4. なんにでも軽率に首を突っ込むのは、そりゃ基本的にはあんまよくない



 俺の身体的コンディションの問題か精神的なテンションの問題かは分からないが、帰りは行きよりもずいぶんと時間が掛かった。途中、そのへんの公園で野宿をして、帰りついたのは結局、翌日の夕方を回ってからだった。

「ただいま」

「お、まーくんおかえり。二ヶ月ぶり? 死んだかと思ってたよ」

 もう道行く人々はほとんど半袖だというのに、まだ出しっぱなしのコタツに足を突っ込んでいたヒナが、こちらを振り返って言った。テレビからは爆音で大相撲中継が流れていて、嘉風が横綱伊勢の里を破る大番狂わせで国立競技場には座布団が飛び交っており、そちらに熱中しているばあちゃんは振り返りすらしなかった。

 カウンターキッチン、シーリングファン、コタツ、神棚、仏壇、大量の部屋干しの洗濯物。ヒナとばあちゃん。

 エレベーターの扉が開いた瞬間に見える光景が、俺がふと思い立って海を見に行った日からなにひとつ変わっていなくて、まるでこの空間だけがぽっかりと、世界の時間の流れから取り残されてしまっているみたいだった。

「で、どこでなにしてたの?」と、ヒナに訊かれ、俺もいそいそとコタツに足を突っ込んみつつ、チャリで南房総まで行きレーコさんに拾われて世話になっていた話をした。二日間チャリを漕ぎ続けてきたので全身がだるく、喋っていないとすぐにでも寝落ちしてしまいそうだった。

「え、なにさっそくヒモの適性バリバリなとこ証明してんの? 普通に引くんだけど。ていうか、なんか綺麗な服着てるし。そんなの持ってたっけ?」

「あ、うん。着の身着のままだったから、服はちょっと買ってもらったり」

「は~なにそれ? 信じらんない」

「やっぱおかしいよな?」

 俺が訊くと、ヒナはぶんぶんと首を縦に振った。

「おかしいおかしい。めちゃくちゃおかしい。なんでふと思い立って五千円だけ持って家出してんのに、一日たりともつらい目にうことなく即日やさしい女の人に拾われてんの? 普通それって、もっとハードな経験をして世間の暗部を体感しつつも、道行く人に助けられたり、ほんのちょっと人の優しさにも触れて、自分が今までいかに恵まれていたかとか、仲間たち親たち家族たちのありがたみを再確認して帰ってくる青春イベントでしょ? 女の子ひっかける才能にあふれすぎてて、圧倒的成長の機会が失われてるじゃん」

 そこで不意にばあちゃんが「ほんと、まーくんは智尋さんによー似てるね」と言った。何気にちゃんと、俺とヒナの話を聞いていたらしい。

「俺が親父に似てるって、どんなとこが?」

「そりゃ、もうそのまんま」と言って、ばあちゃんは一口お茶を啜る。「智尋さんももともと、行き倒れてたのを絵里がひろって帰ってきて、それがなんかそのまま居ついちゃって、気が付いたら絵里がまーくんを産んでただけだから」

 ちなみに、ばあちゃんは母ちゃんの母ちゃんで、まあ関係性としてはばあちゃんと呼ぶしかないからばあちゃんなのだが、ばあちゃんって言うほどおばあちゃんってわけでもなく、わりと若く見える。俺がまだ小さかったころは、さらにもっと若々しくて綺麗だったので、到底おばあちゃんって感じではなく、うちには母ちゃんがふたりいるみたいな認識だった。

「え、うちの親父と母ちゃんのめってそんな感じなの?」

 俺が訊くと、ばあちゃんはキュッと顔をしかめた。

「そう。なにか仕事はしてるらしいけど、未だに素性がよく分からないし。実質、ずっとこの家のヒモみたいなものよ」

 親父は見るからにえない地味で小さな眼鏡のオッサンって感じなのだが、どういうわけか英語と韓国語と中国語とロシア語を喋ることができて、いちおう本人の言としては職業はフリーライターということになっている。

