまだ、いちおう不明なままなんだっけ?」

 そもそもの話、親父は逃亡しているのだろうか? 親父がどっかで虎の尾を踏んで、尻尾を巻いて逃げ出しているというのは、絵面てきにもものすごく似合うので納得できるのだが、それが『毛むくじゃらの犬みたいな』『運気向上のウルトララッキーアイテム』をネコババしてとなると、なんか、うん? って感じになる。

 九鬼さんにとっては、それはたいそう価値のあるものみたいだけど、うちの親父がそんなものに目がくらむとは、俺には思えなかった。親父はもっと短絡たんらく的で俗物ぞくぶつ的だし、たぶんうちの家族の中でも一番、信心深くない。

「だよね。絵里さんはアレで、ちゃんとしてるときはわりと、神棚のお供え物のお酒とかお水とかを替えたりもしてるし」

「ばあちゃんも、ちゃんと毎日じいちゃんの仏壇を拝んでるしな」

 そういう意味では、うちの家族はわりとナチュラルに信心深いほうなのかもしれないけれど、親父がそんなことをしているのなんか、見たことない。

「ともくんは、どっちかっていうとをでっち上げて、どうにかして人に売りつけようとして、失敗して家に在庫が積み上がる、みたいなのが定番のパターンじゃん?」

「あ~、まあ。そういうイメージだな」

 しかし、九鬼さんは『あれを直接に換金することは、まず無理だろう』と言っていた。誰かに高額で売りつけたりできるようなものではないということだ。なんなら、物品ですらないくらいのニュアンスだった。木箱には入れられるのに物品ではないというのも、禅問答みたいでますます意味が分からないが。

「それに、親父にとってはそれが『本物』である必要なんて、まるでないしな」

「パチモノ屋だからね」

 パチモノをどうにかパッケージングして売りつけるのが、親父の本業みたいなもんだ。わざわざリスクを冒してまで九鬼さんから『本物』をネコババすることはない。

 まあなんにせよ、そのへんは親父を見つけ出してから、本人に直接訊けばいい。ここで俺たちがあれこれ考えたところで、仕方がない気はする。

 茂木さんが運転するタウンエースはとろとろと女子大通りを抜け、西荻窪で大通りに出て、荻窪方面に向かう。たった二駅の距離なので、あっという間に走破してしまう。

 角にフレッシュネスバーガーがある信号を指差して「ここが最後」と、ユーリが言う。

「大通りを走ってたのなら防犯カメラに映るだろうから、ここから路地に入ったんじゃない?」と、ヒナが言う。「右か左、どっちかは分かんないけど」

「まあ、右行ってみて、なにもなかったら次は左に行ってみればいいんじゃないの?」と、俺が雑な提案をし、茂木さんが「ではひとまず、右折いたします」と、ハンドルを切る。

 一方通行の細い路地に入り、しばらくトロトロと走ったところで、ヒナが「ていうか、お腹空いちゃった。なんか食べようよ」と、言った。

 そういえば、俺とヒナは起きてからまだなにも食ってない。昨日の晩、親父の事務所に行く前にカレーを食べたっきりで、昨日はその後がどえらく長かったから、寝る前の時点ですでにめちゃくちゃ腹が減っていたのだった。

「あ、そういえばヴィジャイの店ってこのへんじゃないか?」思い出して、俺は言った。

「ええ~? 昨日カレーだったのに、またカレー?」ヒナが難色を示す。

「いやカレーって言っても、俺らが自分で作るカレーライスと、ヴィジャイのカレーはまた別じゃない? 味選べるし、米じゃなくてナンだし」

「うんまぁ、おいしいことはおいしいけど」「いいじゃん。あそこならすぐ近くにコインパーキングもあるし。ユーリは?」

 俺が訊くと、ユーリがこちらを振り返り『ニェ?』という顔をした。

「カレーは好き? インド風の、本格的なやつ」

「ヤネニュー? あ~、たぶん、大丈夫。なんでも食べます」

「あそう」

 たしかに、ユーリは出されたものはなんでも食ってるイメージがある。おいしいんだかイマイチなんだかが、よく分からないだけで。

「じゃあ、行こうぜ。久しぶりに思い出したから、ヴィジャイの顔も見ておきたいし」

「どちらに向かえばよろしいですか?」と、茂木さんが言うので、俺は「そこの一時停止のところを左に曲がってもらって」と、ナビをする。

 コインパーキングにタウンエースを停めすこし歩くと、細々とした飲食店がならぶ細い通りの一角にヴィジャイのインドカレー屋がある。古い建物を改装したもので、一階正面だけはインド風の外観になっているけれど、二階は完全に昭和の民家だ。

