第四章 毛むくじゃらな犬をめぐる冒険2

1. 小野田質舗興亡記



 むかしの話だ。

 理系の学生だったよしろうは、第二次大戦中もながらくへいえきを免除されていたのだが、最終的には学徒動員で軍隊に入った。1944年の7月、終戦の前年のことだ。

 といっても、鉄砲とはいのうをかついで戦地に行ったわけではなく、芳郎は立川飛行場脇の軍需工場にまわされた。いわゆる勤労動員だ。目的は『航空機生産の増強』だったが、実際には空襲を恐れて生産設備はすでに各地に疎開をしていて、芳郎が動員された頃には立川の工場はほとんどもぬけの空だったそうだ。俺が聞いたのは人づての話になるので、そこで芳郎が具体的にどんなことをしていたのかまでは分からない。聞いた話によると、飛行機にカモフラージュ用のネットをかけたり、それを外したりといった仕事をしていたようだが、それが具体的にどういう仕事なのか俺にはいまいちイメージできないし、俺になんらかの勘違いがあった可能性もある。まあなんにせよ、戦局を左右するような重要なものではなく、些末さまつ人足にんそくのたぐいだ。

 空から見ても目立つ立川飛行場と、その脇の軍需工場は、とうぜん空襲の標的になり、芳郎は動員されるなりボコボコに空襲にさらされた。カモフラージュ用のネットをかけた飛行機も、カモフラージュネットを外した飛行機も、ぜんぶ吹っ飛ばされるか撃墜されるかした。ほとんどなんの役にも立たないまま、ただ空襲の的になるために動員されたようなものだった。十三回にも及んだB29の爆撃を芳郎はなんとか生き延び、1945年8月15日、ラジオから流れるぎょくおん放送を聴いた。

 戦争が終わったのでふくいんとなるわけだが、それでこのあとどうしなさいというような指示はどこからもこなかった。誰も彼もがそれどころではなかった。自分がどうにか生き延びることに精一杯で、誰も立川飛行場で飛行機にネットをかけたり外したりする係の人間のことまでは気にしていられなかった。仕方がないので軍需工場に動員されていた各人は、めいめい勝手に家に帰ることにした。もちろんタダで帰るわけにもいかないので、火事場泥棒をしていくのは忘れなかった。軍需工場の建屋を漁り、金目のものを詰めれるだけ背嚢に詰めて帰っていった。

 芳郎はちょっとおっとりした人だったらしく、その火事場泥棒の波にも乗り遅れた。銃だの刀だのヘルメットだの、分かりやすい金目のものは、すでにぜんぶ持ち去られた後だった。芳郎は、綺麗さっぱりもぬけの空となった建屋をとぼとぼと歩き回り、最終的に、背嚢一杯に糸を詰め込んで、歩いて地元に帰った。

 この糸が大当たりだった。

 終戦後は爆撃で交通網、流通網が壊滅していたので、都市部では食料が不足し餓死者もでるありさまだったが、ちょっと農村部にいくと食べるもの自体はわりとあった。農家に頼めば、物々交換で食料を得ることはできた。だが農家は銃やら刀やらヘルメットやら、そんなものはまったく欲しがらなかった。必要なのは、もっとプリミティブな衣食住に関わるものだった。

 衣類だって貴重なので、みんなほつれようが破れようが、つくろったり当て布をしたりして着続けるわけだが、その繕うための糸が農村部ではぜんぜん手に入らなかった。芳郎が糸を一まきもっていくと、それで米がたわらでもらえた。おまけに、軍用の糸はめちゃくちゃ頑丈で品質もよく、すこぶる評判がよかった。

 火事場泥棒してきた糸でひと財産を作った芳郎は、戦後の闇市でモグリの金貸してきなポジションになっていた。

 ある日、そんな芳郎のもとをひとりの婦人が訪れた。闇市にまぎれるためか、身なりは敢えて粗末そまつに繕っていたのであろうが、その立ち居振る舞いから、良家のご婦人であろうことは芳郎にも容易にさっせられた。

