第二章 2018年5月
1. 西の魔女が死んだ(アル中で)
ヒナは俺のハトコで、母方のじいちゃんの弟の娘――つまり母ちゃんの
彩矢おばさんはシングルマザーでスナックを経営していて店舗の二階に住んでいるのだが、さすがに子供には住環境がよろしくないということで、ヒナは週の大半うちに預けられていたのだ。うちにはヒナの部屋もあり、週末は彩矢おばさんの家に帰ることもあるけれど、今も学校にはうちから通っている。
そんなわけで、俺たちは家族同然に育ったのだが、しかし厳密に言えばヒナはうちの家族ではないし、住民票も彩矢おばさんの家にある。俺は親父のことを親父と呼んでいるけれども、ヒナは親父のことは母ちゃんと同様に『ともくん』と呼んでいる。
「あ、ねえまーくん。昨日ともくん、ちょっと事務所に行くっつって出ていったじゃん」
俺がマイマイさんの店の手伝いを終えてエレベーターに乗り居間に戻ると、相変わらず出しっぱなしのコタツに足を突っ込んだヒナが言った。
「え? そうだったっけ?」
「うん。ぼくが見たのはそれが最後なんだけど、まーくん、そのあとともくん見た?」
「いや、見てないよ。昨日はそもそも親父を見てない」
というか、昨日以前にも見た覚えがあまりない。最後に親父を見たのはいつだっただろうか? 海から帰ってきてから顔を合わせたことがあったかすら
「昨日の夜から帰ってこないのよ。連絡もないの。携帯も
ヒナの向かいで同じくコタツに足を突っ込んだ母ちゃんが言った。湯のみを
「どうしちゃったのかしら。こんなことそんなには……少なくともここ二年は……それほど
「あるんじゃん」
うちの親父がふらっといなくなるのは、そう珍しくないし、なんなら、俺に物心がついたときにはうちに親父はいなかった。俺の認識としては、親父は俺が小学校にあがったくらいの頃に、
「事務所に行くっつって出て行ったなら、事務所にいるんじゃねぇの?」
俺はそれほど気にもせず、部屋にあがってそのままベッドに横になった。
翌朝六時、居間に下りるとコタツで母ちゃんがいびきをかいて寝ていた。明らかに昨日の晩飲み過ぎて、そのままコタツで寝入ってしまった体勢だ。
「母ちゃん、朝めし食うか」と、声を掛けると「うう~ん……ともくん……どこ?」と、寝言を言いながら、盛大な歯ぎしりをして涙を流していた。もういい歳もいい歳だというのに、まるで小学生みたいだ。
「お、まーくん起きてるじゃん。朝ごはん作ってよ」
女子高生の格好をしたヒナが下りてきたので、俺はコーヒーメーカーをセットしてふたりぶんのベーコンエッグトーストを作る。ちなみにヒナの高校は制服がないのだが『好きなように制服を着たいから私服校を選んだ』というのがヒナの言い分で、日によってセーラー服だったりブレザーだったり、紺色だったりチェック柄だったりと色々な制服を着ている。つまりなんちゃっての女子高生風ファッションであって、実はぜんぜんまったく制服ではない。
「絵里さん、お風呂も入らないで酔いつぶれてたみたいだね」
「困ったもんだよ」
とはいえ、母ちゃんの仕事といえば親父が事業の失敗でこさえたアンチエイジングサプリだのロシア産のズブロッカだの、屋上を埋め尽くす大量のマットレスだのをヤフオクに出品して注文が入ったら発送するくらいのものなので、滞ったところでそれほど困るというほどのもんでもない。まあ、たまに1~2日酔いつぶれているくらいは別にいい。
いい歳の大人が酔いつぶれて眠りながらもメソメソ泣いているというのはまったく理解しがたいが、俺にとってはいてもいなくてもどっちでもいいような親父でも、母ちゃんにとっては自分が配偶者として選んだ人なのだから、そりゃ思い入れも違うのだろう。
