第三章 毛むくじゃらな犬をめぐる冒険1

1. アイオワはほんとうに(



 俺が通っていた高校は、アメリカのアイオワの高校とオーストラリアのシドニーの高校と姉妹校で提携しており、向こうからの留学生を受け入れるかわりに、こっちからは二年生の修学旅行先として受け入れてもらっていて、一年おきにアメリカかオーストラリアに行くことになっていた。俺たちの年の修学旅行の行き先はアメリカだった。

 俺は自分の腹違いの妹のことを思い出した。アメリカにチョコレート菓子を買いつけにいったはずの親父が、向こうの女とつくった娘だ。その何年か前に、俺は親父から彼女の家の電話番号をもらっていた。

「お前、メリッサのことは知ってるだろ?」と、親父は言った。

「いいや?」と、俺が首を振ると「ほら、あの、アメリカにいる。お前の腹違いの妹の」と親父が説明して、それで俺はようやく「ああ」と、返事をした。

「メリッサっていうんだ」

「そう。メリッサ。名字は、今はなんだったかな。母親が向こうで実業家と結婚して、ナントカって名前に変わったはずなんだが」

 そりゃまあ、名字はナントカには違いないだろう。

「うん。それで?」

 そのとき、俺はたぶん小学校の五年か六年で、ポケモンかなんかをやっているところだったから、あまり真面目に親父の話を聞いていなかった。というか、どんなときであれ、親父の話を真面目に聞いていたことなんて一度もなかったから、いつも通り、適当に親父の話を聞き流していた。

「これ、電話番号だって。昨日、向こうの母親から久しぶりに連絡があってな。日本に腹違いの兄貴がいるって聞いて、メリッサが会いたがってるっていうから」

「あそう」

 俺は親父から、番号が走り書きされたメモを受け取り、ポケモンに戻った。そのことを、ふと思い出したのだ。高校二年の一学期の終わり頃に。

 小学校に入ったときからずっと使い続けているビックリマンシールがベタベタ貼られた学習デスクのひきだしの一番上の段を開けると、ハサミやらものさしやら、壊れたシャーペンやインクの出ないボールペンの下から、くしゃくしゃになったメモ書きが出てきた。

 メモにはただ番号が羅列されているだけで、その他には注釈もなにもなかったから、それが本当にアメリカにいる腹違いの妹の電話番号なのかは確信が持てなかった。俺はためしにその番号をダイヤルしてみたが、なにも起こらなかった。

「国際電話をかけるなら、頭に国番号をつけないと」と、怜奈が説明してくれた。その頃の俺たちは昼休みを第一校舎の非常階段で過ごすのが日課で、俺はポケットの中でさらにくしゃくしゃになっていたメモを怜奈に見せたのだ。腹違いの妹の電話番号かもしれないと。

 怜奈はスマホでなにごとかを検索し「ペンシルバニア州の市外局番みたいだから、いちおう、アメリカのどこかの電話番号ではあるんじゃない?」と、教えてくれた。

「電話したほうがいいのかな?」

「したほうがいいよ? しないよりは」俺の質問に、怜奈は答えた。「もちろん、今さら電話するよりは、これをもらってすぐに電話を掛けるべきだったとは思うけど。ポケモンなんかやってないで」

「そうだよな~」

「でも過去は変えられないし。ここから先の話をするなら、いつだって、今ここでが、ベストタイミングだよ」

 メリッサが俺に会いたいと言ったのは、俺が小学校五年か六年のときのことで、メリッサが俺の妹である以上は俺より年上であるはずがないのだから、当時はまだ年齢が一桁だっただろう。

 それくらいの歳頃なら、自分に腹違いの兄がいると知ったら、会いたいと言うと思う。無邪気に。純粋な好奇心で。

 でも、それから何年も経った今でもそう思ってくれているかは、かなり微妙だ。

「なんでポケモンなんかやってたんだろ、俺」

 普通に考えて、ポケモンが生き別れの妹の話よりも重要なわけがないのだ。俺はポケモンなんかやってないで、親父の話を真面目に聞くべきだった。あのとき、ポケモンを優先して妹の電話番号を雑に机のひきだしに押し込んだ俺は、今の俺と連続した存在のはずなのだが、当時の俺がなにを考えてそんないいかげんな行動に出たのかがよく分からなかった。

