3. 暗中模索からの案の定の迷走
「浪人生ってやつじゃないの?」
バイト先の店長のマイマイさんに言われ、俺は竹ぐし片手に黙々と海老の背わたをとりながら「浪人生ではないと思う」と、返事をした。
三月の早々に卒業式があって、俺は数日前に高校を卒業してしまっていたから、少なくとも既に高校生ではなかった。来年また大学を受験するという可能性もまだ
とはいえ、いちおうこうしてバイトはしているのだから無職ってわけでもないだろうとも思うのだが、それもまた微妙な話で、マイマイさんの居酒屋はうちのビルの一階に入居している
「じゃ、どうするの? 就職活動?」
「うーん、なんか仕事はしなきゃなって思うんだけど」
「なんなら、このお店やる? わたしもずっと続ける気はないし。そんな儲かるってこともないから、おすすめってほどでもないけど。ここならまーくん、自分ちの建物なんだから家賃もないし、暮らしてはいけるんじゃない?」
「え~飲食かぁ。どうなんスかね~?」
「いや、知らないよ。自分のことでしょ。自分で決めなよ」
実にその通りだ。俺はまず自分がなにをしたいのかを見極めなければならない。大まかに飲食業とか、肉体労働とか、そのレベルですら、俺はなにも決まってないのだ。
小学校を卒業すれば中学校、中学を卒業すれば高校と、これまでの人生、つねに次にやることが控えていたので、こんな風になにをするのかまったく決まっていない状況は生まれてはじめてで、想像していた以上に、ものすごく
「十八歳でしょ? そんなもんじゃないの? どうせなら旅とかすれば? 自転車で日本一周とか。自分探してきなやつ」
そんなマイマイさんの適当極まるアドバイスを真に受けたわけでは全然まったくないのだが、母ちゃんから金をもらって夕飯の買い出しにママチャリを
急がず慌てずのんびりとチャリを漕いで、日没前には竹芝についたものの、竹芝
そこでようやく俺は、自分の『あ、なんか海が見たいな~』という欲求が、海であればなんでもいいというわけではなく、正確には『西向きの砂浜で海に沈む夕日が見たい』というものだったのだと気付く。
自分がなにを求めているのかを自分で正確に把握するのは、意外と難しい。それが分かっただけでも、まあここまでチャリを漕いできた甲斐はあったかな、などと考える。
嘘だ。自分に嘘をつくのをやめろ。俺は全然しっくりきていない。ここからまたチャリを漕いで家まで帰って、曖昧にマイマイさんの店を手伝ったり夕飯の買い物に出掛けたりするだけの日々を送るのか? 違う気がする。俺はまだまだいけるはずだ。
そこでポケットの中のスマホが鳴り、出ると母ちゃんが「まーくん、どこまで買い物にいってるの」と、いつもの寝ぼけた声で言う。
「ん。なんか竹芝」
「竹芝って。なんでそんなとこいんの? チャリで?」
「チャリで。なんか海が見たいなって」
「あそう。で、帰ってくるの?」
「いや、どうだろ。ちょっとしばらく帰らないかも」
「あそう。まあいいけど。じゃ、お母さんたちなんか適当に出前でもとるから、おつかいはもういいよ。気をつけてね」
そう言って、母ちゃんはあっさりと電話を切る。いいのかよ、と、ちょっと思う。まあ、いいんだろう。とくになんの予定もない無職のプーだし。
よし行くか。海に沈む夕日を探しに。
俺はスマホのマップアプリをスワイプして、ざっくりと見当をつける。ここから西向きで、しかも砂浜の海岸を目指すとなると、たぶん南房総まで行くしかない。
ここまで来たらもう乗りかかった船(チャリ)だと、俺は竹芝からさらに東へ東へチャリを漕ぐ。ポケットのなかには夕食の買い物資金の五千円札とスーパーのポイントカード。あと格安SIMの刺さったスマホしかない。途中ファミレスでの休憩を挟みつつ夜通しチャリを漕ぎ続けた俺は、夜明け頃には右手に海を見ながら南へと進路を変えている。意外と行けちゃうもんだな海! と、軽くテンションが上がるが、ここまできてもやはり『なんかコレじゃねぇんだよなぁ』感が拭えず、俺は理想の海岸線を求めて岩井海岸まで到達し、ようやく満足する。
視界の端から端までの一面の白い砂浜が、俺を出迎えた。
よせてはかえす波の音が心地良い。海から吹く潮風の匂いも完璧だ。
俺はチャリを止め、ふらふらと砂浜に出て、ごろりと寝転がった。