ヒナを送り出し、洗濯機を回し、寝ている母ちゃんの身体を何度もまたぎながら大量の洗濯物を居間に干す。シャワーを浴び、正午過ぎに仕込みの手伝いで一階に下りて、また大量のエビの背ワタを抜く。海老を一匹まるごとくるんだ、皮から尻尾のはみ出した海老餃子が、マイマイさんのお店の名物だ。
親父が帰ってこず、それを
「お人好し過ぎるというか、ありあまる宇宙的に巨大な善意に対して、能力と器がぜんぜん足りてないというか。自分の
「最悪じゃん」
俺が言うと、マイマイさんはしかめっ面のままで俺を見て「いや、まー坊もわりとかなり似たとこあるから、気をつけたほうがいいよ」と言う。
「え、似てんの? 俺と、親父が?」
「うん。ぬぼーっとしててそんなにイケてる雰囲気でもないのに、気がつくとそのへんの女の子をひっかけちゃってる感じとか、すごく」
レーコさんの一件もあって、俺もさすがに身に覚えがまったくないとまでは言えないものだから、そう強くも言い返せないのだが、とはいえ、そんなに頻繁にそのへんの女の子をひっかけているような覚えもない。というか、親父にしたってそんなにしょっちゅうそのへんの女の子をひっかけているわけでもないだろう。アメリカの件はまぁアレだが、それにしたって若い頃の話であって……。
「いや
「え? マジで?」
「しかも、インターナショナルっていうか国籍も人種も選ばない感じで、
そんなことの引き合いに出されてはさすがに弘法も驚くだろう。ていうか、うちの親父マジでそんな感じだったのか。見た目は完全にぬぼーっとした、くたびれたチビのオッサンって感じで、まったくイケてる雰囲気ではないのに。
☟
俺が小学校にあがってしばらく経ったある日、家に帰ると居間で知らんオッサンが正座していて、母ちゃんが眉根を寄せて、いつになくピリッとした雰囲気を出していた。
俺が「ただいま」と声を掛けると、母ちゃんはぶっきらぼうに「おかえり」と言い捨てて、俺と入れ替わりにエレベーターに乗った。屋上に煙草を吸いにいったのだろう。当時はまだ母ちゃんはたまに煙草を吸っていて、うちの屋上は大量の『真実の眠りを提供するマットレス』に占拠されておらず、煙草を吸ったり洗濯物を干したり、夏場はたまにバーベキューをやったりと、それなりに活用されていたのだ。
知らんオッサンは俺に「おー真尋。大きくなったなぁ」と言い、正座していた足を崩して手招きした。警戒しつつ円を描くように俺が近づくと、オッサンは「あ、そこガラス割れてるから気をつけろよ」と、壁
「オッサン、だれ?」
俺が訊くとオッサンは「なに言ってんだよ。パパだよ。お前の父ちゃん。覚えてないのか?」と、顔面に嘘くさい笑顔を貼りつけて言った。
「知らない」
「まあ仕方ないか。お前まだこんなちっちゃかったもんな」
で、知らんオッサン
「俺アメリカに行ってたんだよ。あっちだとお菓子もひとつひとつがアメリカサイズで安いんだよな。大量に買い付けたらもっと安くなるし、これは商売になると思うんだ。お前ちょっと食ってみて、どれが一番うまいか教えてくれよ」
俺は父親を自称するこの知らないオッサンに対しては特になんの感想も持ってはいなかったのだが、アメリカ産のチョコレート菓子はうまかったので、それを大量にくれるこいつはいい奴だと
実はこのとき、音信不通だった親父はアメリカから二年ぶりに帰ってきたところで、向こうで女ができて子供まで生まれてしまって、アメリカ人の女と結婚してアメリカに永住する決意を固め、母ちゃんと離婚するために日本に一時帰国していたのだと知ったのは、だいぶ後になってからだ。
そりゃ二年ぶりに帰ってきたと思ったら、アメリカで女と子供ができたから離婚してくれなんて言われたら、母ちゃんもコップくらい投げつけるだろう。それがなんかの
それら一連の行動についての
☟
バイトを終えて居間に戻ると、母ちゃんは起き上がってコタツでまた焼酎のお茶割りを飲んでいて、脇に転がっている空瓶が二本に増えていた。べろべろに酔っぱらって、髪はギトッと脂ぎっており、船を