 というか、そのとき『べつにいいや』で打ち捨てたのなら、そのまま忘れていればいいものを、何年も経ってから思い出すのがまたややこしいし、メモ書きがちゃんと発掘できてしまうのも、これまたややこしい。これが見つからなければ『ああ、そういえばそんなこともあったなぁ』で、済ませるしかない話だったのに。

「で、また雑にデスクのひきだしにしまい込むの? それまた、何年かあとに思い出して悩むだけじゃない? もういらないって捨てちゃうなら、それもひとつの判断なんだろうけど、そうじゃないなら、早いとこ掛けちゃったほうが思い残しがないと思う」そう言って、怜奈はもう一度、念を押した。「いつだって、今ここでが、ベストタイミングだよ」

 怜奈の言うとおりだ。捨てられないなら、ぐだぐだと先送りにせず、さっさと電話を掛けてしまったほうがいい。持ってるだけでご利益のある、霊験あらたかなお守りってわけじゃないんだから。



 ☟



――や?

 数回のコール音のあとに、電話はあっさりと繋がった。繋がってしまったことで、俺は一瞬パニックになった。ちゃんと喋るべき英文を考え(怜奈に考えてもらって)頭に叩き込んだはずなのに「あ、え~っと」と、しどろもどろになってしまった。そのあいだも、電話口の向こうでは誰かが英語で早口でなにかを言っていた。

「君はメリッサ?」

 やっとのことで俺が言うと――うん。わたしはメリッサ。それで、あなたは? と、返事があった。メリッサの英語は、今まで聞いたどんな英語よりも早口に思えた。

「え~っと、俺は、君の、年上の兄だ。日本の。もうひとり別の母親」

 俺はなんとか単語を繋いだ。ていうか、雰囲気てきに、それを言い終わるまで電話を切られなかったのが奇跡みたいな感じだった。

――本当に? いや。いいえ、いいえ。知ってる。わたしに、日本に母親の違う兄がいるのは聞いたことがあるわ。あなた、これいま、日本から掛けてるの?

「そう。俺は日本からあなたに電話をしている」

――ジーザス! で、どうしてわたしに電話を? お兄ちゃん。

「あ~。俺の学校の、旅行。スクールトリップ。俺、アメリカに行く」

――あ~、オーライオーライ。分かった。つまり、あなたはわたしに会いたい。

「あ~、イエス?」

――イエス? あなたはペラペラペラペラペラペラ(聞き取り不能)

「え~っと、イエス。イエス。俺は、君に、会いたい。君は? 君は、俺に会いたい?」

――ええ、ええ。もちろん、もちろん、もちろん。わたしもあなたに会いたい。それで、アメリカのどこにくるの?

「アイオワ」

――アイオワ? ああ(聞き取り不能だが、なにやら罵り言葉っぽい)! アイオワ(罵り言葉)(罵り言葉)と、思わない?

「あ、え~と。乗り換えでシカゴで一泊する」

――シカゴ! まあでも、アイオワ(罵り言葉)(罵り言葉)シカゴなら、会いにいけないこともない。わたしはピッツバーグに住んでるのよ。待って、ママに相談しないと。あとでペラペラペラペラペラペラ(聞き取り不能)


 ここで俺はギブアップして、怜奈に電話を替わってもらった。怜奈は実に見事な発音で「電話を替わったわ。わたしは彼のガールフレンドの怜奈。あなたと話せて嬉しい」と言い、合間にあれこれと雑談を挟みながら盛り上がりつつ(ナルトはあまり詳しくないけどデュラララ!! は好きでよく見ている、などの話しをしていたと思う)シカゴで会う約束をとりつけてくれた。

 最後にまた電話を替わると、メリッサは俺に言った。

――電話をありがとう、お兄ちゃん! 怜奈とあなたに会えるのを楽しみにしているわ!



