4. 黒い亡霊VI


 表に出ると、周囲の景色に溶け込むことを一切拒否した異物感満点の巨大な黒塗りのセダンがマイマイさんの居酒屋の真正面にデンと停まっていて、その脇にはスッと背筋の伸びた体格の良い老齢の運転手が立っていた。白いシャツに黒のベストを着て、えんじ色のネクタイを締めていて、頭のてっぺんからつま先まで、申し分のない完璧な運転手だった。

「うわ、すっご」と、ヒナが呟いた。「どこの誰の差し金だかは知らないけど、めちゃくちゃハッタリは効いてるね」

「そうだな」と、俺も頷いた。「でもなんだろ? ヤクザ屋さんではなさそうな感じだな」

 ユーリに先導され近づくと、運転手が後部座席のドアを開けてくれた。普通の車と違って、後ろ側にヒンジがあって逆向きに開いている。

「えっと、たぶんここ、いまの時間帯は車両通行禁止ッスけど」

 俺が言うと、運転手は低い落ち着いた声で「申請して許諾を得ておりますので、大丈夫です」と応じた。

「どーぞ」と、ユーリが促すので、俺はヒナに続いて後部座席に乗り込んだ。運転手がそっとドアを閉めた。ほとんど音がしなかった。窓の外を見ると、マイマイさんが居酒屋の入り口から顔を出し、表情で俺に『いったいなにごと?』と問いかけていた。俺にもいったいなにごとなのかよく分からないので、仕方なく『なんなんスかね?』のメッセージを込めて、半笑いで首を傾げた。

 運転席は左側で、ユーリが右側の助手席に乗り込んだ。シートというよりもソファって感じで、足元が広く「ほっ! ほっ!」と、ヒナが目一杯足を伸ばしてバタバタと揺らせても前の座席に届かなかった。あまりにも静かに発進したので、車が動いていることにしばらく気付かなかった。

「えっと、すごい車ッスね」

 黙っているのもなんなので、俺がそう声を掛けると、運転手は「とても古いです。もう四十年以上、この車を運転しています」と答えた。

「ドアが普通と逆向きで」

「後部ドアが後ろヒンジになっているのは、これが最終モデルです。以降は普通に前ヒンジになりましたが、あれではやはり、乗り降りのときにすこし狭苦しく感じますね。安全基準をクリアできるようになったので、最近はまたこの観音かんのん開きが復活したようですが」

「なるほど」

 よく分からないので、俺は適当に返事をした。自動車はイカついが、運転手は普通にお話好きの、上品なおじいさん寄りのおじさんという感じで、柔和な雰囲気だった。

「これ、どこに向かってるの?」

 ヒナが訊くと、運転手は「木更津きさらづです」と答えた。「アクアラインを抜けていきますので、一時間ほどで到着するかと」

 車はスルスルと滑るように街中を抜けていった。途中、なぜか交番前に立っている警察官に敬礼された。停まるときも曲がるときも、ほとんど重力の変化を感じなかった。地面を走っているという感覚が薄く、五センチくらい宙に浮いているみたいだった。

「運転手さん、めちゃくちゃ運転上手だね」ヒナが言った。

「そうでしょうか?」運転手は少し照れたように微笑んだ。「まあ、運転手をして長いですから。といっても極論すれば、車の運転というのは、走って、曲がって、止まるだけのことなんですが」

「そんなこと言い出したら、なんだってそうでしょ? テコンドーだって、極論すれば殴って蹴るだけだもん。なんだって、大事なのはそのでしょ」

「ええ、ええ。左様でございます」運転手も頷いた。「なにごとにも、ちょうどよいというのがございます。それは、ちゃんと感覚を開いてさえいれば、車のほうが教えてくれます。大事なのは、感覚を開いた状態でいることです」

「わかる~! 感覚を開くの、大事だよね」

「ええ。わかります」

 ヒナにはなにかが伝わったらしいが、俺には相変わらず、言っていることはよく分からなかった。でもとりあえず、この運転手がこの車と、この車を運転することがめちゃくちゃ好きだということは伝わってきた。

 玉川上水沿いの道を抜け、高井戸から高速道路に入る。見たところ車内にはカーナビがなく、遮音壁に囲まれ景色が見えなくなると、俺はいまいち現在地を掴めなくなった。

「なにか、音楽でもかけましょうか?」と、運転手が訊いてきたので、俺は「あ、じゃあお願いします」と返事をした。運転手がカーステレオを操作すると、控えめな音量でクラシック音楽が流れはじめた。音の出どころがよく分からず、自動車の内装全体から音楽が染みだしてきてるみたいだった。