 でも、ちょっと前に聞いた話ではロシアから薬草を漬け込んだ酒を輸入して販売しているとかだったし、その前は浮気調査てきな探偵まがいの仕事だとか猫探しなんかもしていて、そのときどきで目先のもうけ話に飛びついては、ちょろっと儲けたり大失敗したりを繰り返しているっぽい。

 うちの台所には立派なウォーターサーバーが置いてあり、物置には核シェルター並に飲料水がストックされていて、聞けばこれも親父の商売の失敗のツケだという。ご家庭にウォーターサーバーを設置してもらって定期的に水を配達するビジネスモデルらしいが、うちにこれだけ水が余っているのだから、売れなかったのだろう。せっかくだからせっせと使っているが、水道水に比べて特段にうまいといったこともない。普通に水だ。

 我が家には他にも、アンチエイジング作用のあるサプリメントだとか、無害化された大麻の成分が入っている電子タバコのリキッドだとか、親父の無節操な商売の、おそらくその失敗の、痕跡がちょいちょいと転がっていたり積み上がっていたりする。あと、いちおう本業はフリーライターなので、何年も前に親父が書いたらしい『日本社会の暗部に迫る!』てきな実話ナックルズみたいな毒々しい表紙のペーパーバック本も、同じものが山とある。

 なかでも一番迷惑なのは屋上一面に十段以上も積み上げられた『真実の眠りを提供する極厚マットレス』で、あれのせいでこの五階建ての雑居ビルは、見かけ上六階建ての高さになってしまっているのだ。屋上はもともと物干しスペースだったのだが、あれのせいでもう長らく居間での部屋干しを強いられている。まあでも、こちらは今でもヤフオクを通じて一ヵ月にひとつ程度の出荷があるようなので、実話ナックルズまがいの本よりはいくらかマシだ。あれはたぶん、一度も減ったことがない。しかし、なにしろモノがデカいので送料が高くつき、売ったところで利益はそれほどでもないし、このペースでいくとすべてを出荷し終えるにはあと三百年ほどかかる。

 まあそんな感じで、うちの親父はまるでわけのわからない、才能と豪快さのない両津勘吉みたいなやつなので、母ちゃんの母ちゃんであるところのばあちゃんからの風当たりはちょっとというか、かなり強い。

「注意力散漫というか、集中力がないのかしらね。アレをやってたはずが、気が付いたらいつの間にかぜんぜんちがうことしてて。あっちでもこっちでも妙な人と関わって、なんやかんやと面倒見たり面倒かけたり。ほら、おぎくぼの。なんていったっけ? インド人の彼のときも、色々と大変だったでしょ」

「ああ、ヴィジャイね。そういえばあったな」

 正確にはヴィジャイはインド人ではなく、インド系のアメリカ人だ。いや、パキスタン系だったかもしれない。まあ、なんかそっちのほうの国にルーツを持つアメリカ籍の元技術者で、一時期うちに住んでいた。ある日とつぜん、えらく酔っぱらった親父が「かわいそうな人なんだよ」と、家に連れて帰ってきたのだ。 

 ヴィジャイはイラク戦争後の復興支援のため、クウェートで穴を掘っていた。電気のためか水道のためのものなのか、詳しい話は知らないけれど、とにかく、インフラ整備にともなう穴掘りの専門家だったらしい。

 すでにイラク戦争は終結し、ヴィジャイたちは荒廃したクウェートの街を立て直すため、クウェートの人々のために穴を掘っていた。少なくとも、ヴィジャイはそのように認識していた。しかし、なぜか彼らはイラク人からの絶え間ない攻撃に晒され続けた。