「なに? 昨日の晩からずっと飲んでんの?」
俺が訊くと「んそぉ~う」と、肯定とも否定ともつかない声をあげ、コタツの天板にゴチンとおでこをつけ、寝息をたてはじめた。母ちゃんが息を吐くたび、バフンバフンと拡がるアルコール
いびきをかきはじめた母ちゃんの肩に
「いいけど、なに作るの?」
「なにって言われても、ぼくができるのってカレーしかないよ」
近所に買い物に行くだけだから、珍しくヒナもノーメイクにTシャツとスウェットパンツで髪もざっくりと後ろでひとつ括りにしていて、こういう格好をしていると、ただのそのへんのヤンキー少年っぽい。目もしょぼしょぼした一重だし。
「いいの。こういうサッパリした顔のほうが逆に化粧映えするんだから。重要なのは鼻と顎のラインと歯並びくらいで、目はどうとでもなるからね」
まあ確かに、鼻は高くはないがシュッと細くてバランスがいいし、顎も鋭角で、歯並びは奇跡みたいに整っている。
「小学生のころずっと矯正してたからね」
「そうだったっけ?」
俺が言うと、ヒナは眉間に皺を寄せて、目を細めた。たぶん『信じらんない』の顔だ。
「まーくんって、マジむかしの記憶が
「うん。たぶんそうなんだろうな」
言われてみれば、まともに記憶があるのなんて中学に上がって以降のことだけだから、実はそれ以前の俺は、自我が存在していなかったのかもしれない。
☟
なにしろ自我が芽生えないまま
具体的にどういうことがあったのかは覚えていないが、俺はよく、外で散々な目に
そういうとき、エレベーターから出て居間に入ると(そういえば、当時のそこはまだ洗濯物に占拠されておらず、巨大なちゃぶ台もなく、ダイニングテーブルと椅子があって、窓からは外の明るい陽光が入り、天井のシーリングファンが静かにクルクルと回る、設計通りのモダンな洋風リビングだった)台所に立っていた母ちゃんは俺の顔を見るなり「あら、まーくん。またなにか悪いものが
普通のデコピンじゃなくて、親指と中指、薬指をくっつけたかたち。いわゆるキツネのかたちから指二本で繰り出す変則的なデコピンで、わりと容赦のないフルパワーだったから、けっこう痛かった覚えがある。
「はい。これでもう大丈夫。ほら、外から帰ったら手を洗う。もうすぐごはんできるからね」
そう言って、母ちゃんは俺の背中だとか肩だとかをポンと叩くと、また台所に戻っていった。俺はいきなりデコピンをされて、ちょっとびっくりしたのだけど、そのびっくりのせいか不思議と悲しい気持ちはしぼんでいて、晩ごはんを食べるころには完全にケロッとしていた。
なんかの
「ばあちゃん
当時の俺はまことに素直だったので、母ちゃんのその言い分を信じ「すげー、うちの母ちゃんは魔法使いだったんだ」となっていたのだが、今から思えば、あれはたんに俺がデコピンで気を
なんにせよ、当時の母ちゃんは今よりも若くて、よその家の母ちゃんよりも綺麗で、それが俺の秘かな自慢だった。ちゃんとモダンで洋風なカウンターキッチンにエプロンをつけて立っていて、悪いものをデコピンで弾き飛ばす魔法使いだった。
それがいつの間に、コタツで焼酎のお湯割りを飲みながらメソメソ泣いてる酔っぱらいになっちゃったのかは、よく分からない。それも、どこかの時点で劇的に変化したわけではなく、非常に滑らかに連続的に推移してこのようになっているのだから、不思議なものだ。
まあでも、この今の母ちゃんはすごく安定した『完成形』って感じがするので、たぶん当時の母ちゃんが素敵な母親であろうと、ちょっと無理をしていたのだろう。
人間、やっぱ無理なく自然体でいるのが一番だし、別にがんばって素敵である必要なんてない。せめて、自分の家の中でくらいは。
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