なにしろ夜通しチャリを漕いできたので、体力的にも筋力的にも既に限界を超えていた。
まぶたを閉じてもつよい太陽の光が貫通してきて、自分の血の色が透けて見えた。俺は穴に吸い込まれるようにすとんと深い眠りに落ちた。
☟
「ねえ君、ちょっと」
ぺちぺちと頬を叩かれて目を覚ます。
「あ、よかった。生きてた。寝てるだけ? どこか具合が悪いとかじゃなくて」
薄く目を開くと、逆光に照らされた女の人の黒いシルエットが見えた。見慣れない光景に俺は一瞬混乱したけれど、すぐに『そういえばチャリで海まで来て力尽きて眠ったんだったな』と思い出した。
「あ、はい。大丈夫ッス。寝てただけッス」
返事をしてみたら、ものすごく変な声が出た。自分の声じゃないみたいだった。喉がカラカラに乾いている。
「あそう。なら別にいいんだけど。なんかすごい中途半端なところで寝転んでるし、いい加減なカッコで観光客っぽくもないし、倒れてるのかと思って」
「倒れるみたいに寝てただけッス。昨日の夕方から夜通しひたすらチャリ漕いでたんで、さすがに疲れたみたいッスね」
「え、徹夜で?」「そッスね」「めっちゃ近所から来ましたみたいなカッコだけど、君、地元の子じゃないの?」「家は吉祥寺ッス」「吉祥寺からチャリで? マジ?」
言って、女の人が笑う。だんだん目の焦点が合ってきて、ようやく女の人の姿がはっきりと見える。俺よりは年上だと思うけど、若い。二十代だろう。長い黒髪と、陽に灼けた小麦色の肌がよく似合う、健康てきな美人さんだ。
俺が大きく
「すんません。あざッス」
「めっちゃ飲むじゃん」
「あ、すんません。ぜんぶ飲んじゃって」
「別にいいんだけど。ていうか、ひょっとしてお腹も空いてる? おにぎり食べる?」
「え、いいんスか? 食べたいッス」
「いいよ。どっちみち、お昼に食べきれなくて余ったやつだし。はい」
俺は女の人がトートバッグから取り出したアルミホイルの包みを受け取る。すげぇな。なんでも出てくるなって思う。炊き込みご飯をおにぎりにしたやつで、
「めっちゃうまいッスねこれ。今まで食ったなかで一番うまいッス」
「そう? べつに普通の炊き込みごはんだけど」
「自分で作ったんスか? やべぇッスね」
俺が「はぁ~、マジでうめぇ」と息を吐くと、女の人はあははと笑って「まだ食べたい? 家に帰ったらまだいっぱい残ってるけど」と言う。
「え、食べたい」
「じゃ、うちおいでよ。すぐそこだから」
「あでも」と、俺は言う。「夕方までここにいるつもりなんで、やっぱいいッス」
「なんで?」
「もともと、ふと西向きの砂浜で海に沈む夕日が見たいと思い立ってここまでチャリを漕いできたんで、とりあえず初志貫徹しておこうかと」
「あ~なるほどね。たしかに、吉祥寺で海に沈む夕日を見ようと思ったら、このあたりまで来るしかないかもね。東京湾じゃ様にならないし」
「そうなんスよ」
「そういえば、わたしももともとはそんなだったな。こっちに引っ越してきた理由」
「地元の人じゃないんスか?」
「うん。まえは都内で事務やってたんだけど、なんかダメになっちゃって。それで、波の音を聴きながら海に沈む夕日をぼんやりと眺めるような生活がしたいな~って、ふと思ったんだよね。すっかり忘れてたけど」言って、女の人は俺の隣に腰を下ろした。「いつの間にか普通になっちゃって、そういえば最近、夕日を
「あ、べつに待っててもらわなくても大丈夫ッスよ。俺、勝手に夕日見てるんで」
「せっかくだから、わたしも久しぶりに夕日見ていこうかなって思ったんだけど。邪魔?」
「いや、邪魔ではないです」
何人で見たところで、そのぶん夕日が減るわけじゃない。太陽はでっかくて平等で、偉大だ。
「ていうか君、家出とかそういうやつ? 家が居づらいとか?」
「え、ぜんぜん。ちょっと変な間取りだけど、家はめっちゃ居心地いいッスよ」
「あそう。高校生?」
「卒業したての無職のプーです」
「てことは十八歳?」「そッス」「うわ若っ。でも十八なら半分くらいは大人みたいなもんだし、そこまで心配することもないか。思い立って夕日見るために一晩中チャリを漕ぐくらいは、健全な非行少年ってかんじだもんね」「そうなんスか?」「そうだよ~。都内なんか、ちょっと道に迷った青少年に対する危ない誘惑がいっぱいじゃない? 変なクスリやったり夜遊び覚えたりバットで人を殴ったりするよりは、ひとりでひたすらチャリを漕いでるほうがよっぽどいいでしょ。思い立ってチャリで南房総まで来ちゃうような無謀は、高校卒業したてのプーの特権ってかんじだし、やるなら今しかないよね。むしろベストタイミングじゃない?」「そんなもんスかね~」「そうよ。なにもかも順調にいく人のほうが珍しいから、どうせいつか
