2. 人格・個性・アイデンティティ


 一階に入居している商店街に面したマイマイさんの居酒屋を通り過ぎ、ビルの合間に設置された門扉を開け、路地と呼ぶのもおこがましい人ひとり通るのがやっとの狭い通路を進むと、うちの玄関がある。ちょっとしたかわらぶきのきがあり、郵便受けがあって、アルミのスライド扉がある。裏路地のビルの壁面にいきなり民家ぜんとした玄関がくっついているので初めて見た人はギョッとするらしいが、俺にとっては生まれたときからずっと住んでいるところなので『うち』と言えばこういうもんだ。

 玄関を開けるとすぐ目の前に狭く急な階段があって、左手には旧式のエレベーター。靴はここで脱ぐ。右側の壁面は巨大な靴箱になっているのだが、それもすでにキャパオーバーでは脱ぎ散らかされた靴とサンダルであふれかえっている。

 俺たち家族が住んでいるこの五階建てのビルは、質屋を営んでいたひぃじいちゃんが何十年も前に建てたもので、かっこよく言えば自社ビルだったものだ。もとは一階でひぃじいちゃんが質屋をやり、二階から上にはみっしりと事務所が入っていた。しかし、跡を継いだ入り婿のじいちゃんはあまり商才がなく、ひぃじいちゃんが一代で築きあげた質屋を見事につぶしてしまい、不景気のあおりを受けてテナントも空きっぱなしになっていたから、二階から上を住居用にリフォームして移り住んだのだ。今はじいちゃんも死んじゃって、たぶん、ばあちゃんの所有になっているのだと思う。もとは雑居ビルだったうえに、造りも古いから変な間取りになってしまっているけれど、4フロア+屋上を住居として使っているのだから、広いことは広い。

 今どき珍しい、ものすごく押している感のある、安い印鑑みたいな丸ボタンをカチッと押し込むと、ゴンゴンと音を響かせてエレベーターが下りてくる。扉が開くと、俺はきっちりエレベーターの真ん中に立ち、目を閉じて、ぐんっと身体に掛かる重力変化を楽しむ。数秒の宇宙体験。そのあいだ、俺は毎回なにかを考える。そういう習慣になっている。

 たとえば、好きなこととか得意なこと。熱中して、憧れて、子ども心に『絶対にこれがやりたい!』と思って、長い時間をかけて練習し、身に着けたこと。サッカーでも野球でも水泳でもいいし、ピアノでも書道でもそろばんでも、読書でも昆虫でも漫画でもゲームでも、なんでもいい。なにかしら、譲れないもの。そういう諸々もろもろが人格をつくりあげ、一般に個性と呼ばれたりもするわけだが、じゃあ俺が好きなことや得意なことって一体なんだ? とか。

 で、自分のなかに驚くほどなにもなくて驚いたのが高校三年の夏の終わりで、まあ、だいぶ手遅れと言えば手遅れだ。

 俺は、俺の人生の目標や目的となり得るような、俺にしかないなにかを見つける必要がある。

 そう結論づけたところで、到着を知らせるチンという音が鳴る。

 オフィス風の飾り気のないエレベーターの扉が開くと、いきなり生活感あふれる民家の居間が現れるから、これも初めての人はギョッとするらしい。

 左手のカウンターの向こうに大きなシステムキッチンがあり、天井からはシーリングファン付きのライトがぶら下がっていて、設計した時点では『モダンな洋風リビング』を志向していたようなのだが、本来ならダイニングテーブルでもあるべき位置には巨大なちゃぶ台がデンと鎮座していて、設計者の思想を力強く徹底的に破壊している。長年、地べたと畳で生活してきた日本人には、ダイニングテーブルだのカウンターキッチンだののしゃた生活習慣はそうやすやすとは根付かないのだ。

 おまけに部屋の端から端へ何本も紐が張られていて、洗濯物がたっぷりと引っかかったままになっているから、生活臭がハンパない。北西側の一角は四畳半の畳のスペースになっていて、そこに仏壇やら神棚やらがえられているのだが、ここまでくると、なぜ最初からすべてを和風につくらなかったのかと不思議になる。

 まあ、これもある種の『理想と現実』ってやつなのだろう。現実の浸食力はめちゃくちゃ強い。夏の雑草みたいなもんで、放っておくとあっという間にじゅうりんされてしまう。常に全力で抗い続けていなければ、理想には届かない。

