2. 奇妙な男のこと・序



「君が言った通り、ユーリは病院に行かせた。ここにいる医師の見立てでは問題はなさそうだったが、念のため、精密検査を受けさせる。彼女の母親にはむかし、ちょっとした借りがあってね。私の元で彼女になにかがあっては、顔向けができない」

 男は話しはじめた。

「ユーリが君と約束したそうだな。君を守ると。そのため彼女は、この会談が終わるまで君のそばを離れないと主張した。私は君を必ず無事に帰すと約束して、彼女を病院に向かわせた。私が彼女と約束をしたので、君は今日、必ず無事に帰ることができる。私は約束を守ることの重大さを知っている。安心していい」

 男は今日、と言った。つまり、今日以外は無事に帰すかは分からないということだ。あからさまな圧力に、ヒナが半眼になり、すこし上半身を起こして体勢を整えた。なんだかんだでヒナは血の気が多いタイプだ。高圧的にこられると、反射的に反抗的になる。でも男がまっすぐ俺を見て、俺にだけ話をしているからか、黙っていることにしたようだ。口から先に生まれてきたみたいなヒナにしては、珍しい態度だった。

「担当直入にいこう。ユーリから事情は聴いたかね?」

「ええ、まあ」男が喋りだしてからはじめて、俺は口を開いた。かま出しされたばかりの陶器のように、唇がカラカラにかわいていた。「でも、彼女は日本語がその、あまり達者ではないので、よく分かんなかったッスね」

「それに、私も彼女にすべての事情を伝えていたわけではない。彼女が動きはじめた時点では、いったいどうしてそのようなことが起こったのか、まだ私もきちんと把握できてはいなかった。状況の把握を後回しにしてでも、まずは動きはじめなければならなかった。結果的に、それでもやや後手に回らされてしまったが」

 単刀直入にいこうと宣言したわりには、男の話しかたはずいぶんと持って回っているように、俺には感じられた。

「私はなるべく、君に正直に話をしようとしている。これは単純な、私のフェイヴァーだ。そして何事も、正直に話そうとするならば、複雑性をはらむことになる。世界は複雑で、単純な物事など存在しないからだ」

 男は、声に出していない俺の疑念にも返事をした。気味が悪かった。

「とはいえ、もちろんある程度は話をことになる。言葉は常に、複雑な世界を複雑なまま表現するには足りないし、時間は有限だ。残り十三分。話を戻そう。私の、私の元に届くべきだった非常に大事な荷物が、運送会社の手によって、なぜか君の父親、村上智尋氏のところへと届けられた。とてもとても大事な荷物だ。そういったことが絶対に起こらないように、それは厳重に管理されているはずだった。私がそのように命令した。しかし、それは起こった。原因は、私の部下がとんでもないトンマだったせいだ。その非は完全にこちら側にある。それがまず、調査の結果分かったことだ。つまり現状、最も大きな非は私のトンマな部下にあり、最も大きな責任は、そのようなトンマな部下に命令を下した私自身にある。君の父親は言わば、いわれなく巻き込まれてしまったに過ぎない。少なくとも、最初の段階では」

「なるほど」そのへんの話は、ヒナがユーリから聞きだした話と一致している。不明なのは、俺の親父がその『非常に大事な荷物』をネコババしたのか、どうなのか、というところだ。

「我々は、。どこまでをと表現するかは非常に難しい問題なのだが。なにしろ、我々の根はこの国のどこまでも張りめぐらされているので、すべてを我々と言うこともできるし、しかしより具体的には我々は非常に小さな集団でしかない。なんにせよ、我々の末端のある部分が、君の父親と継続的に取り引きがあったことは分かっている。我々は、君の父親とビジネスの関係にあった」

 うちの親父みたいなしょっぱいチンケなオッサンが、目の前のこの浮世離れした『危険』な男とビジネスの関係にあったというのは、それ自体がなにかの冗談に聞こえるが、しかし、現にこうしてえんができてしまっているのだ。なんらかの縁はあったのだろう。

