2. A∪B、あるいはA∩B



 母ちゃんが完全にログアウトしているので、ヒナと協力して寸胴ずんどうなべいっぱいのカレーを仕込み、その週はひたすらそれを食って過ごした。

 母ちゃんはたまに起きてきてカレーを食べたり、あたりめとかナッツとかをかじったりしながら、コタツでひたすら酒を飲んでいた。

 俺がバイトから戻ると、コタツと合体していた母ちゃんはビョンと顔を上げ「ともくん!?」と叫び、エレベーターから出てきた俺の顔を見ると「なんだ、まーくんか」と言って、露骨ろこつにがっかりした顔をした。

「は〜もう、まーくん、どんどんともくんに似てくるよね。エレベーターから出てきたときの気配が完全にともくんだったのに。あ〜無駄にショック受けた」

「なんだよ、気配が似てるって」

 気配に似るだの似ないだのがあるとも思っていなかったけど、たとえ気配であっても、改めてあの親父に似てると言われると、むしろこっちがショックを受ける。ふわふわしたたよりない気配がするのだろうか?

「あるよ、気配。なんだったらエレベーターが上がってくる音で、あ、これはヒナだなとか、これはばぁちゃんだなって分かるもん。わたしは」

「誰が乗ってもエレベーターの音は変わんないでしょ。同じ機械なんだから」

「それが、あるんだってば。まーくん。この世の中には科学だけでは解明しきれない不思議なことが、まだまだいっぱいあるんだよ」

 近頃の母ちゃんにしては理路の通った会話ができているので、いや、言っていることに理屈が通っているのかは不明なんだけど、まあ少なくとも言葉のキャッチボールは成立しているので、これは、ここ最近の母ちゃんのなかでは比較的まともな状態だと評価できる。

「母ちゃん。そんな風にただ酒飲んで酔っぱらってるくらいなら、どっか探してみるとか、思い当たるところに連絡するとか、なんかしたほうがいいんじゃないのか?」

 コタツの向かいに腰を下ろしながら俺が言うと、母ちゃんは「いやよ、そんなの。かっこ悪い」と、実に複雑なニュアンスで顔をしかめた。

 親父がまたいなくなったのではないかと不安がりつつも、それを認めると本当に親父がいなくなったことになってしまいそうな気がして『もう帰ってこないのかも』と『いやいやちょっと出掛けてるだけよ』の間で心がフラフラと揺らぎつつ、おまけに、よその人に親父がまたいなくなったのを知られるのも恥ずかしいと思っている。そういう感じの顔のしかめかただ。

 長く一緒に暮らしていると、それくらいは言外のニュアンスというのが伝わってくる。たぶん、8割以上は当たっているだろう。

 とはいえ、親父がいなくなってもう数日経っている。いつから親父がいないのかについては俺にはハッキリとした認識がないが、ヒナが言うにはそうだ。

「捜索願とか出したほうがいいんじゃないの?」

「やめてよ警察とか」

「なんで?」

「だって、警察なんか動き出して、ともくんが捕まっちゃったらどうするのよ。どこにいるのか分からないのも嫌だけど、刑務所行きにでもなったら可哀想かわいそうじゃない」

「え? 親父ってなんか捕まるようなことしてんの?」

 びっくりして俺が訊きかえすと、母ちゃんはほっぺたに手のひらを当てて、斜め上に視線を向けた。

「……電子タバコのリキッドは〜〜かなりグレーのラインだったみたいだし。あと、けっこう前だけど、ロシアからの荷物に本物の拳銃が入ってたこととか」

「モロ違法じゃねぇか」

 逮捕されちまえ、そんなやつ。

 母ちゃんはどんなときでも、なにがあっても親父のことが大好きで親父の味方なのだが、その思いやりを発揮はっきする方向性が、どうも一般的な道徳や倫理観とはだいぶズレているところがある。親父がなにか犯罪に手を染めているというなら、きつくしかりつけて改心させてやるのが思いやりというものではないだろうか? 甘やかすばかりが愛情ではないはずだ。

「親父が見つかって逮捕されて刑務所に入ってくれれば、会いにはいけるじゃん。きっと、死刑になるほどでもないんだろうし。どこにいるんだか、生きてるんだか死んでるんだかも分かんない現状よりは、そっちのほうがだいぶマシなんじゃないの?」