 イラク戦争においてアメリカがとった、最新兵器による少数精鋭で一気に押し切る作戦は、たしかにイラクの軍事力を短期間で一網打尽にすることはできたけど、安定した統治をしくには頭数がまったく足りなかったのだ。イラクの各地には小規模なレジスタンスが多数潜伏していて、アメリカをはじめとする駐留軍に対する抵抗を続けていた。ヴィジャイたちが掘っている穴も、軍事目的のなにかだと勘違いされたのかもしれない。もちろん、駐留軍はヴィジャイたちを警護していたが、しかし神出鬼没のレジスタンスの攻撃に対応するには頭数が足らず、最終的にはヴィジャイも重傷を負い、日本に移送されて、基地内の病院で治療を受けた。

 たぶん、クウェートの地下に掘られたトンネルの中で、爆発音や銃撃の音におびえて過ごすうちに精神を病んでしまったのだろう。ヴィジャイは怪我が回復すると、病院の床下にトンネルを掘って逃げ出した。見つかったら連れ戻されて、再びイラクでトンネルを掘ることになると信じ込んでいた。

 それがどういう経緯けいいでうちの親父と知り合ったのかは分からない。翌朝、親父も家に見知らぬインド人がいることにびっくりしてたほどだ。えらく酔っぱらっていたせいで、なにも覚えていなかった。

 しかしまぁ来ちゃったものは仕方ない。今さら放り出すのもかわいそうだろうと、親父はその後もなんぞかんぞと面倒を見てやり、なんか知らんがヴィジャイは荻窪にインドカレーの店を開き、うちから出ていった。お店はなかなか盛況らしく、今では八王子と日野にも支店がある。

「あれ今から考えると、そうとうなお人好しだよな。俺たちヴィジャイとなんの関係もないし。当時はなんか、インド人が来ちゃったみたいなインパクトに負けて、なんとなく、なんとかしてあげなきゃかわいそうでしょみたいなノリになってたけど」

 俺が言うと、ヒナも顔をしかめて「インド人が来ちゃったじゃないんだよ、マジで」と、ため息をついた。「あれ僕、けっこう嫌だったよ。ヴィジャイずっと、すごい気難しい顔してて怒ってるみたいだし。カーテン閉めきって暗い部屋で頭から毛布被ってて、ふつうに怖かったもん」

 ヴィジャイは日本の街にもあちこちにCIAがいると思い込んでいて、当時は常にピリピリと警戒をしていたのだが、今では普通に日本でカレー屋をやっているので、別に本当にCIAに追われているわけではなかったのだろう。ビザとかも、なんか親父があれこれやって、ちゃんとなっているはずだ。そもそも軍人でもなく、民間の技術者だったわけだし、CIAに追われる理由がない。

「まあでもアレ、ヴィジャイは別に怒ってたわけじゃなくて、生まれつきああいう顔なだけだと思うぜ。話すと、わりと普通に笑うこともあったし」

「話すったって、日本語もできなかったじゃん。まーくんとか絵里さんは果敢にルー語で会話してたけど。あれ根本的にはともくんのせいなんだけど、言葉通じないインド人をなんとなくのノリで受け入れちゃうまーくんとか絵里さんも、結構なもんだと思うよ」

 言われてみれば、俺はべつにヴィジャイのことをそれほど迷惑とは思ってなかった気もする。家になんか変なやつがいるな、くらいのノリで。なんなら最初はちょっとテンションあがってたかもしれない。生のインド人なんか関わったことなかったし。

「まあ、そんなんだから、根は素朴なお人好しなんだろうけどね~」と、ばあちゃんが言う。「でも、素朴なお人好しっていうのは商売には向いてないから。それを言うと、じーじもそうだったんだけど。せっかくひぃじいちゃんが起こした商売を潰しちゃったし。まあ、ひぃばあさんも元々はイイトコのお嬢さんだったのに、闇市あがりの質屋に嫁入りしちゃったわけだから、代々、男運のない家系なのかもね。まーくんも、よく気をつけないと、ああなっちゃうよ?」

 ばあちゃんに言われて、俺はかなりリアルに危機感を抱く。うちの親父は絶対になりたくない大人の具体例もいいところだ。俺は寒気を感じてブルルと肩を震わせる。ヒナも「そうだよ、まーくん」と、ばあちゃんに同意する。

