3. 奇妙な男のこと



 家の前からドア・トゥー・ドアでここまで運ばれてきたので、帰りももちろん車で送ってもらうしかないのだが、来るときに乗せてもらった車はさすがに目立ち過ぎるのでもうちょっと普通の車はないだろうかと、最後に相談したら、男は「用意させよう」と言って、来たときとおなじ、ものすごい早足で部屋を出ていった。

 けっこうな長話をしたように感じたが、時計を確認するときっかり十四分が経過していた。

 案内の女性が「お車の用意が整いました」と呼びにきて、またウィザードリィてきな通路をぐるぐる歩いた。表に出ると、行きしと同じ運転手が、普通の白のタウンエース・バンのかたわらでピシッと真っ直ぐに立っていて、近づくと後部のスライドドアを開けてくれた。ガラガラと大きな音がした。

 グレーのビニール張りの平ぺったいシートに腰をおろすと、とても落ち着いた。やっとカフカ的に不条理な別次元を通り抜け、ふだん俺たちが暮らしている正常な世界に帰ってきた気がした。

 運転手が運転席に座り、慎重にドアを閉めたが、やはりバタンと大きな音がした。ガコッとトランスミッションがつながる振動があって、車が動き始めた。

「いい車ですね」

 俺が声を掛けると、運転手が頷いた。

「トヨタのエンブレムがついておりますが、実際にはインドネシアのアストラダイハツモーターで生産されている輸入車です。むこうは日本と違い日常的に洪水や道路冠水かんすいがありますから、吸気口が高く設定されていて水を吸い込みにくい構造になっています。駆動方式も、センターデフ機構を備えた本格的なフルタイム4WDで、スタックなどした際のためのデフロックスイッチもあり、ぬかるみからの脱出も容易です。こう見えて、限定的ですが、渡河とか能力もあります」

「渡河能力?」と、ヒナが訊ねた。

「川を渡ることができる、ということです。日本では自動車といえば道路や橋の上を走るものですが、国によっては、川といえば浅瀬を探して車で突っ切るのが日常というところもあります」

「へえ。ワイルドなんだ」

「ええ。ワイルドで、非常に、実際的な車です。不必要な部分は削り、必要な機能が必要なだけ搭載されています。伊達だて酔狂すいきょうでついている装備はありませんので、伊達と酔狂を車のかたちにして走らせているファントムとは、対極的な存在と言えます。しかし、そう、いい車です。どちらも」

「へえ、意外だね。運転手さん、なんかすごいピシッとしてるし、クラシックとか流すし、なんかもっとお上品な人かと思ってたんだけど。こういうヘビーデューティーなワゴン車も好きなんだ」

「そうですね。きちんと作られているものは、なんであれ好きですよ。もちろん、わたくしにも好みというのはございますし、単純に好き、というのともすこし違うかもしれませんが。ええ。これは先生がおっしゃっていたことなのですが、そう、敬意を払うべきかと思います。人の、ちゃんとした仕事に対しては、敬意を持つべきです。これはとても、ちゃんと作られた車です」

「あー、うん。それは僕もちょっと分かるかも。ちゃんとした仕事には、敬意を持つべき」

「これも先生が仰っていたことなのですが、目的があり、それを達成するのに十分な機能を備えているのが、優れているということです。これは、車も人も同じです。ファントムもタウンエースも、どちらも優れた車ですが、その目的が違います。ですから、どちらのほうが普遍的に優れているというものでもないわけです。それは、その人が持つ目的によります」

「その先生っていうのは、さっき俺たちが会ってた、あの背の高い人のことですか? 左右の目の色が違う」

 俺が訊くと、運転手は「とんでもない」と首を横に振った。「さんは、先生の秘書、みたいな感じの人でした」

 九鬼さん、というのが、あの男の名前のようだ。そういえば、彼は最初から最後まで名乗りもしなかった。

「今は、あそこで先生の『続き』みたいなことをやっています。しかし、よく考えると、なぜ彼が先生が亡くなったあとも、あそこで我が物顔に振る舞っているのか、私はよく知らないのです。あそこは先生のご自宅でした」

 どうやら、あの三千五百坪のカフカてきに巨大な邸宅は、個人の家だったらしい。

「あ、先生って、もう亡くなってるんだ」ヒナが訊くと、運転手が眉尻を下げて「ええ、昨年の暮れに」と頷いた。しょんぼりと、肩がひとまわり小さくなった。きっと、本当に先生のことが好きだったのだろう。泣きだしそうな顔になっていた。

「ご愁傷様です」俺は言った。

「いえ。しかし、もう何年も前から不治の病でいつ亡くなってもおかしくないと言われておりましたが、とても長生きされて、百五歳の大往生だいおうじょうでございました」

「先生って、学校の先生だったの?」と、ヒナが訊いた。

「私が最初にお会いしたときは、大学の教授でございました。日本の、哲学の大先生です。しかし、それももう四十年ほど前のことになりますね。わたくしがおつかえするようになってからは、だいたいあちらのお宅におられまして、いらっしゃるお客様といろいろお話をされるのがお仕事のようなものでした」