「だから! 死んでるとか、逮捕とか、そんな物騒ぶっそうなことばっかり言わないでよ! とにかく! ともくんは警察とはなんか根本的に相性が悪いんだってば!」

 なんだろう? 言葉として口に出すことで、悪いことを呼び寄せてしまうみたいな信仰でもあるんだろうか? どれだけ言葉でとりつくろったところで、現実の状況がよくなるわけでもなし。まずはフラットな目線で現実を直視するよりほかないと思うが。

「じゃあ、なんか心当たりとかないの? どっか行きそうなところとか」

「ええ〜? 最近はまた、ロシアのお酒がどうとか言っていたけれど……。あとは、ううん、分かんないわね。頭が回んなくて、嫌んなっちゃうわ」

 そりゃまあ、そんだけべろべろに酔っぱらってりゃ頭も回らんだろう。

「なんでそんなに親父にべったりなのに、親父のことなんにも知らないの?」

 どこでなにをやっているんだかよく分からない相手のことを、よく知らないままに好きでいることなんてできるものだろうか? いやまぁ、できるんだろう。目の前にその実例がひとりいるわけだし。

 母ちゃんのこの独特の大らかさというか、大ざっぱな雰囲気は、親父にも共通しているところがあって、結局のところ、たぶん似たもの夫婦なのだ。だから母ちゃんは色々あってもアレコレ詮索することなく親父を自由にさせていたし、自由にさせてもらえていたから親父も母ちゃんだと安心できたのだろう。それに、ここ最近は親父もさすがに、飽くまで以前に比べればだが、落ち着いてきていて、なるべく家にいて母ちゃんを大事にするようになってきていたし、不意に『絵里さんが僕の奥さんでよかったよ』とか言うのを聞いたこともあって、なんか変な夫婦だけど、こういう感じでようやくいよいよ夫婦に収まったのかなって感じもあったのだが、だからなおのこと、今さらの失踪に母ちゃんはショックを受けているのだろう。

「まあなんにせよ、たぶん仕事の関係なんじゃないの? なんかヤバい案件に首を突っ込んだとか」

「ちょっと、なによヤバい案件って。おど……おどかさないでよ!」と、母ちゃんは泣き出してしまい、また湯のみに焼酎を注いで、もはやお茶で割ることもせずにずずずと啜った。会話が続くだけまだマシなほうではあるが、完全に酔っぱらっていて冷静さとは程遠く、いくら話し合っても埒があかない。

 そんなわけで、俺はとにかく親父の事務所を訪ねてみることにした。ヒナが言うには親父はいなくなる直前に『事務所に行く』と言っていたということなので。ひょっとすると事務所でひとりのときに足を滑らせて転んで頭を打って、そのまま死んでしまったのかもしれないし、いなかったとしても、仕事の関係でなにかがあったのなら、手掛かりくらいは残っているかもしれない。



 ☟



 寸胴にのこった最後のカレーをさらえてしまってから「俺ちょっと親父の事務所を見にいくけど」と、居間のほうに曖昧に声を掛ける。母ちゃんはすでに寝入っていて返事がなかったけど、なんちゃって女子高生スタイルのヒナが「あ、じゃあ僕も一緒に行くよ」と手をあげた。

「着替えないの? それ」

「だって面倒だし。それにかわいいでしょ?」

「まあ、かわいいけど」

「あ、うん。まあめられるのは素直に嬉しいんだけど。でも、まーくん。そういうところだよ、マジで」

「え? なにが?」

 親父の事務所はうちから3キロくらい離れたところにあって、俺もヒナも、荷物の搬入とか搬出でり出されたことがあるから、何度か行ったことはある。徒歩で行くにはちょっと遠いが、電車やバスを使ってもすごく迂回することになるので、そんなに時間がかわらない。そんなわけでチャリなのだが、ヒナはこっちにチャリを置いてないので荷台に乗せていくしかない。まあ裏道だし、夜だし、たぶん警察には捕まらないだろう。そういえば家ではいつも顔を合わせているけれど、こうしてヒナを荷台に乗せてチャリを漕ぐのなんか、ずいぶんと久しぶりだ。

