2. 幸町の怒れる少年



 十時過ぎに目を覚ましエレベーターで居間に下りると、扉が開くなりばあちゃんの笑い声が聞こえてきた。俺が顔を出すと、ばあちゃんが「ああ、まーくん。茂木もてぎさんがいらっしゃってるよ」と、声を掛けてくる。

 茂木さん? と、俺は一瞬思うが、コタツを挟んでばあちゃんの向かいにユーリと昨日の運転手がきちんと正座しているのを見て、まあユーリが茂木さんのわけはないし、ということは、あの運転手、茂木さんっていう名前だったんだと納得した。

 なんか殺風景だなと思ったら、ここ数年かけっぱなしになっていた洗濯紐がなくなっていて、干しっぱなしの洗濯物もぜんぶどこかに片付けられていた。母ちゃんはコタツから引っ張り出され、隅の畳スペースに転がされていて、毛布をかぶり、まだぐうぐうと深い寝息を立てていた。

「いやぁ、もうびっくりしたぁ。最後に会ったのが二十歳くらい? だったから、もう四十年ぶりになるのね。ああもう、こんなおじいさんになっちゃって。そりゃあ、わたしもおばあちゃんになるはずだわ」

「いやいや、お嬢様はほんとお変わりなく、お綺麗でいらして」

 と、ばあちゃんと運転手(茂木さん)が談笑していて、え? なに? ふたりはなんか知り合いなの? と疑問に思ったのだが、それはとりあえず置いといて、まずはユーリに「おはよう」と声を掛けた。「頭、大丈夫だった?」

「ダ。ばっちり、だいじょーぶ。検査、オッケー。問題ないです」

 そう言ってユーリは親指を立てるのだが、相変わらず表情には乏しいので変な感じだ。こう見えて実は、わりとテンションが高い状態なのかもしれない。

「ユーリも、親父を探すの手伝ってくれるの?」

「ダ。ダ。わたし、あなた守るします。約束です」

 なんだかよく分からないが、ユーリも手伝ってくれるらしい。まあ賑やかなのはいいことだ。

「トモヒロ・ムラカミ、探す。データ必要です。でもデータ、ちょっとグレー。コピー、プリントアウト、だめ。あなた見るだけ、オッケー」

 言語的な表現力の不足を補うためだろうか。ユーリが身振りを大きくつかって説明してくれる。だめ、のところで両手でをつくり、オッケーのところで親指と人差し指でをつくる。相変わらず表情には乏しいが、なかなかコミカルな印象だ。

「ああ、なるほど。昨日、九鬼さんにも親父が映っている防犯カメラの映像のキャプチャ画像を見せられたけど、入手経路がグレーなものだから、むやみに外部に流すことはできないってこと? ユーリが持っていて、それを俺が見るのは構わない?」

「ダ。ダ。見るだけ、オッケー」

 左右、両方の手でオッケーじるし。めちゃくちゃオッケーだ。

「そういうことなら、手伝ってもらったほうが俺も助かるな」

「ダ。たよるに~? する? たよりにしてください」

「うん。たよりにしてるよ」

 俺が笑うと、ユーリも口の端をちょっと持ち上げた。笑ったらしい。

「で、なに? ばあちゃんと、茂木さん? 知り合いなの?」

 俺も座布団にあぐらをかきつつ、ばあちゃんに訊く。

「そうなの。ほら、たかの大ばあちゃんちがあるでしょ?」

「ああ」

 俺は頷いた。ばあちゃんの母ちゃん、つまり俺のひぃばあちゃんの実家で、わりと結構なお金持ちだったはずだ。血縁としては結構遠いのだが、ああいう大きな家の場合は遠い血縁でも顔を出すものらしく、あっちの人の葬式やら法事やらの関係で、俺も何度か行ったことがある。物心がつく前の話なので、あまりはっきりと記憶にないが、子供用のおもちゃみたいなネクタイを首につけられたのと、でっかい庭つきのバカでかい家だったのは覚えている。

「あそこにおうづか先生がいらしたことがあって、ばあちゃんはそのときまだ中学生とかだったんだけど、大人同士が中で難しい話をしているあいだ、ばあちゃんは庭で茂木さんに遊んでもらってたのね。フリスビーとかして」