「おかえり」

 ちゃぶ台でを食いながらテレビを見ていたハトコのヒナが、こちらを振り返って言った。ヒナの反対側では、母ちゃんが半分にした座布団を枕に昼寝をしていた。

 母ちゃんはあまり家事をしない。なにしろうちは商店街のど真ん中にあるので、ちょいとエレベーターを下りれば食い物はなにかとそのへんで調達できてしまう。たまに料理をすることもあるけれど、母ちゃんが料理をしないからといって父ちゃんが文句を言ったりすることはない。家族全員が『なきゃないで小銭持って外に行けばいいや』というスタンスで、母ちゃんは気が向いたら掃除したり料理したりもするけど、基本は寝転がってワイドショーを見てるか、ネットフリックスで韓流ドラマを見てるか、昼寝してるかだ。

 考えてみると、これは怜奈が理想としていた『お姫さまのような生活』に、かなり近いのではないか? と、一瞬思う。足りないのは『ソファ』とか『単行本』とか『陽当たりの良い大きな窓』とか『控えめな音量で流れるお気に入りの音楽』とかのフレーバー要素だけだ。

 でも、ちゃぶ台の脇で二つ折りの座布団によだれを垂らしながらスピスピ寝息を立てている母ちゃんは、どこからどう見ても母ちゃんでしかないので、そういったこまごまとしたフレーバー要素こそが『母ちゃん』と『お姫さま』のぶんすいれいなのかもしれない。物事のエッセンスを見抜くことも大事だが、ときにはディティールこそがエッセンスであることもあるのだ。

「なあ、ヒナ」俺は座布団にあぐらをかきながら、ヒナに訊いた。「俺の得意なことってなんだ?」

「女の子ひっかけることでしょ?」ヒナは一切の迷いなく即答した。

「いや、なんだよそれ。俺は別に女の子をひっかけるのがんばった覚えねぇよ」

 俺がこれまでに付き合ったのは怜奈ひとりだけだし、他には『付き合いそうかも~』みたいな雰囲気なったという経験もない。いきなりそんな迷いなく『女の子ひっかけることでしょ?』とか言われても、まったく身に覚えがない。

「だから、まーくんはすごいんだってば。ぜんぜんがんばってないんだもん」

 言って、ヒナは広げたぶんたんの皮のうえに、プッと種を吐き出した。

「ていうかヒナ。なんでそんな恰好かっこうしてんの?」

 俺が訊くと、ヒナは自分の胸元を見下ろして「え? 変?」と、首を傾げた。

 白いふわふわとしたえりの大きなブラウスに、首元には大きなリボンまでついていて、下はこれまたふわふわとした赤色のスカートだ。変ではないが、居間でぶんたんを食うにはすこし、気合いが入りすぎている感はある。

「いや、かわいいけど」

 俺が言うと、ヒナは「だからまーくん、そういうところだよ」と言って、次のぶんたんの薄皮をいた。指先が汁でべとついて、てらてらと光っていた。

「なにが、そういうところなんだよ」

「そういう風に抵抗なく、さらっとかわいいとか言えちゃうとこ」

 そう言われても、身内の贔屓ひいき目を抜いて客観的に評価したところで、ヒナが『かわいい』のほうに属するのは事実だと思われるので、そこを否定しても仕方ない。

「うーん、なんだろうなぁ? 屈託くったくがないっていうか、恥ずかしいとか照れるとか、そういうのがあまりないのかもね。素直と言えば聞こえがいいかもだけど、まぁ鈍感なんだな。誰だって、かわいいって言われれば悪い気はしないしね」

 前と後ろで言ってることの理屈がちっとも繋がっているようには思えないのだが、ヒナの中ではなにか一貫した論理が通っているらしい。

「そもそも俺はそんなに女にモテねぇよ。モテた覚えがない」

 本来の俺は人の輪の中心にいるタイプっていうよりは、それをひがみ半分ねたみ半分で外から眺めているような陰キャ寄りだ。怜奈に引っ張り回されていた期間だけ、例外てきに人との関わりがわりと多かっただけで。

「うん、モテるっていうのとはちょっと違うよね。うちの学校に小山先輩って人がいてバスケ部のエースなんだけど、廊下を歩いてるだけで女の子たちがキャーキャー騒ぐんだよ。あれはうん、文句なしでモテてる! って感じ。まーくんのはそういうんじゃなくて、特定種族への特効持ちっていうか、範囲攻撃じゃなくて、ある個人をすれ違いざまでヒョイと刺してるみたいな。殺し屋みたいに」