「金を工面くめんしたいのです」

 そう言って、婦人はたもとから正絹の袋を取り出した。

「拝見いたします」言って、芳郎はうやうやしく両手で受け取った。中身はしろざやの短刀だった。目釘を抜き、めいを確認した。刀剣は芳郎の専門外であったが、たいそうな値打ちものであるのは間違いなかった。こうしたものを持っている以上は、婦人は元は華族であったのだろう。

 戦後、法の下の平等を定めた日本国憲法の施行により、すでに華族制度は廃止されていた。財産税が導入され農地改革によって土地も取り上げられ、住む家のほかにはなにも渡されず、食べるのにも事欠き、途方とほうに暮れる者も多かった。

 芳郎は事情を詮索せんさくすることもなく、黙って手持ちの有り金すべてを婦人に渡した。それでも、その短刀の評価としては安すぎたが、婦人は「こんなに」と驚嘆きょうたんすると「恩に着ます」と、頭を下げた。

「それでは、この短刀は大切にお預かりいたします」

 婦人に有り金すべてを渡してしまった芳郎は、しばらく苦しい生活を送る羽目になってしまったが、その短刀を流すことはなく、約束したとおりに大切に持ち続けた。

 別にその短刀にれこんだわけでも、華族に対する畏怖いふや忠誠心のようなものがあったわけでもなかった。芳郎は極めて実際的な理由で、その短刀を預かっていた。

 芳郎は、戦後の混乱やGHQの大鉈で華族が没落することがあったとしても、それは一時的なものだと固く信じていた。土地や財産を取り上げられたとしても、文化的な資産は、つまり頭の中に詰まった知識や知恵、身に着いた立ち居振る舞いなどは失われない。そして、それこそが華族を華族たらしめている、真の要素なのだ。彼らは必ず、遠からず再興する。自分はそれまで、これを預かっているだけでいい。

 芳郎は婦人の身元を訊ねなかったが、短刀の来歴を調べれば見当はついた。

 日本が高度経済成長にわいた最初の年の1954年、芳郎は三鷹のとある豪邸を訪れた。

「お預かりしていたものを、お返しに参りました」

 多くの華族がその権力の源泉たる土地を手放し没落していくなか、婦人は財産税を延納し、巨額の利子を払ってでも先祖代々の土地を手放すことを回避していた。ドッジデフレをなんとかしのぎ、土地価格の高騰こうとうで再び大金持ちに返り咲いていた。驚異的な先見の明で、繊維業から鉄鋼・製造業に所有株を移し、朝鮮戦争の特需とくじゅに乗って莫大な利益を得ていた。

 婦人はもちろん、数年分の利子をきっちり乗せて、短刀を買い戻した。戦後の混乱期、数々の国宝級の一品が二束三文で海外に流出していた。土地を守るためにはやむを得なかったとはいえ、悔しさに歯噛みした。もはや取り戻すことは叶わないだろうと、すっかり諦めていた。婦人は涙を流し、芳郎に感謝した。先祖が江戸時代に天皇からたまわったもので、家柄の証明とも言える、最も重要な家宝だったという。

 芳郎は数年間、短刀を預かっていただけでめちゃくちゃ儲かったうえに、元華族の大金持ちと顔見知りになり、吉祥寺で商売をやるにあたって大きな後ろ盾を得ることとなった。戦後の闇市から始まり、店舗も持たずカバンひとつであちこちを飛び回る生活を経て、どうした因果か、十二歳も年下のおてんだった元華族の末娘がお嫁にきたりして、娘も生まれ、家族を養わねばとますます商売に打ち込み、ついには自社ビルを持つまでに商売を広げた。

 この、小野田芳郎と十二歳年下のお転婆な元華族の末娘の間に生まれた娘というのが、うちの松田龍作推しのばあちゃん、御年おんとし六十二歳だ。

 ばあちゃんのとこに入り婿できたじいちゃんにさっぱり商才がなかったため、小野田質舗は二代であっさり潰れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る