「まーくんはあっちでもこっちでもすぐに女の子をひっかけちゃうけど、大抵ひっかかった女の子は幸せになってないもの。基本がサゲチンなの。ちゃんと危機感もって心根を入れ替えないと、自分自身も含めていろんな人を不幸にすることになるよ。もっとがんばって、ちゃんとマトモになりな?」

 たぶん、これもまたヒナの言う通りだ。

 俺はもっとがんばって、ちゃんとマトモにならなければならない。



 ☟



 二日ほど地獄のような筋肉痛で寝たきり生活を送ったが、その後はあっという間にのんべんだらりとした日常に飲み込まれ、俺はまた、たまに一階のマイマイさんの居酒屋を手伝うだけの無職のプーに戻った。

 夕方まで仕込みを手伝って、裏に回ってエレベーターに乗り自分の部屋に戻ると、俺はふと思いついてレーコさんに電話を掛けた。

「はい」

 数日ぶりに電話越しに聞くレーコさんの声は、まるでどこかのカスタマーセンターのテレフォンオペレーターみたいに、無機質で他人行儀に響いた。

「あ、真尋ッス。いちおう無事に家に帰り着いたんで、その報告だけはしておこうかと思ったんですけど」

「そう。よかったわ」

 俺の頭には、なぜか午前二時に窓際で三角座りをしているレーコさんの姿が思い浮かんでいた。

うさぎを飼うことになったの」

 レーコさんがなんの脈絡もなく言った。

「兎ッスか?」と、俺は訊いた。「ノルウェイジャンフォレストキャットじゃなくて」

「そう。ノルウェイジャンフォレストキャットじゃなくて」レーコさんは答えた。「ネザーランドドワーフっていう種類の、小さくて耳が短い兎で、チョコレート色をしている。兎のことなんて、ぜんぜん知りもしなかったんだけど、里親を探してるって知り合いから話が回ってきて、実際に会ってみたら、わりと気も合ったものだから」

 電話の向こうで、レーコさんはすこし笑ったみたいだった。

「こういうのは出会いだから。もう決めちゃおうって思って」

「そッスか。いい出会いなら、よかったです」

「うん。わたしね、自分で思っていた以上に、もっとべったりと甘えられるのが好きだったみたい。すごく甘えん坊な子なの。本来は警戒心がつよくて、誰にでもれるわけじゃないらしいんだけど、不思議とわたしには最初から馴れてたわ」

「そッスか」

 しばらく妙な沈黙があって、不意に「お父さんは元気?」と、レーコさんは言った。

「は? 親父ッスか? 俺の?」なんでここで急に親父の話が出てくるのか、俺にはさっぱり分からなかった。「どうッスかね。今日は見てないけど、たぶん元気だと思いますよ」

「気をつけて」

「え?」

「なにかとんでもなく大きな力を持った、わけの分からないものが動きはじめてる」

「えっと、それは例の、ほんのちょっと先のことが分かるってやつですか?」

「おそらくは」

「それに、俺の親父がなにか関わっている?」

「分からない。でも、たぶんそう。だけど、あなたのお父さんだけじゃない。それには多くの人や物、それに、たくさんのわけのわからないものが関わっているの。それは大きすぎて、全体を見ることができない。わたしの手に余る」

「うんと、気をつけるって具体的にはどうすれば」

「近づかなければいいのよ。危ないことには近づかないのが一番。わたしは危ないことには近づきたくない。わたしはわたし自身と、わたしのネザーランドドワーフを守らなければならないから」

 レーコさんの声には毅然とした、なんらかの決意、あるいは覚悟のようなものがにじんでいて、俺は言葉を失いかけた。かろうじて「チョコレート色の?」と、質問をした。

「そう。チョコレート色の」

「名前は?」

「ショコラよ。それじゃ、もう電話はしてこないで。電話帳の登録も消しておいて」

 おごそかにそう告げて、レーコさんは電話を切った。



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