「そんなことやってなくない?」

「やってるやってる。ヤバいよ? ほら、ネットフリックスとかアマプラなんかで、料理対決てきな番組が流行ってるじゃん?」

「うん」その話からどう繋がるのかは分からないが、ひとまず俺は頷く。ヒナの話はわりと大外から曲がってくる傾向があるので、聴くには多少の気長さが必要なのだ。

「最初は、料理なんか食べてなんぼなのに、ただ映像でおいしそうなごはんを見せられてなにが楽しいんだよって僕も思ってたんだけどさ。違うんだよね。作る過程っていうか、料理人たちの手際とか洗練された身のこなしって、見てるだけで楽しいの。そういう意味では、ダンスとかフィギュアスケートとかを見てるのに近い感じなんだけど、でもダンスとかフィギュアスケートって基本、自分の生活とは関係のない、隔絶した『お芸術』じゃんね? そういうのと違って、料理ってやっぱり身近なものだから、よりすごさが感じられるっていうか。実感としてね。ああ、やっぱプロは違うなぁって。自分でやっても、絶対にあんな華麗にお料理できないもの。で、まーくんが女の子をひっかけるのも、そんな感じ。わおっ! って」

「どういうことだよ」

「あ~すごいな~って。一瞬だもんね。もう芸術の域だよ」

 そんなこと言われても、やっぱり俺にはまったく身に覚えがないし、だいたい俺が悩んでいるのは高校三年生てきな今後の人生設計とか、卒業後の進路とか、将来の夢とかの目標や目的について、もっと具体的にいえば、職業選択の話なのであって、女の子をひっかけるのがうまいと言われても、それを活かした職業というのが思いつかない。ホストとかか?

「いや~? ホストは違うでしょ。まーくんは華やかなのとかウェイなノリとか夜のネオンとか、アシンメトリーな髪型でピシッとスーツでキメてたりとか、そういうのはまったく似合わないし。夢や幻想を与えるって感じじゃないね。もっとこう、エプロンとスリッパとじゃがいもの皮むきとか、そういう系の。なんていうの? 安心感? いや、ペラペラしてて安心感はまったくないんだけど。そっちはそっちで一種の幻想ではあるのかなぁ? う~ん、僕もよく分かんなくなってきた。でも、仮にそっち系だとしても、向いてるのはホストじゃなくて女のヒモとかじゃない?」

「職業適性が女のヒモって終わってるだろ」

「そうかな? たぶん確実にトップテンには入ってくるレベルの、男子の憧れの職業じゃない?」

「まず女のヒモが職業かどうかには大いに議論の余地があると思うぞ」

 男子にとっての職業選択の悩みというのは要するに、今後の人生において、どうやって女の子を養っていくのかという問題なわけで、ヒモになって女の子に養ってもらえばいいじゃんみたいな、そんなコロンブスの卵はいらんのだ。

「職業選択ね~? べつにどんな仕事でも、なんだってやればできると思うけど。まーくんって完全に、なんでもそつなくこなすわりに特筆すべきところがないっていう器用貧乏のタイプじゃん?」

 だから困ってるわけなんだが。

「ていうか、みんなべつに自分の特別な才能を生かして仕事してるってこともないんじゃない? 僕のママだって、明らかに接客業向いてないけど、ずっとスナックのママやってるんだし。みんなわりと、まあ人並みにはできますよ? みたいなところで人生まわしてるもんでしょ。なんだってできるんだから、なんでも自分がやりたいことやればいいじゃん」

 で、また『自分がやりたいこと』に話が戻ってくる。俺にはそれがないっていう話なんだが。

「あ~もう、めんどくさいなぁ。まーくん、本当に高三? そういうの、中三くらいで終わらせといてくんない?」

「ここにきてド正論やめろ。普通にヘコむ」

「ていうかさ~」と、ヒナはぶんたんの最後の種をプッと吐き出して、皮を丸めてゴミ箱に入れる。「ひょっとして、まーくん。怜奈さんがまーくんと別れたの、まーくんに怜奈さんを養えるだけの甲斐かいしょうがないからとか思ってる?」

「違うのか?」

 怜奈の夢である『お姫さまのような生活』を実現するには、一定以上に稼ぎのある配偶者の存在が不可欠だ。だからこそ、怜奈は将来性が不透明すぎる俺に、早めに見切りをつけたのだろう。

「違うよ。もちろん違う。まったく違う。まーくん、二年も怜奈さんのそばにいて、怜奈さんのなにを見てきたの? 怜奈さんがそんなジコチューな理由でまーくんを見限るわけがないじゃん」