「そう。それは非常に些細ささいなものではあったが、縁はあった。私が直接に把握しているようなものでは到底ないが、しかし、無ではなかった。君の父親は荷物を受け取り、そのラベルをがし、別のラベルを貼って、また発送する。そういったたぐいの仕事を請け負っていた。右から左だ。基本的には、箱を空けて中身を確認することもしない。ただ受け取り、ラベルを貼り替えて、送る。それだけ」

 それはもう、その時点でものすごくグレーなビジネスの気配しかしない。関税逃れのための中継地とか、そういうやつだろうか? でもそれは、うちの親父が手を出してそうなことではある。手を出してそうでありすぎる。

「我々の、その具体的な部分にはグレーなところなどなにもないが、私も、我々も、我々のその末端までのすべてを把握しているわけではない。我々はあまりにも有機的に巨大で、ある種、自動的だ。そのすべてを直接に指揮するなど、はなはだ現実的ではない。そして、我々の、まだ我々と呼びうる程度の末端には、そういったグレーなビジネスを扱っている者もいた。そして、そいつの目の前には、どういうわけが偶然、同じような外観の木箱がふたつあった。ひとつは私に届けるべきもので、ひとつは村上智尋氏に発送するものだ。そいつは一方の木箱にラベルを貼って発送し、もう片方は別の者に引き渡した。その木箱はバンの荷台に積まれ、ここに運ばれてきた」

「それが、取り違えられていた、と?」

「その通りだ」

 男は頷いて、息を吐いた。男がはじめて、感情らしきものの片鱗へんりんを見せたような気がした。種類はもちろん、憤慨ふんがいだ。男はソファの背に体重を預け、足を組んだ。もうすでに、表情から一切の感情が消え失せていた。

「取り違えに気付いてすぐ、私はユーリを村上智尋氏の元へと向かわせた。しかし、届け先の住所に彼の姿はなく、また、彼の元に届けられたはずの『木箱の中身』もなかった。あったのは空の木箱だけだ」

「え~っと、うちの親父が、その木箱の中身を持って逃げたってことッスかね?」

「その可能性もある。いろいろな可能性が考えられる。もしそうであるならば、もはや君の父親は、いわれなく巻き込まれただけ、とは言えない。我々にも、それ相応の対応というものがある」

 つまり『無事に帰れる』保証はないということだ。泥棒相手には容赦をしないと。

 でも男の話では、親父はただ箱を受け取ってラベルを貼り替え、また発送するだけで、中身の確認はしないということだった。それはたぶん、グレーなビジネスにおいていざという時に、親父が言い逃れをするための重要な要素でもあったはずだ。自分は受け取ってラベルを貼り替えて発送しただけで、中身は確認していない。中身がなんだったのかは知らない。そういう建前が、なによりも親父自身に必要だったはず。

 だから、仮に木箱の中身がすり替わっていたとしても、親父は木箱の中身がすり替わっていることには気付けない。なにしろ、ふたつの木箱はどちらも同じような外観をしていたのだから。

「君はなかなか、頭の回転が速い」男が言った。「その通りだ。本来なら、仮に荷物の取り違えが発生したとしても、我々はただ、その荷物の行き先を追うだけでよかった。ところが、どういうわけか、村上智尋氏は木箱を開け、そして、どういうわけか、木箱の中身とともに姿を消した」

「実際、木箱の中身は金目のものなんスか?」俺の質問に、男は「いや」と、即答した。

「私にとっては非常に価値のあるものだが、しかし、一般に金目のもの、つまり、換金可能性が高いものかというと、ちがう。あれを直接に換金することは、まず無理だろう」

 ふむ。金目のものではない、と。そうなると、親父がネコババする道理もなさそうだが。

「連絡を受けた私は、ユーリに継続調査を指示し、また、別の手段でも村上智尋氏の行方を追った」男は話を続ける。「我々は、より抽象的には、ほぼこの国のすべてに影響できる。私が村上智尋氏を探すように指示をすれば、誰かが村上智尋氏を探し出してきてくれる。そういうものなのだ。しかし、どういうわけか、村上智尋氏の足取りは、荻窪でぱったりと途切れている」