「えっと、すごい音楽ッスね」

「フルトヴェングラーが指揮したベルリン・フィルハーモニーのブライチです。53年の録音をレストアしたもので、CDで入手可能なフルトヴェングラーでは、まず1、2を争うベスト盤でしょう。ディアパソン誌の年間賞を受賞しています」

「なるほど」

 やっぱり分からん。まあでもとりあえず、この運転手はなんか教養がありそうだなということだけは分かった。

 テンション高く、なにかと「うわすっご」を繰り返していたヒナは、川崎から海底トンネルに入る頃には口を半開きにしてすぅすぅと寝息を立てていた。ユーリはずっと静かだったけれど、後ろから見える背筋がずっとピンと伸びていたので、起きてはいたのだろう。

 アクアラインを通ったのは初めてだったが、行っても行っても終わらない以外はただただ普通のトンネルで、景色も変わりばえがなく、退屈だった。しかし、ここは海の下なのだ。自分がいま東京湾の海底を走っているのだと思うと、なんだか妙な気がした。俺はヴィジャイがイラクの地下で掘っていたトンネルのことを思った。地下からでは、自分の真上でいまなにがどうなっているのかなんて、なにも分からない。ヴィジャイも暗い穴の底で、なにも分からずにいたのだろう。ただときどき、爆発音や銃撃音、それにともなう微かな振動が、彼方から響いてくるのだ。

 それでもヴィジャイは、穴を掘らなければならない。クウェートの人々の、安定した暮らしを取り戻すために。

 トンネルを抜けるといきなり海の真ん中で、夜なので一瞬、空も海もなにもわからず、混乱した。おまけに乗り心地が快適すぎて地面を走っている感触に乏しいから、ポンと宇宙空間に投げ出されたような感じがして、ハッと目が覚めた。

 たぶん、本当に多少ののぼり坂になっていたのだと思うが(海の底から地上に出てきたのだから当然だ)感覚的には45度くらいの角度で夜空に向かって射出されたような感じだった。橋の終わりが近づき、陸地の街灯りが見えはじめてようやく、俺は正常な上下の感覚を取り戻した。

 遠くに観覧車と、巨大なコストコが見えた。なんだか見覚えのある景色だと思ったが、よく考えたら春先に自転車で岩井海岸まで行ったときに通ったあたりだった。俺がチャリで丸一日くらい掛かった距離を、一時間弱でぶっ飛んできたことになる。

 高速を下りると、車は早々に市街地を抜け、暗い丘陵地帯へと入っていったので、また俺には現在地が分からなくなった。うねうねと曲がりくねった峠道をすこしのぼり、石づくりの門を通過してしばらく行ったところで、ようやく車が止まった。

 奥のほうに、巨大な、和風の建物が見えた。俺たちが乗ってきたやつの他にも何台か車が止まっていて、どれもこれも黒塗りで、高そうだった。

「すみません、しばらく車中でお待ちください」と言って、運転手が先に下りた。ユーリも外に出て、着物を着た女の人となにか喋っていた。しばらくして、運転手が戻ってきて扉を開けた。

「お待たせしました。係の者が案内しますので、こちらにどうぞ」

 寝ぼけているヒナの腕を引っ張って外に出た。地面に足をついても、まだ身体がふわふわしている気がした。ヒナは目をショボショボさせ「どこ、ここ」と呟いた。

「分からん。アクアラインを抜けた先のどこかだ」

「あそう。アクアラインってなんだっけ?」

「銀河鉄道のカタパルトだよ」

 ヒナの足取りがフラフラしてたので、俺は仕方なく、そのままヒナと手を繋いで歩いた。

 運転手が身振りをするほうに行くと、和服の女性が頭を下げ「こちらへ」と言った。運転手もユーリもいなくなり、俺とヒナだけで和服の女性についていく。途中、正面玄関から出てきた数人とすれ違った。みんなスーツ姿の男性だったが、そのうちのひとりとすれ違いざま、ヒナが「あ、スガちゃん」と、ぽつりと言った。