そんな話をしてたら順調に陽が傾いてきて、空に赤みがさしてきたあたりから、俺たちはあまり喋らない。黙って、波の音に耳を傾けながら、赤く燃えた太陽が海に沈んでいくのをぼんやりと眺める。
「よし。そろそろ行こっか」
太陽が完全に水平線の下に隠れた薄闇のなかで、女の人が立ち上がってスカートのおしりを払いながら言った。俺も立ち上がり、チャリを押して女の人と並んで歩く。
「そういえば君、名前は?」
「
「真尋くんね。わたしはレーコ」
レーコさんのアパートはマジで海の目と鼻の先で、歩きでもすぐに着いた。
「あがって。ちょっと散らかってるけど」
間取りは2DKで、ひとり暮らしには十分広い。一部屋は完全に物置になっていて、部屋を持て余している感があった。窓を開けると、かすかに
晩ごはんにはお昼に食べさせてもらった鶏の炊き込みご飯のほかに、あさりのみそ汁と納豆オムレツとサラダまで出た。
「は~、マジうまくて感動ッス」
「あはは。そんなにおいしそうに食べてもらえると、こっちも嬉しくなるね」
食べ終わって、それでは失礼しますと部屋を
実際、俺にはなんのアテもなかったし、屋根のあるところで寝られるならそれに越したことはなかった。じゃあそういうことならとお言葉に甘え一泊すると、翌朝は凄まじい筋肉痛に襲われまともに立ち上がることができず、レーコさんが仕事に出るのを見送ったあと寝て起きたらもう夕方だった。レーコさんが帰ってきて、なりゆきでまた晩ごはんをご
俺が海辺でぼんやりと夕日を眺めているあいだも世間は
☟
レーコさんの生い立ちについては、今でも俺はよく知らない。
ときどき、ちょっとお酒を飲んだ夜なんかに、断片的に喋ることがあったくらいだ。
女に教育なんか必要ないという前時代てきな価値観の父親に反発して、東京の大学を受験し家を出たこと。それ以来、ほとんど実家とは縁が切れていること。新卒で就職したものの、三年でぷつりと糸が切れるように会社に行けなくなってしまったこと。寒いところは嫌だから、というくらいの曖昧な理由で南房総に引っ越したこと。趣味は貯金で、収入はそれほどでもないが支出の少ない堅実なライフサイクルの確立に成功し、奨学金の返済も終わった現在は、わりとプラス収支で生活が回っていること。夢はノルウェイジャンフォレストキャットという、とても大きくなる種類の猫を飼うこと。
俺がふと目を覚ますと、窓辺でレーコさんが三角座りをしていた。時計を見ると、午前二時だった。俺は起き上がってキッチンに行き、温かいお茶をいれてレーコさんにわたした。ひょっとして泣いてるのかと思ったけど、別にそんなことはなかった。
「わたし、ほんのちょっとだけ先のことが分かるんだ」と、レーコさんが言った。「でも、ほんのちょっと先のことしか分からないから、結局、長期的には間違えちゃうんだよね」
レーコさんにいま見えている、その『ほんのちょっと先』は、俺にはぜんぜん分からなかったけど、現状、あるいはほんのちょっとの未来において、俺はレーコさんにあまり良い影響を与えないのだろうということだけは分かった。
「そろそろ帰ったほうがいいッスよね」と、俺が言うと、レーコさんはあっさり「まあ、そうね」と頷いた。ひょっとして引き留められるかとも思っていたけれど、全然まったくそんなことはなかった。
俺は「引き留めないんスね」と言おうとして、やめた。でもレーコさんは、言わなかった俺の言葉に返事をした。
「今のところはたぶんギリギリ、わたしは行き倒れていた君を助けてあげた親切なお姉さんで済んでいると思う。だから、そうだね。できれば早いとこ出ていってほしいな。わたしが手遅れになる前に」
そのまま、夜が明ける前に俺はレーコさんの部屋を出た。来たときも一晩で辿り着いたのだ。帰りだって一晩で辿り着けるだろう。
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