「荻窪に行ったところまでは分かったんスね」俺が訊くと、男は「ああ」と返事をして、ポケットからスマホを取り出し操作し、テーブルの上に置いた。ずっとむっつり黙っていたヒナも、腰を浮かせて覗き込む。「君の父親で間違いないね?」

「あー、うん。これともくんの車だよ」ヒナが言う。

「そうだな。この左のフロントにダクトテープがべたべた貼ってあるのは、親父のハイゼットだな」

 スマホに表示されていたのは、どこかの街角の防犯カメラの映像のキャプチャで、解像度は荒いけれど、映り込んでいるボロいハイゼットカーゴは、俺の親父の車に間違いない。

 男がスワイプすると、いろいろな角度から撮影されたハイゼットカーゴが次々と出てきた。ものによっては、フロントガラス越しの親父の顔も、はっきりと確認できる。

「村上智尋氏が事務所を出てから、車で荻窪方面に向かったことは分かっている。見てのとおり、どこであろうと外に出れば、我々はおおかた、その足跡そくせき辿たどることができる。とくに、自動車というのは移動を捕捉するのが簡単だ」

 男の言う通りなのだろう。見せられた画像は、一台の防犯カメラの映像じゃない。おそらく、この男はあらゆる防犯カメラの映像にアクセスできる。どんな権限があれば、そんなことができるのかは分からない。おそらく警察にだって、こんなスピードでこれを実現することはできないだろう。

「それなのにどういうわけか、彼は荻窪で消えた。以降の足跡はまったくの不明だ」

「じゃあ、まだ荻窪のどこかにいるんじゃないッスか?」

 俺が言うと、男は首を横に振った。

「だとすれば、我々はとうに村上智尋氏の車を見つけているだろう。荻窪を出たというのなら、我々はその動きも捕捉できる。しかし、消えた。我々の追跡を振り切れるというのがすでに尋常じんじょう事ではないのだよ。正常な手段では、それは不可能だ」男が言い切る。男はそれほどに、男が言うところの『我々』の力を信じている。「我々は、彼がなんらかの手段ですでに荻窪を離れたと結論づけるべきかを検討している。もし彼が荻窪にもういないのであれば、我々は無駄に荻窪に釘付けにされてしまっていることになる。我々の捜査力は非常に強大だが、しかし、無限ではない」

 だが、そう考えると可能性はふたつにひとつではないだろうか? つまり。


1.男の言う『我々』が、男がそう信じているよりもずっとトンマである。

2.俺の親父が、俺たちがそう信じているよりもずっと有能である。


「君は、頭の回転が速い」男が、かたいっぽうの口の端をクイッとあげた。到底そうは見えなかったが、笑ったのかもしれない。「君にすこし、個人的な好感を抱いたよ」

 ヒナが俺と男の顔を見比べて『え? また?』みたいな顔をしたが、これはいくらなんでも『また?』にカウントするべき事例ではないだろう。もはや相手は、女の子ですらないし。

「その通り。すでに私の信頼は一度裏切られている。私の部下が、あり得ないほどのトンマをやらかしたことが、今回の件のそもそもの発端だ。しかし、私の部下がそのような、あり得ないようなトンマをやらかすことじたいがあり得ないことなのだし、あり得ないようなトンマをやらかし続けるのは、もっとあり得ない」

「まあ、あなたはそのように信じているわけッスよね」

 自分が立っているのが選りすぐりのトンマたちのテッペンだというのは、なかなか認めづらい現実ではあるだろう。特に、この男みたいに『俺、有能です』オーラを出しまくっているやつにとっては。