 ばあちゃんが言うと、茂木さんがニコニコしながら「そんなこともありましたねぇ」と、相槌を打った。

「その頃は茂木さん、もっとなんていうか、ちょっとツンツンした感じで、不良じみたところがあって、ものすごくかっこよかったのよ。十代の頃ってほら、不良にあこがれるじゃない? ばあちゃんも例に漏れず、ちょっとそういうところがあったから。もう、ほんと、あれよ。茂木さんは、ばあちゃんの初恋の人」言って、ばあちゃんはほっぺたに両手をあて身をよじる。なんだよ、その乙女みたいな反応は。六十二歳だぞ。「あーでも、まあ、ずいぶんとまぁるい感じになられてねぇ?」

「いろいろございましたからねぇ」と、また茂木さんがニコニコ頷く。「あの当時は私も、まだ先生に拾われたばっかりで、なにしろその前は川崎のかっぱらいでしたから、常識だの礼儀だのがまったくなっておりませんで。いや、お恥ずかしい」

「川崎のかっぱらい?」と、俺は茂木さんに訊いた。かっぱらいって、泥棒のことだよな。茂木さんが? 意味分かんないくらい高そうな車を運転していて、ブライチだかなんだかの、大層なクラシックとかも聴くのに?

「ええ、私は先生に拾われるまでは川崎のバラック街に暮らしておりまして、水道も通わず、衛生車の巡回もないようなところでした。電気が通じたのは64年の東京オリンピックの後のことです。住民はだいたい、とかという、今でいうところの、そうですね、リサイクル業のようなものに従事しておりましたが、若いのはまあ、そうそうまともに育つはずもなく、私も十歳になる前から置き引きやらかっぱらいをしておりまして」

 そうほがらかに話す、目の前の柔和にゅうわな雰囲気の茂木さんと、川崎のかっぱらいという語が頭のなかではうまく結びつかず、俺はとりあえず「ほお」と、曖昧な声をあげた。



 ☟



 川崎のバラックに暮らす茂木少年は、物心ついたときから常にいかっていた。具体的ななにかに怒っているというよりも、自分以外の、自分を取り巻く世界のすべてに対して怒っていた。もうとにかく怒っていた。茂木少年にとって、生きるというのは怒るということだった。

 怒れる茂木少年は、川っぺりのバラックから街中に出掛けては、かっぱらいやら置き引きやらで日銭を稼ぎ、なんとか糊口のりくちをしのいでいたが、いつかこんなケチな悪さではなく、なんかデカいことをやってやろうと心に決めていた。あまねく世界に、自分の怒りの大きさを示さなければならないと考えていた。

 ある日、怒れる茂木少年が巨大な東芝の工場の敷地の脇を歩いていると、道路になにやら、めちゃくちゃカッコイイ車が停まっていた。怒れる茂木少年の目は、その車に釘付けになった。怒れる茂木少年は、猛烈モーレツにそのめちゃくちゃカッコイイ車を運転したいと思った。バラック街のポンコツ車を無免許運転で慣らしていたので、車の運転には多少の心得こころえがあった。茂木少年が足を止めジーッと見つめていると、運転手がドアを開けて東芝の守衛所のほうへと歩いていった。エンジンは掛かったままだった。

 怒れる茂木少年は、これはせんざいいちぐうのチャンスと思った。なにしろ、怒れる茂木少年は、失うものも守るべきものもないならず者の無法者なので、やりたいと思ったことを我慢する理由がなかった。気に入らないやつはぶん殴るし、ほしいものはかっぱらう。生まれてこのかた、そのようにして生きてきた。

 めちゃくちゃカッコイイ車を見かけ、猛烈にそれを運転したいと思ったなら、おまけに都合よくそのチャンスがめぐってきたのなら、実行に移さないわけがなかった。怒れる茂木少年は、素早く車に駆け寄ると、するんと運転席に乗り込んでギアを入れ、脇目も振らず発進した。

「なんだ小僧。お前、この車がほしいのか?」

 低く落ち着いた声が後部座席のほうからした。バックミラーを確認すると、中折れ帽子をかぶったスーツ姿の男と目が合った。てっきり無人だと思い込んでいた茂木少年はたいそう驚いたが、なにしろいつも通りに怒り狂っていたので「うるせえ黙ってろ! ぶっ殺されてぇか!」と返事をした。

「カッカすんなよ、小僧」中折れ帽子の男は、まったく動揺した様子もなく言った。「車ってのは、そんなカッカした状態で乱暴に運転するものじゃないんだ。落ち着いて、視野を広く持て。ハンドルに置いたてのひら、ペダルにおいた足の裏にも神経を巡らせろ。感覚を開くんだ。伝わってくるぞ。ちゃんとした車は、ちゃんとメッセージを返してくる。そんなにカッカしてちゃ、なんも分からんだろ」