「あ、そうそう。さっきスガちゃん来てたよね」ヒナが言う。「スガちゃんも、あの人……九鬼さん? と、お話をしにきてたの?」

「ええ。ええ。おそらく、そうだと思います。みなさん、お話をしにいらっしゃいます。いろんな方が来られます。あの場所でできるのは、来られた方とお話をすることと、どこかに電話して誰かにお話しをすることくらいしかありません」

 話をしているだけで仕事になるというのも、いまいち想像がつかなかったが、しかし、言われてみればぼんやりとイメージできる『偉い人』というのは、大抵、誰かと話をしているだけといえば、そうだ。

「その『お客様といろいろなお話をする』仕事の続きを、今は九鬼さんがあそこでやっている、と」

 俺が訊くと、運転手は「その通りです」と、頷いた。

「九鬼さんは十何年か前にふらりと先生の前に現れまして。あのとおり、ちょっと変わった人ですから、先生も面白がってそばに置いていたのですが。というか、先生は大抵の人のことを面白がりますし、自分から人を遠ざけるということはありませんでしたので。なんだか、いつの間にか先生の横にいたという感じです。その頃には先生も九十歳を回っておりましたから、九鬼さんがいろいろと先生のお仕事をサポートされていたようでした。そして気がつけば、みなさん先生にではなく、九鬼さんにお話しをしにくるようになっておりました。先生が亡くなったあとも、あの場所で同じように、いらっしゃるお客様とお話をしております」

「ふうん。なんだか、得体の知れない感じですね」要するに、先生の家が九鬼さんに乗っ取られてしまったということなんだろうか?

「ええ。そうです。得体が知れない感じです。スタンフォードを卒業した秀才で、おそろしく頭が切れるのは間違いないようですが」

 しかし、その『おそろしく頭が切れるスタンフォード卒の秀才』が、血眼になって探しているのが『毛むくじゃらな犬みたいな』『運気向上のウルトララッキーアイテム』というのは、なんというか、すごいへんちくりんな感じがする。バランスが悪い。

「まあでも、運気向上の壺とかご利益のあるお札とかに何十万とか何百万とか出す人って、だいたいお金持ちじゃんね。高学歴のほうが変な宗教にハマりやすいとかもあるみたいだし」と、ヒナが言う。

「うん、まあ。あまりにも責任が重い立場にいると、そういう超常的な力にもすがりたくなるものなのかもしれないな」

「失礼。村上様は」と、運転手が言った。何気に、運転手のほうから喋りかけてきたのははじめてだった。

「村上様は、さすがに気持ち悪いッスね。真尋でいいッスよ」

「真尋様は」

「それもまだちょっと。せめてもう一声」

「では、真尋さんは」

「それくらいなら、まあ。まだこそばゆいッスけど」

「そういった神がかりと言いますか、科学で説明できないような超常的な力というのは、存在しないとお考えでしょうか?」

 俺はちょっとだけ考えた。そりゃまあ俺もいちおう高校だけは卒業しているので、この世界は基本的に、ニュートン力学やら相対性理論やらで説明可能な科学的な法則のうえに成立していて、そんなわけのわからないオカルトじみた超常的な力は存在しないと思ってはいるが、かといって、別にオカルトなど存在しない! どんとこい超常現象! てきな強硬なスタンスというわけでもなく、それこそ母ちゃんと同じような『この世の中には科学だけでは解明しきれない不思議なことが、まだまだいっぱいあるんだよ』くらいの、ゆるふわな態度だ。たぶん、たいていの人がそんなものではないだろうか。

「ええ、まあ。現代っ子ッスから」俺は返事をした。「運転手さんはそういうの、信じるタイプっスか?」

わたくしたちの世代はまぁ、スプーン曲げのユリ・ゲラーがおりましたし、CIAが本気で超能力の研究をしているだとか、生きた宇宙人が捕らえられたというロズウェル事件ですとか、いろいろありましたから。当時はまぁ、そういうこともあるのかな? くらいの感覚はございましたが」運転手は答えた。「しかしなにより、真尋さんも、九鬼さんの超常の力をご覧になったのではないですか?」

「え?」と、俺は首を傾げた。一瞬、バックミラーに映る運転手と、目が合った。

「彼は、真尋さんの心を読んだでしょう」

「あ」

 そういえば。異様な雰囲気にまれて流してしまっていたけれど、あの男は、九鬼さんは、俺がまだ口に出してない、思っただけのことにも当たり前みたいに返事をしていた。たんにめちゃくちゃかんがいいのかな、くらいに思っていたけれど、心を読んだと言われればそうかもしれない。

「真尋さんは、不思議な人ですね」と、運転手が言った。「私も最初、彼に心を読まれたときは、おののきました。今でも、あの人がいる場所では、到底、安心できません。あの場所をおとずれるお客様も、みなさま、九鬼さんの前では心中で慄いております。彼に心を読まれてもすこしも慄かなかったのは、わたしが知る限りでは、先生ただひとりだけです」