 ☟


 

 担任の教師は当初、シカゴは乗り継ぎをするだけで空港に隣接するホテルからは出られないし、勝手な行動は許可できないと難色を示していたが、俺が「生き別れの腹違いの妹なんです。これを逃したら、もう一生会う機会がないかもしれない」と、大げさに泣き落としすると、自分が付き添ったうえで宿泊先のホテルの中で顔を合わせるだけならと、了承してくれた。電話の応対をしたのはもっぱら英語が得意な怜奈で、メリッサが怜奈にも会いたがっていると説明し、怜奈も同席できることになった。

 俺たちが泊まったのはオヘア空港併設の小さめのホテルで、当日はほぼうちの学校の貸し切りだった。安いホテルだからロビーもこじんまりとしたもので、デザインはモダンなものの、いかにもれんな合皮張りのソファーがいくつか配置され、すみにインターネット用のパソコンブースがあるだけだった。入り口近くのソファには学年主任を含む数人の教師が陣取っていた。生徒の出入りを監視するため、夜通しで番をするという話だった。俺は担任の教師と怜奈と一緒に、ロビーの隅っこのソファーにちょこんと座ってメリッサを待った、

 メリッサは母親に連れられてホテルにやってきた。ふたりともボリューム感のある、すこしウェーブがかった濃い茶髪で、肌がすこし褐色がかっていた。ふたりともタイトなデニムを履いていて、とてもよく似ていた。メリッサは背も高く、十三歳ということだったが、もっと年上に見えた。そしておそらく、ふたりとも、とても裕福な暮らしをしていた。そういうオーラが全身から立ち昇っていた。

 ロビーに入ってくるなり、メリッサの母親はまっすぐ俺のところに歩いてきて、あなたがトモヒロの息子ね、と言って、いきなりハグしてきた。

――とてもよく似ている。トモヒロが若返ったみたい。 

 俺がメリッサの母親に「どうも」と、頭を下げている横で、メリッサが、ということはあなたが怜奈ね! と嬌声をあげ、怜奈にハグしていた。

――あなたのフェイスブックは見たけど、でも実物はもっといい。とても綺麗。会えて嬉しい!

 メリッサは怜奈との会話でひとしきりテンション爆あがりしたあとで、でって感じで俺に向き直り、言った。

――ハイ、お兄ちゃん。

 ハグはなしだ。まあ、されても困惑するだけなので、よしとした。

 担任の教師がメリッサの母親に自己紹介し、メリッサの母親がそれに応じながら、たぶん「彼らは彼らだけで話をする時間をもつべきだ」みたいなことを担任に伝えた。担任もうなずき、メリッサの母親と英語で会話しながらすこし離れた場所に移動した。怜奈も「じゃあ、兄妹の対面、がんばって」と、俺の肩を叩いてそちらに行った。ロビーの隅に俺とメリッサだけが残された。

「やあ」

 俺は言った。

――ええ。

 メリッサは応えた。

――わたしもシカゴに来たのははじめて。このためだけにピッツバーグから飛行機に乗ってきたのよ。

「それは大変だったね。アメリカは、俺が思ってたよりも大きい」

――その通りよ。アメリカはとても大きい。アイオワなんて(聞き取り不能)(聞き取り不能)。

 アイオワになんの恨みがあるのか知らないが、メリッサはアイオワと発声するたびに同時に顔をしかめていた。顔をしかめずにはアイオワと発音できないみたいだった。

――なんでママがわたしとあなただけを残して行っちゃったんだろうって思ったけど、よく考えたら、うちのママとあなたは別になんの関係もないのよね。

 だんだんメリッサの早口にも慣れてきたのか、彼女の話す内容がおおかた聞き取れるようになってきた。あるいは、彼女のほうで気を使って、聞き取りやすいように話してくれていたのかもしれない。