 つまり、この男は否応なく、俺の親父が、あのしょぼくれたチビのオッサンが、俺たちがそう信じているよりもずっと狡猾こうかつで有能である、という可能性のほうに乗るしかないわけだ。さもなくば、自分がトンマの王様になってしまう。俺たちからすれば、それのほうがよっぽど到底、あり得ないが。

「君の頭が、私が想定していたよりも良かったので、私も想定していたより多くの情報を君に開示しようと思う。これもまた、わたしの個人的なフェイヴァーだ」

 言って、男はすこしだけ上半身を乗り出し、声のトーンを落とした。

「私はそれが、君の父親の力ではなく、君の父親が手にした、私の、私が受け取るべきだった『非常に大事な荷物』の力ではないかと考えている」

「えっと」俺は男がいま言ったことを、頭の中で俺にも取り扱える語彙ごいに変換する。男の喋り方は独特で、理解するには翻訳に似た手続きが必要になる。「つまりそれは、その『非常に大事な荷物』というのが、うちの親父の能力をなんらか増強バフするグッズであるってことッスかね?」

 本来は振り切ることがまず不可能な執拗しつような追跡を、振り切ることを可能にする、なんらかのもの? 俺の頭には、スパイの秘密七つ道具みたいな曖昧な概念が思い浮かんでいたが、なんだかモザイクが掛かっているみたいで、具体的な像を結ぶことはなかった。

「抽象的には、その通りだ」男は頷いた。「増強するとは限らないが、なんらかの形で影響する」

「え~っと、ぜんぜん分かんなくなってきたんスけど。まじでそろそろいいかげん、具体的にそれがなんなのかを教えてもらえませんかね?」

 俺が言うと、男はふたたびソファーに背を預け、二秒ほど、言葉を探すように視線をらした。立て板に水で喋り続けていた男がシンキングタイムをとったのは、これがはじめてだ。

「――具体的には、毛むくじゃらな犬のようなものだ」

「毛むくじゃらな、犬?」

 俺の頭の中で、モザイクの掛かったスパイ秘密七つ道具が、ふわっふわのポメラニアンに変化した。わー、かわいい。

「この説明はまったくの間違いなのだが、言葉とは元来そういうものだ。なにかを言葉で説明しようとすれば、どうやってもそれそのものではなく、似たようなもので表現するしかなくなる。この世界は比喩ひゆ暗喩あんゆで成り立っているのだ」

 またよく分からなくなった。

「え~っと、はい。つまり、その品物の外観が、毛むくじゃらな犬みたいな感じだと、そういうことですかね?」

「品物、ではない。しかし、そう。外観だ。外観は、毛むくじゃらな犬のようなものだ。概ね、そのように観測されることが多い。だが、それも見る人によって多少、異なる」

 どんどん分からなくなってくる。

「見る人によって見え方は変わる? オバケとか幽霊みたいな感じですかね?」

 俺が訊くと、男は頷いた。

「そう、ある種の、霊的守護と考えてもらっていい」

「霊的守護?」

 で、人によって見え方は違うけど、毛むくじゃらな犬みたいな外観で、ヤベーやつのヤベー追跡を振り切るような能力を増強する?

「え~っと、つまり、なんていうか、なんらかのご利益がある、運気向上のウルトララッキーアイテムみたいなものですか? 壺とか、お札とか、お守りみたいな」

 俺はむしろ『そうではない』と否定されるつもりで卑近ひきんな例を出したのだが、俺の想定とは裏腹に、男はむしろ我が意を得たりといった風に「そう、そう。その通り」と、指を振った。「運気向上のウルトララッキーアイテム。その解釈が一番、しっくりくる」

「え、あほくさ」

 それまでずっと(奇跡的に)口を閉じていたヒナが、ぽつりと呟いた。


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