「ともくん、どこ行ったのかな~」後ろでヒナが呟いた。

「さぁ。仕事でなんかヤバい案件にでも関わったか、もしくはまた女がらみか、そんなとこじゃねぇの?」と、俺は振り返らずに返事をした。

「まーくんはさー。ともくんのこと心配じゃないの?」

「心配じゃないことないけど、別にいなくなったとしても困らないし」

 子供の頃ならまだしも、俺ももう大人だ。母ちゃんもヒナもばあちゃんもいるし、親父がいないと寂しいってこともない。そのうえ親父は別に我が家の家計てきに重要な人物でもないし、いようがいまいが、それほど影響はない。なんなら、いないほうがマシ説まである。

「まあ、まーくんちはちょっと特殊だからね」

「ヒナだって、その一味だろ」

「でも、ぼくは血が繋がってるわけじゃないもん。一緒に暮らしているってだけで、ハトコなんかほとんど他人みたいなもんでしょ」

「言われてみればそうだな」

 俺はふだんヒナを家族と認識しているのだが、実際には俺とヒナは六親等離れている。六親等といえば、一般的には披露宴や葬式にも呼ばないくらいの遠い親戚だし、なんだったら結婚することだってできるのだ。

「ぼくとまーくんは結婚できないでしょ」

「いや、一般論だよ。俺とヒナの話じゃなくて、ハトコ一般の話」

 そんな話をしながらせっせと三十分くらいチャリを漕いで、親父の事務所に着く。で。実にまぬけな話なのだが、事務所の扉のノブに手を伸ばしてはじめて、俺は親父の事務所の鍵を持っていないことに気がついた。

「鍵掛かってるね」と、ヒナが言った。

「鍵掛かってるね」と、俺は頷いた。

「困ったね」「困ったな」

 それだけを確認してUターンして帰るのもさすがにしゃくなので、俺たちは裏手に回ってみた。トタンでかこわれただけの貧層な建物で、窓はちょっと高いところについている。

「ひょっとして窓なら開いたりしないかな?」俺が言うと、ヒナが「どうかな? 確認してみようか」と、気安く応じる。

「まーくんが足場やってくれれば届くと思うよ」

「マジか。じゃあちょっと頼むわ」

 ダメもとで肩車をしてヒナを持ち上げる。ヒナは相対的に言えばかなり軽いほうだが、無職のプー生活がすっかり板につき、がぜん運動不足の俺には十分重く、なんとか立ち上がりはできたものの、俺はその場でたたらを踏む。

「わ、ちょっと。揺らさないでよ、まーくん!」

 バランスを崩しそうになったヒナが太ももでギリギリと俺の顔を挟んでくる。俺はヒナの太ももに顔面を締め上げられながら「善処はしてる」と答える。結局、壁におでこをつくことでなんとか安定し、ヒナが窓に手を伸ばす。

「あ、開いたわ。鍵開いてるよ」

「マジか。ヒナそっから中に入れるか?」

「ちょっとやってみる」

 ヒナが俺の肩の上に足を置いて、ヒョイと立ち上がる。簡単そうにやってのけるけど、すごい体幹とバランス感覚だ。ヒナが窓枠に手を掛けて、最後に勢いよく俺の肩を蹴る。俺はパワー負けして後ろにずっこけてしまうが、ヒナはスルリと窓の向こうに消えた。

「おーい、大丈夫か~?」

 俺が声を掛けると「まっくらだけど、たぶん大丈夫~」と、中からヒナの声がする。

「正面に回って鍵を開けてくれ~!」「オッケー!」

 俺は再び正面の扉に回りヒナが鍵を開けてくれるのを待つが、なかなかこない。まあ真っ暗だったし時間が掛かってるのかもな~などと考えていたら、中からなにやらドタンバタンと大きな物音がする。

「お~い! どうした? ヒナ、大丈夫か!」

 俺がドンドンと扉を叩きながら声を掛けていると、しばらくして中が静かになり、ヒナが鍵を開けてくれた。

「遅かったな。どうした? ていうかなに? 鼻血出てんじゃん」

「え、マジ?」言って、ヒナは手で鼻を拭う。「うわっ! マジじゃん! 最悪なんだけど。てかブラウスにも垂れてるし。ほんと最悪っ!」

「それで、中で一体なにがあったんだよ」

 俺が訊くとヒナは「う~んと」と、首を傾げてから言った。

「ヤバげな雰囲気だし、女も絡んでるって感じ?」

 どっちもかよ。

 

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