「なに? 知り合い?」と俺が訊くと、ヒナはびっくりしたみたいな顔で「え? ぜんぜん」と、首を振った。

「え~っと、なんだっけ? とりあえず、なんとか大臣だよ」

「ふーん?」

 てっきり、俺たちも正面玄関のほうに行くのかと思ったら、先導する和服の女性はそこを通り過ぎ、そのまま庭を突っ切って、奥にあるさっきのよりもすこし小ぶりな玄関に案内した。裏口ということなのかもしれないが、裏口でも、うちの玄関の百倍は立派だった。

「お履き物はこちらでお脱ぎください」

 言われたとおりに靴を脱ぐ。スリッパが置いてあったので、それに足を突っ込む。先導されるままに中を進み、縁側に出る。なぜか畳の部分と板敷きの部分があって、ヒナがペタペタと畳の部分を歩いていると、前を行く女性が振りかえり「板の間をお進みください」と、注意をした。

 ウィザードリィのダンジョンみたいに左に曲がり、右に曲がり、真っ直ぐ進んだ。

「ずいぶん広いんですね」俺が言うと「三千五百坪ございます」と、前を行く女性が振り返らずに言った。三千五百坪がどれくらいの広さなのかは、俺には皆目、見当がつかなかった。

 最終的に通されたのは、意外なことに洋間だった。縁側に面した一面だけは障子張りのふすまだが、それ以外の三面は完全に洋風な造りで、奥には大きな窓があり、レースのカーテンが引かれていた。板張りの天井は高くアーチを描いていて、UFOみたいな形状のシャンデリアがぶら下がっていた。床はよく磨かれた濃いブラウンのフローリングで、半分以上の面積が毛足の長い、えんじ色の絨毯じゅうたんおおわれていた。真ん中に年代物らしき革張りのソファーがあり、俺とヒナはうながされるまま、そこに並んで座った。

 案内の女性はいちど部屋を出て、お茶を持って戻ってきた。なにも言わずにローテーブルの上にお茶を置き、再び出ていって、俺とヒナだけが取り残された。

「なにここ。なんかのお店? それとも、誰かの家なの?」

 ヒナが呟いたけど、俺にも分からなかった。少なくとも、俺の頭のなかにある「うち」の概念とは、かなりかけ離れている。でもメニューもなにも置かれてないし、どうやらお店というわけでもなさそうだ。

 誰か、ここで生活を営んでいる人がいるのだろうか。三千五百坪あるこの家で、メシを食ったりトイレに行ったり、風呂上りにパンツ一丁でうろついたり、夜中に腹を空かせて暗い台所で冷蔵庫をのぞき込んだりしているのだろうか。

 正面の壁に、小ぶりなボンボン時計が掛かっていた。木製の古そうなもので、これも磨き込まれた濃いブラウンだった。小ぶりなせいで、左右に揺れる振り子の動きがとても早いのが気になった。

 時刻は午後十時三十分を示していた。気がつけば、けっこうないい時間だ。こんな時間なのに、案内してくれた人も、ほかのすれ違った人たちも、スーツ姿だったり和服だったり、みんなキッチリとした格好をしていた。スウェットの上下に裸足にサンダルみたいな人は、ひとりもいなかった。

 いつの間にか、カフカ的に不条理な別次元に迷い込んでしまったみたいな気がした。そのまま、カフカ的に不条理な十分が過ぎ、いきなり背の高い男がものすごい早足で部屋に入ってきて、俺たちの向かいのソファに腰を下ろした。『ようこそ』も『こんばんは』も、なにもなかった。

 ソファーに沈み込みまったりモードになっていた俺たちは、まず男の動きの早さにびっくりした。びっくりして、無言のまま男の顔を見た。男は長い黒髪に黒のスーツで、おまけに夜だし室内だというのにサングラスをしていた。

 男はすこし首を傾げ、サングラスをすこしずらして、裸眼で俺を見た。片方の目が青で、もう片方の目が金色だった。まるで、右目と左目がそれぞれ別のことを考えているみたいだった。

――近づかなければいいのよ。

 俺はレーコさんの予言を思い出していた。危ないことには近づかないのが一番だと。

 どうやら、俺は『近づかない』には、すでに失敗したようだ。気が付けば、目の前に『危険』という言葉が人の形をして服を着ているような男がいた。

 サングラスを掛けなおすと、男はすこし腰を浮かせて座り直し、言った。

「十四分ある」

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