「そんなもんスかね?」と、俺はまた首を傾げた。「心を読まれるったって、言葉にして口に出す手間が減るだけのことじゃないッスか?」

「ええ。ええ」と、運転手はまた頷いた。「先生もまったく同じことを仰っておりました。実際、あれは恐れさえしなければ、その程度のものなのだと、わたくしも思います。しかし、そう分かってはいても、恐れないというのは大変に難しいことです。そう考えると、相手を恐れさせるという、そのことこそが、彼のあの力の本質なのではないかと、私は思います」

「そんなもんなんスかねぇ」俺はいまいち実感がわかず、適当な相槌を打つ。たしかに気味は悪かったが、怖かったか? と訊かれると、別にそんなことはなかった気がする。「それにあれ、本当に心を読んでいるんスかね? あれくらいなら、そこいらの路地裏の占い師でもやるんじゃないッスか? コールドリーディングだとかなんとか。心を読んでいると言われても、そうかもしれないし、そうではないかもしれないくらいの、微妙な感じッスけど」

 それに仮に、九鬼さんが他人の心の中を読める超能力者だったとしても、それを言い出したら、うちの母ちゃんなんか悪い憑きものをデコピン一発で弾き飛ばす魔法使いだし、レーコさんは予言者だ。

「でも、もし仮に、自分がひとつ、超常的な力を持っていたとしましょう。他人の心の内を読んだり、未来を予知したりといった、そういう不思議な力です」運転手が言った。「この世界に超常的な力が存在することを実感として知っていて、自分がまだ持っていない、そういった類のまたべつの力を手に入れることができると知ったら? きっと、なにも知らない人よりは必死になって手に入れようとするのではないでしょうか?」

「ああ、そうか」ヒナが頷く。「現に自分がそういう力を使っているのなら、誰よりもまず、そういうのが実在するってことは、つよく信じてるだろうからね」

 運転手が頷く。

「ひとつ持っている人は、ふたつめを欲しがります。自動車でも、腕時計でも、たいていはそういうものです。コレクターはいくつ手に入れても満足しません。ひとつも持っていない人は、最初から欲しがりません。そういうものです」



 ☟



 帰りは家の目の前ではなく、商店街の入り口の通りで下ろしてもらった。見慣れたごちゃごちゃとした商店街の雰囲気に、ひどく安心した。

「それじゃあ、どうもありがとうございました」と、挨拶して別れようとしたら「明日は何時にお迎えに上がりましょうか?」と、運転手が言うので、俺はびっくりした。

「明日も、なにかあるんスか?」

 俺が訊くと、運転手のほうもびっくりしたみたいな表情を見せた。

「お父様を捜索されるのでしょう? 未成年の真尋さんでは機動力に不足がありますから、お手伝いするようにとおおせつかっております」

「ああ、なるほど」

 ごちゃごちゃいろいろと話をした気がするけれど、要約すると九鬼さんの要求はシンプルだった。九鬼さんは九鬼さんで俺の親父を探しはするけれど、俺にも俺で、親父のことを探してほしいと。そんでもって、親父が持ち逃げしたかもしれない『毛むくじゃらな犬みたいな』『運気向上のウルトララッキーアイテム』てきななにかを取り返し、九鬼さんに返してほしいと。最終的にその『毛むくじゃらな犬』が取り戻せれば、仮にうちの親父がそれを持ち逃げしていたんだとしても、不問にすると。

「私は実利的な人間でね」と、九鬼さんは言った。「君の父親が痛い目を見たからといって、私がなにか得をするわけじゃない。私は、私の大事なものが取り戻せればそれでいい。それさえできれば、誰のせいだとか、誰が悪いだとか、そんなことはどうでもいいんだ。君が私のところに、私の大事なものを届けてくれれば、ただ私がありがとうとお礼を言って、それで終わりだ。誰も嫌な思いをしない。なんのペナルティもない。みんなが幸せだ。分かるかね?」

「分かりました」と、俺は答えた。「じゃあ、もし親父が見つかったら、それを伝えて、素直に荷物を返すように説得します」

 そんなわけで、明日以降、俺はまた親父を探すことになるわけだが、九鬼さんに頼まれるまでもなく、もともと親父を探してたわけで、状況はなにひとつ変化していないともいえる。たんにオプションで『毛むくじゃらな犬のようなもの』を探すという、よく分からないサブミッションがついてきただけだ。

 いまのところ、具体的にどんなふうにどこを探すのかも、まだまったく考えていない。でもたしかに、本格的に親父を捜索するとなれば、自動車の機動力は、ないよりもあったほうがいい。荻窪のほうに行ったっていう話もあるし。近いと言えば近いけれども、遠いっちゃ地味に遠い。

 それに、俺はちょっとこの運転手のことを気に入ってきていたので、手伝ってくれるというのなら、わざわざ断ることもない気がする。

「えっと、今日はわりと夜かししちゃったんで。まあ、だいたい昼頃くらいを目安に来てもらえればいいんじゃないスかね」

「かしこまりました」

「あ、えっと。こっちの車できますよね?」運転席に乗り込もうとする運転手を呼び止めて、俺は確認した。「タウンエースで」

「ええ、そうですね。そのほうが、目的に適っておるかと、私も思います」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る