「黙ってろって言っただろ!」

 怒れる茂木少年は、中折れ帽子の男にそう言い返したが、しかし、視線を前に向け、ギュッと握り込んでいた掌をひらき、そっとハンドルの上に置き直した。最初こそ、怒れる茂木少年はグンとアクセルを踏み込みぐいぐいと加速したが、小向本通りを抜け多摩沿線道路に出るころには、わりに常識的な速度で流していた。車が、ハンドルとペダルを通じ、怒れる茂木少年に、そうしろと言っていた。このへんが、ちょうど心地いいところだと。

「なかなか筋がいいじゃないか、小僧」中折れ帽の男が言った。「それで、お前なんでまた、よりにもよってこの車を盗もうとしたんだ?」

「うっせえな。黙ってろって言ってんだろうがよ」と、怒れる茂木少年は言った。「めちゃくちゃカッコよかったからだよ。猛烈に運転してぇって思ったんだ。思っちまったら、やらない理由はないだろ?」

「そりゃそうだ!」と、中折れ帽の男は手を叩いて笑った。「いいこと言うじゃないか小僧。猛烈にやりたいって思っちまったら、やらない理由はねぇよな!」

 怒れる茂木少年は、正直、なんだこのオッサン? と思っていた。頭がおかしいんじゃねぇか? と。

「つまりお前は、こいつが高そうで金になりそうだからってわけじゃなくて、たんにめちゃくちゃカッコよくて運転してみたかったから、運転してやったって、そういうわけだな。結構、結構。そいつは仕方ねえ。なにしろこいつは、めちゃくちゃカッコいいからな!」

 ひとしきり笑ったあとで、中折れ帽の男が言った。

「ほんでよ、小僧。お前が本当にやりたいのは、このメタクソにかっちょいい車をかっぱらって、あとで刑務所にブチ込まれんのと引き換えに、ほんの何時間か転がすことか? それとも、心おきなくコイツと対話することか?」

「あぁん?」

 怒れる茂木少年は考えた。怒れる茂木少年はもう、生まれてこのかた、とにかく怒っていて、その巨大な怒りを世界に示す必要があった。俺はこんなに怒っているのだと、派手にブチ上げる必要があった。盗んだ高級車をアクセルべた踏みでぶっ飛ばし、御幸警察にでも突っ込ませてやれば爽快だろう!

 しかし、どういうわけか、怒れる茂木少年は丁寧にハンドルを繰り左折して、適切な速度で府中街道へと車を進めていた。車が、そうしろと言っていた。

「聞こえてんだろ、お前には。コイツの声が。でもなぁ、コイツはそんなお喋りの尻軽じゃねぇ。にゃあ、それなりに時間がかかる。ちょろっとハンドル奪ったくらいのことで、コイツの全てを知れるなんて思うんじゃねぇぞ?」

 車がなにかを伝えてくるなんて! そんなことがあるなんて、怒れる茂木少年は知らなかった。というか、茂木少年はほとんどなにも知らなかった。この世界には茂木少年がまだ知らないこと、見てないこと、やってないことがあまりにも多すぎた。あまねく世界に対して怒る茂木少年は、しかし、世界のことをなにも知らなかった。この車の声だって、まだぜんぜん聞けてない!

「お前の言う『猛烈にやりたい』ってのは、お前の本気ってのは、その程度のもんか? 違うだろ。本気で猛烈にやりたいことがあるならよ、そのためなら、なんだってできんだろ! やらねぇ理由はねぇよな!」

 後部座席の男がげらげらと笑った。

「ただ楽して大金がほしいってだけのやつに、むざむざと大金をくれてやるつもりはねぇけどよ。心おきなくこいつを運転してぇってんなら、方法はあるぞ。免許を取ってこいよ、小僧。免許さえありゃ、俺がお前を運転手に雇ってやる。お前はなかなか、筋がいい。きっといい運転手になるだろう」



 ☟



「それが、私と王塚先生の出会いでございました」

「なんつーか、ずいぶんとワイルドだったんスね」

 コメントに困った俺はとりあえず、そんな当たり障りのない感想を述べた。

「ええ。ずいぶんとワイルドで、尻すぼみでした。私はぐるりと一周して元の場所に戻ると、車を下りました。騒ぎになりかけていましたが、王塚先生が『なんでもない』と言って、その場を収められました。私に『免許を取ったら連絡してこい』と、免許取得の費用と、名刺をくださいました」

「で、そのとき盗んだ車っていうのが?」

 俺が訊くと、茂木さんは頷いた。

「ええ、はい。昨夜、私がお迎えにあがったときに運転していたあれです。きちんと整備し、四十年以上乗り続けております。いろんなところに行き、いろんなものを見ました。ハンドルを通して、いろんな声を聞きました。それでもまだ、全てを知れたとまでは思えません」