 緑に塗られた木製の引き戸を開けると、相変わらずお店はなかなかの盛況で、カウンターの奥でヴィジャイが「シャッセ―」と、いい加減な日本語で挨拶をした。

 俺とヒナの顔を見て、ヴィジャイはやや笑顔を見せた(デフォルトがめちゃくちゃ怒ってるみたいな顔なので、笑顔も微妙だ)が、続いて入ってきたユーリの顔を見るなり険しい表情になり、比喩でなくブルブル震えながら「シーアイエー!!」と、叫んだ。まだCIAの追跡には怯えているようで、金髪の白人はみんなCIAに見えるのだろう。

「大丈夫だよ、ヴィジャイ。ユーリはCIAじゃなくて、ロシア人だから」

 裏口から逃げ出そうとするヴィジャイを捕まえて俺が言うと、今度は「ロシア!? ケージービー!?」と、さらに狼狽うろたえて、落ち着かせるのにちょっと苦労した。料理を食べ終え談笑していたお客が何組か、そそくさとお会計を済ませて出ていって、おかげで広いテーブル席が空いた。

「本当にCIAでないか?」

 席にメニューを持ってくるときも、ヴィジャイはまだ疑わしそうにユーリのことを見ていた。ユーリが「ニェ。わたし、CIAちがうます。わたし、CIA、きらい。おなじ。敵の敵は、味方ですね?」と答えた。いやユーリもCIAが嫌いっていうのは、それはそれで胡乱うろんな話だが。CIAに嫌いも好きもあるか? 普通。

「マヒロ。気をつけろ。彼女はタダモノでない。すぐわかる。あれはコロシヤ」

 ヴィジャイが俺の耳元でささやいた。

「ヴィジャイ。戦争はもう終わったし、イラクではこのあいだ民主的な選挙が行われたってよ。安心して」

 俺が言うと、ヴィジャイはしょんぼりと肩をすくめ、言った。「あの選挙、よくない。ウソっぱち。アメリカ、イラク見捨てた。モトのモクアミ。残念。ワタシのトンネル、無駄だった」

 ヴィジャイはヴィジャイで、今もイラクの人々に対して責任を感じているらしい。なんかよく分からんが、いろいろと大変だ。まあでも、ヴィジャイがトンネルを掘るのを投げ出したから、イラクで(ヴィジャイが言うところの)ウソっぱちの選挙が行われたというわけではなく、それらは誰にも(おそらくアメリカ大統領にも)制御できない、大きな流れのようなものの結果なのだろう。ヴィジャイにどうこうできることではなかったのだし、責任を感じるものでもない。

「そう落ち込むなよ、ヴィジャイ。日本は今日も平和で、あんたのカレー屋はこんなにも流行ってるじゃないか」

 俺が言うと、またヴィジャイは表情をけわしくした。

「CIA、イタルトコロにいる。平和なときほど、アンヤクする」

 なんだよこいつ。相変わらずめんどくせぇな。

「とにかく、彼女はCIAじゃないよ。俺が保証する」

 ヴィジャイはまだ疑わしそうな目でユーリを見ていたが、しかしよく考えれば、もともとこんな顔つきだった気もする。水とおしぼりは出してくれたので、いちおう、カレーを食わせてくれるつもりはあるらしい。ヒナがユーリに「これはベジタブルで、こっちは、豆。えっと、ビーンズ? 甘いのと、辛いのと、甘辛いの」と、メニューの説明をした。「あ~、甘いのがいいです」と、ユーリが答えた。

 それぞれ、カレーが二種類選べるランチセットを注文した。ヴィジャイがサービスでラッシーをつけてくれた。これはユーリも気に入ったようで「フクースナ」と言っていた。ロシア語はさっぱり分からないが、間違いなく『おいしい』の意味だろう。

 カレーを持ってきたヴィジャイに、俺は「ところでここ数日、親父が行方不明なんだけどさ。ヴィジャイ、なんか知らない?」と、訊いた。ヴィジャイは周囲を警戒するように見回したあとで、俺の耳元で囁いた。

「トモヒロ、きたよ」

「え、マジで?」

 俺が聞き返すと、ヴィジャイはまたユーリをジッと見つめ「本当にCIAないか?」と言った。ユーリが頷くと「ほかのお客出るまで待て」と言い、表の看板を裏返してCLOSEにした。


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