第一章 2015年10月~2018年4月
1. スプートニクみたいな女の子
「お姫さまみたいな生活を送るのが夢なの」
「たとえば、具体的には?」
俺が
「朝ゆっくり起きて、のんびり朝ごはんを食べて、顔を洗って歯を磨いたら、ひかえめな音量でお気に入りの音楽を流しながらソファーに寝そべって本を読む。窓がおおきい陽当たりのいい部屋で、お金があるから、本棚には文庫本じゃなくて単行本がずらりと並んでいる。目が疲れたらそのままウトウトとお昼寝をする。夕方まえに起きて、レギュラーコーヒーをドリップして、気が向いたら晩ごはんの
「お姫さまは、晩ごはんの支度はしないんじゃない?」
俺が言うと、怜奈は首を振って「もちろん、それは義務ではない」と、答えた。
「わたしが晩ごはんの支度をしていなくても、旦那さまは文句を言わないの。それならそれで出前をとったり、近くのレストランに食べに出掛けたりする。わたしは
「なるほどね」
俺は頷いた。でも、それは『お姫さまみたいな生活』と形容するには、ずいぶんとひかえめな夢のように思えた。怜奈は顔が綺麗でスタイルも良くて、あまり人の悪口を言わないいい子だから、その程度のささやかな夢を受け入れてくれる男は普通に現れるだろう。手が届く範囲の、現実的な夢だ。
でっかい夢を描くのにも才能と体力がいる。子どもの頃から不景気や親の失業や、社会の先行きの暗さなんかにすっかり慣らされている俺たちは、でかい夢を思い描けるだけの欲望をすっかり削られてしまっていた。最初から欲望しなければ失望もしないで済む。夢は現実的で、ささやかなほうがいい。
俺たちが生きているのは、そういう時代だ。
☟
俺と怜奈が付き合いはじめたのは高校一年生の秋のことで、初対面からそこに至るまでに俺たちの間にどういう関係性の推移があったのかはあまり覚えていないのだが、その頃には、ことあるごとに一緒にいるような間柄に自然となっていた。怜奈はかわいくて
ただ、その『好ましい』がどの水準のものなのかまでは、俺にはうまく把握できていなかった。俺が人の心の
だから、第一校舎と本校舎に挟まれた非常階段の踊り場で、不意に怜奈が「付き合おっか」と言ったときには、俺はちょっとびっくりした。
俺は立って手すりに肘をつき、ピルクルを飲んでいた。怜奈は非常階段に腰掛けむこうを向いていたから、どういう表情でそれを言ったのかは分からなかった。
ふたつの校舎に切り取られた狭い空は高く青く、俺は第一校舎がつくる影の中から、その
二秒。
「うん。付き合おう」
俺は答えた。すこし動揺してはいたけれど、それで選択を誤ることはなかった。素早く的確に、正しい応答をした。あのときの俺は偉かったと、今でも思う。
怜奈がこちらを振り返り、一瞬、驚いたように目を見開いて、それから笑った。
「あそう。じゃあ、よろしくね」
怜奈が言った。そのようにして、俺たちは付き合うことになった。
俺はもともとそれほど社交的なタイプではないのだが、怜奈は友達が多い子だったから、高一の秋から高三の夏まで、俺も怜奈に連れ回されるかたちで一通りの青春な通過儀礼てきイベントを滞りなくこなすことになった。
クリスマス。初詣。文化祭に体育祭。夏のプールと花火大会。どれもこれも、きっと俺ひとりだったら、すみっこのほうで
「村上くんって、こういう系のイベントごととか、総じて馬鹿にしてるタイプかと思ってた」と、怜奈も言っていた。
「まあ、うん。そうかな。そういう部分があったことは否めないと、自分でも思う」
俺が返事をすると、怜奈は笑った。
「踊るアホーに見るアホー。同じアホなら踊らにゃソンソン、でしょ?」
実にその通りだ。なんだって、中に飛び込んでみればそれなりに面白い。少なくとも、斜に構えてすみっこで興味ないですってポーズでいるよりは。
二度目のクリスマス。初詣。文化祭と体育祭があって、高三の夏の花火大会の帰り道、俺たちは別れた。
☟
「村上くんのことは好きだけど」と、
「でもわたしたち、このままだと、どこにも辿り着かない気がするから」
その通りだろう。俺は自分が怜奈に、怜奈が望む『お姫さまみたいな生活』を提供できるとは思えない。たとえそれが、相対的に言えば実現可能性の高い、ささやかな夢だったとしても。
真面目に努力しさえすれば、凡庸な人間でもちいさな幸せに手が届く。そんな夢のような古き良き時代はもう、過ぎ去ってしまったのだ。俺たちは先の見通せない暗闇の中を、なにも見えないまま、どこかに向けて進むしかないし、目指す先がちゃんと前であるのかすら確信が持てないでいる。闇雲に頑張って、後ろ向きに全力疾走している可能性だってある。
おまけに俺は、なにかに対して闇雲に頑張るという経験すら、生まれてこのかたしたことがなかった。なにごとにも熱意がないのだ。凡庸にすら届いていない。でっかい夢どころか、個人的なちいさな夢を描くことすらできない、ぼんやりとした人間だ。
怜奈はしばらく、俺の回答を待つみたいにじっと下駄の鼻緒を見つめていたけれど、俺がなにも言えずにいると「それじゃあね」と言って、ひとり歩きだした。
去っていく怜奈の後ろ姿に掛ける言葉を、そのときの俺はなにも思いつけなかった。今なら――
今ならたぶん、笑って「ありがとう」と言える気がする。
ありがとう。怜奈のおかげで、俺の高校生活は、俺が本来送るべきだったそれよりも、ずいぶんと華やかで楽しいものになったんだろう。
結局、そのあと高校を卒業するまで、怜奈とは一度も話をする機会がなかったから、今でもお礼は言えてないままだ。
言えなかった言葉ばっかりが、川底の泥みたいにどんどん溜まっていく。
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