「たしかに、メタクソにかっちょいい車でしたね」

「ええ。メタクソにかっちょいい車です」

 しかし、たびたび話には出ていた『先生』だったが、具体的なエピソードをともなうと、俺がイメージしていたのとはだいぶ違った。百五歳で大往生した、偉い人がみんなして相談に訪れる哲学の大先生というから、もっとマスターヨーダてきな仙人じみた人を想像していたが、話を聞くと哲学の大先生っていうよりも、海賊王みたいな雰囲気だ。

「その頃は、先生もまだお若かったですからね。そこから何十年。ずいぶんとお変わりになりましたよ。九十歳を過ぎたくらいからは、ええ、たしかに。仙人じみた雰囲気も加わりました」

「加わったんスか?」変化したんじゃなくて、海賊王にそのまま仙人の要素がさらに加わったんなら、それはもう大海賊王なんよ。

「器のでっけー人だったんスね」

「器のでっけー人でした。一度、なぜ私を拾ってくれたのかとたずねたことがありましたが、先生は『お前みたいにとびきりキレたやつが貧乏バラックでくすぶってなきゃいけないのも、もとはと言えば俺たちの責任みたいなもんだから気にするな』と。先生は、自分にはあまねく世界を正しいありようにととのえる義務があり、世界に存在するあらゆる不具合に対して責任があると考えている節がありました。自分にはそれを変える力があるのだから、すべての人々に完璧な世界を提供しなければならないと」

「なんか誇大妄想じみてますね」

「ええ、実際に誇大妄想狂だったんでしょう。しかし、なんというか、この人なら本当になにかをやってのけてしまうんじゃないかと、周囲の人間にそう信じさせてしまうような、とびきりの豪快さがございました」

 まさしく歴史上の偉人といったぐあいで、カテゴリーとしては織田信長とか坂本龍馬なんかと同じフォルダって感じがする。そんな人がついこのあいだまで実際に生きていたということが、逆にびっくりだ。世界にはまだまだ、俺の知らないことがたくさんある。

「ばあちゃんも、先生のこと知ってたの?」と、俺が聞くと「知ってるって、そりゃ知ってはいるけれど、わたしからしたらもう雲のうえの人よ?」と、返事をした。「木更津の大先生と、かまくら殿どのといえば、日本の思想面での二大きょとうだったから」

「鎌倉殿?」

 またなんか知らない人が出てきた。鎌倉殿って、鎌倉幕府のとうりょうのことだよな?

「もちろん、本当の将軍様じゃないわよ。でも、もうひとりいたの。先生と似たような、そうね、日本社会の影のフィクサーみたいな人が。その人が鎌倉にいて、先生が木更津にいたもんだから、それでアクアラインを通すことになったって話よ」

「え? マジで?」

 あの巨大なトンネルと、銀河鉄道カタパルトみたいな長大な橋を、たったふたりの人間のために?

「いやいや。それはあの、俗説でございまして」ばあちゃんの話に、茂木さんが掌を横に振る。「もちろん、それだけのためにアクアラインを通したというわけでは決してありませんが。しかしまあ、あのように採算性が乏しい巨大な計画を駆動する、その片輪にはなっていたかもしれませんね」

「はあ~。なんにせよ、すごい話ッスね」

 実際にアクアラインが開通したのは90年代末だったと思うが、なにしろあれほどの巨大な構造物だ。その計画が持ち上がったのは、それよりも何十年も前のことだっただろう。

「まあ、そういった計画が各地で持ち上がった当時は、田中角栄が日本列島改造論などとブチ上げておりまして、日本全土がやや誇大妄想狂じみた熱狂の中にありましたから。尋常な感性では、川崎から木更津までを、海の底を通って一直線に繋いでやろうなんて発想は、そうは出てきません。今から同じようなスケールでなにかをやろうとしても、なかなか難しいでしょうね」

 そう考えると、それからたった何十年で、日本はずいぶんとしょぼくれたつまらない国になってしまったもんだな、といった感想も抱く。

 でもなんだって、イケイケで昇り調子なときはいいけど、潰れるときは一瞬なもんだ。うちのじいちゃんだって、ひぃじいちゃんが必死になって築き上げた質屋を、あっという間に潰してしまった。

 まあ俺はそんな、ひぃじいちゃんの夢のあとさきみたいな今のこのしょぼくれたうちだって、そんなに悪いものだとは思わないが。


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