「ああ、そうだな。俺と、君のお母さんは、家族じゃない」

――そう。わたしとあなたにだけ、同じ血が流れている。わたしたちのお父さんの。わたしはお父さんのことは、ぜんぜん覚えてないんだけどね。ママはわたしがお父さんに似てるって言うし、あなたのこともそっくりだって言ってたけど、でも、わたしとあなたは、あまり似てないわ。

「そうだな。俺と、君は、似ていない。君は、お母さんによく似ている」

――ママはメキシカンなの。もともとメスティーソ(あとで調べたが、混血みたいな意味っぽい)だから、はんぶん日本の血が入っても同じみたいなもの。ごちゃまぜね。それに、メキシカンの女は陽気なの。決して、過去を振り返らない。

「うん。君は、そういうふうに見える」

――あなたは、なんていうの? ちょっと内向的で、ナイーブに見える。あまり似てないわね、わたしと、あなた。性格も。

「そうだな。似てるところを見つけられない」

――でも、わたしたちは兄妹なのね。不思議。環境のせいかな? わたしも、もし日本に生まれていたら、あなたみたいにちょっと内向的で、ナイーブな性格になっていたのかしら。

 俺もピッツバーグに生まれた自分を想像してみようとしたが、そもそもピッツバーグがどこなのか、どんなところなのかをまったく把握していなかったので、無理だった。俺の頭には、太陽がサンサンと輝き街行く人がサンバを踊っているような、底抜けに陽気な架空の街が思い浮かんでいた。

「どうだろう。日本人もいろいろだ。怜奈とか」

――ええ、ええ。怜奈は。怜奈は素晴らしいわ! あなたのガールフレンドなのね。それはとても誇らしいことよ。

「うん。俺もそう思う」

――でも、なんにせよ。会えてよかったわ、お兄ちゃん。わたしたちは、会ってよかった。会わないと、すべてはファンタジーでしょう?

「そうだな。会うまでは、君は俺にとっても、ファンタジーだった」

――今ではリアル。それは、良いこと。

「ああ、会えてよかった」

――ねえ、もっと大人になって、ひとりでもアメリカに来られるようになったら、また来てよ。怜奈と一緒に。フェイスブックのアカウントはある?



 ☟


 

 なんにせよ、あのときメリッサに電話をして、よかったと思う。人生には様々な出来事があり、往々にして、それが良かったか悪かったかは後になってみないと分からないものだが、あれは良いか悪いかでいえば、圧倒的に良いのほうの出来事だった。

 怜奈が背中を押してくれて、よかった。『いつだって、今ここでがベストタイミング』だ。どんなときも、怜奈は正しい。圧倒的に。

 あとで調べたが、ピッツバーグは夏でも平均気温は23℃ほどで、30℃を超えることは滅多になく、冬はめちゃくちゃ雪が降る、どちらかというと寒い街だった。

 たぶん、サンバを踊る習慣はない。

 俺はいつも、なんか根本的な思い違いをしている。

 アイオワへの修学旅行については、これといって特筆すべきことはない。アイオワはほんとうに(罵り言葉)で(罵り言葉)なところだった。後で聞いた話だと、おおむねシドニーに行く年が『当たり年』とされていて、俺たちは『外れ年』だった。

 フェイスブックのアカウントはなかったので、わざわざ作った。怜奈とメリッサはすでに友達になっていたので、そこから辿たどって、俺もメリッサとフェイスブック上で友達になった。俺にとっては、フェイスブックはメリッサの生活を垣間かいま見るの専用のアプリって感じだった。

 しばらくはたまに見ていたが、そういえばもう長らくログインしていない。

 向かいに座った黒服の男の、左右それぞれ違う色の瞳を見たとき、俺はふと、メリッサに会ったときに覚えた、独特の感触を思い出した。

 本質的に、存在している世界線がまったく違う。そういう感触だ。


 メリッサは、天井知らずの陽のほうに。この男は、底抜けに陰のほうに。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る