「じゃあ、なんだっていうんだ?」

「あのね」ヒナがちゃぶ台に肘をついて、身を乗り出してくる。「僕は怜奈さんじゃないんだから、僕が怜奈さんの気持ちを勝手に想像して代弁しちゃうのも、おかしい話でしょ? 怜奈さんの気持ちは怜奈さんのものなんだから。僕には僕の解釈があるけれど、それを勝手に『正解』としてまーくんに伝えるなんて、そんなおこがましいことはできないよ。当然じゃん? そんなに気になるなら、未練があるなら、まーくんが自分で怜奈さんに訊けばいい話じゃんね。べつに電話番号消しちゃったとか、着信拒否されてるとかでもないんでしょ?」

 どうだろう? 別れて以降、電話を掛けたことがないので知らないが。掛ければ繋がるのだろうか? とはいえ。

「そういうわけにもいかないだろ。もう別れたんだし」

「はあ~~~~~~~」と、ヒナはわざとらしく大きなため息をつく。「マジまーくん、なに変なとこだけかっこつけてんの?」

「いや、別にかっこつけてるとかじゃないけど」

「まーくんが怜奈さんに言うべきだったのは、今までどうしようもない俺に付き合ってくれてありがとう、おかげで楽しかったよ、とか、そういうんじゃないからね? それ、たんにかっこつけて意地張ってるだけだから。悲しいなら悲しいでいいし、嫌なら嫌でいいんだし、もっとさ、かっこ悪く執着してみな? まーくんが求めてる、自分だけの特別な個性だとかアイデンティティなんて、なんであれ大抵はただの欠点だし、かっこ悪いものなんだから。変に気取きどってかっこつけてる限り、そんなのなにも見つかりはしないよ」



 ☟



 たぶん、ヒナの言うとおりなんだろう。

 いつだって、俺はなんにも分かっちゃいない。なにも分からないまま、戸惑とまどって、狼狽うろたえて、右往左往して、そうこうしているうちに大事なものは両手のすき間からすり抜けていってしまう。

 それはそういうものなんだと、諦めだけがどんどんよくなっていく。



 ☟



 ヒナはまだ高一だったし、将来の進路や職業選択の悩みなどはまだまだ他人事だったのかもしれない。俺だってそうだった。高三の夏が終わるまでは。

 でも、その話を聞いた進路指導の教師までが「あはは、女のヒモか。まぁ言えてるかもね」などと言って笑っていたのは、さすがにいかがなものだったかと今でも思う。

 すっかり秋も深まり、冬が近づいていた。三年は部活も引退し、いつの間にかすっかり受験ムード一色で、ピリピリとした空気がフロア全体に漂っていた。

 進路指導室という、会議机がひとつに椅子が数脚あるだけのびっくりするほど狭い部屋で、進路指導担当の教師は窓を背に、足を組んで爪にやすりをかけていた。窓の外で、風に吹かれたミズナラの木から、はらはらと茶色い葉が落ちた。俺の目の前の机には、白紙の進路希望調査票が置かれていた。

 俺は受験する学科も学部も大学も、そもそも大学を受験するのかも、まだなにひとつ決まっていなかった。もうあと数か月で高校を卒業してしまうというのに、卒業後の自分のヴィジョンを、なにひとつ想像できていなかった。

「わたしとしては、とりあえずどこか受験してみてほしいけどな。村上くんは、絶対に無理ってほど成績が悪いわけでもないし」

 進学率って学校のパンフレットとかにも載るからさと、まったく悪びれることなく、進路指導の教師はあっけらかんと自分の都合だけを主張した。

「とりあえずとか、そういうのでいいんスかね?」

「いいんじゃない? だいたいみんなそんなもんよ。すでにやりたい仕事が定まってるなら就職でも専門学校でもいいんだけどさ、なにも決まっていないならなおのこと、大学には行っておいたほうがいいもの。あと四年、自分探しの時間を稼げるから。モラトリアムってやつ。とりあえずで大学行ってから考えれば?」

「はあ」

「適当にどっか受験してみて、失敗したらそのときはそのときでまた考えればいいわよ。どうしてもどうにもならなかったら先生のヒモにしてあげるから、気楽にやんなさい」

 そんな進路指導の教師の適当な言い草を真に受けたわけではないのだが、とりあえず大学行ってから考えるか、失敗したら失敗したでまあそのときだ、みたいな気楽なかんじで適当に受験したら、当然のように入試に落ちて落ちて、俺はみごとに無職のプーになった。


 みんな真剣に本気でやっているのだ。気楽に適当にやってていいわけがない。


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