第7話 無理

 翌日、水曜日の放課後。

 わたしと妃乃は、妃乃の家の最寄り駅近くにある小さな公園に来ていた。午後四時過ぎの現在、広場で戯れる子供たちはいるけれど、三つ並んだベンチに座っているのはわたしと妃乃だけ。

 しかも、妃乃と隣同士。かつ、距離が近い。

 うう……ほんのりと香水の甘い匂いがするよぅ……。呼吸をする度に妃乃に吸い寄せられそうになるよぅ……。

 こっちがくらくらしている間に、妃乃はわたしがスマホに送りつけた青春物の短編小説を読み進める。五千文字ちょいの話なので、読むのに十五分もかからない。書くのは三時間かかったけど。

 そして、それを読み終えた妃乃はにっこり笑う。


「わたしに見せるために、大急ぎで書き上げた作品って感じね」

「なんでそうなるの!? 全然そんなんじゃないし! 前々から書いてた奴だし!」


 嘘だけど! 昨日大急ぎで書いた奴だけど!


「普段書いてるエッチな奴はとても見せられないから、急遽こうやって全年齢向けの短編を書いたんでしょ?」

「違う! 違うって!」


 見せられないのは、エッチなものだからじゃなく、百合物だから!


「なら、どうして短編なの? 普段書いている長編を見せてよ」

「それは無理!」

「ってことは、やっぱりわたしの予想が当たってるわけだ」

「当たってない! 全然当たってない!」

「必死なのが怪しいなぁ」

「わ、わたしは怪しくないっ。わたしを怪しいと思う妃乃の心が、古びた十円玉のように曇っているだけ!」

「私の心は十六年ものだから、多少の曇りはあるかもねぇ」


 くすくす。妃乃が愉快そうに笑う。

 全てを見透かしているような目が気に入らない。

 なんでこの子は、素直にわたしの嘘に騙されてくれないのか。

 意地悪だ。性格悪い。

 ……でも、好きだ。

 本当は、わたしの心、全部見せつけてやりたい。

 そして、わたしの心を全部、丸ごと受け入れてほしい。

 ああもう、妃乃の前では心がぐちゃぐちゃだ。


「ねぇ、瑠那」

「……何?」

「先にこっちを言うべきだったね。瑠那の書く物語、面白いよ」


 不意打ちみたいに、そんなこと言わないでほしい。泣くぞ。本気で。


「それは……ありがとう」


 妃乃に、面白いと思ってもらえた。

 わたしのファンだと言ってくれる人もいるけれど、無数の誰かより、たった一人、妃乃に褒められるのが途方もなく嬉しい。

 心がかっと熱くなって、それが体中に伝播する。


「顔が赤いね。風邪でも引いたの?」

「……うん。そう。これは、そういう奴」

「徹夜をさせてしまってごめんね?」

「徹夜まではしてないから!」

「徹夜までは、ということは、やっぱり昨日頑張って書いたのは確かなわけだ」

「や、ち、違う! 全然違う!」


 なんだこの探偵みたいな女は! 見透かすな! わたしの濡れティッシュみたいな心を見透かすな!


「もしかしてだけど……瑠那って、天然?」

「違う! 断じて違う!」

「そういう子って、自分ではそうと気づかないものだよね」

「だから、違うって!」

「ま、そういうことにしておいてあげてもいいけどね?」

「……違うもん」


 わたしがふてくされた態度を取ると、妃乃が申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「ごめんね。ちょっとからかい過ぎちゃった。とにかく、瑠那の作品を読ませてくれてありがとう。面白かった」

「……うん。そう言ってもらえると嬉しい」

「瑠那はすごいね。小説を書くってとても大変なことなのに、それを何年も続けているんでしょう?」

「……大変っていうか……もう書くのが習慣になってるっていうか。苦労してる感覚はないかな」

「そう……。瑠那は将来、小説家になるの?」

「自分の作品が本になったら嬉しい。でも、専業でなろうとは思ってない。今は兼業作家が普通だし、他の仕事をしながら、小説を書けたらいいとは思ってる」

「へぇ……。しっかりしてるんだね。小説家を目指す人って、専業になりたい人ばかりだと思ってた」

「わたしも詳しくは知らないけど、専業は厳しいらしいよ。それに、専業にならなくたって小説は書き続けられる。読者に楽しい時間を過ごしてもらえる。……自分の伝えたいことも、伝えられる」

「瑠那の伝えたいことって、何?」

「それは……」


 わたしの伝えたいこと。あるいは、願い。

 わたしたちみたいなのは、リアルに恋愛することは難しい。だとしても、ちゃんと幸せな恋ができるときが来ると願っている。

 わたしが一番に、願いは叶うと信じたい。

 そして、読者にも、そう信じてほしい。

 ……なんて。そんな願いがありつつも、わたしが一番不安で、信じられていないのだから、机上の空論でしかなくて、偽善的で、無責任。


「皆が幸せになれればいいのにって、願ってる」


 遠回しに、ぽつりと呟く。


「綺麗だね」

「そうだね。綺麗事だよ」

「……そんなことは言ってない」


 わたしのひねくれた言葉に、妃乃がむっとして、苛立った声で続ける。


「私は、瑠那のことを綺麗だって言ったの」

「……綺麗じゃないよ。綺麗事を言うだけの、偽善者だよ」

「偽善者は、綺麗事を言って人を騙し、欺くもの。でも、瑠那はそんなつまらない存在じゃない。瑠那はただ、不安を抱えながら自分の願いを伝えているだけ。心の奥にあるのは、真に人を想う気持ち。偽善者とは全然違う」


 妃乃の言葉が、すっと心に沁みていく。

 わたしの子供っぽい善性を、妃乃は認めてくれるのか。

 ……嬉しいな。他の誰でもない、妃乃に認めてもらえるのが、とても嬉しい。


「……ありがとう。そう言ってもらえると、少し元気出る」

「そう。良かった」


 妃乃がスマホを置き、わたしの右手を両手で包む。ふぇ!? なんて思わず呻きそうになるのを必死でこらえる。

 思わず妃乃の顔を見ると、真剣な眼差しがわたしを捉えている。


「瑠那は素敵な人。もしかしたら、強い人ではないのかもしれない。だけど、瑠那は素敵な人なんだよ」

「あ、ありが、とう……」


 体温が無駄に上がっていく。体温を測ったら、ベッドで大人しく寝てろと厳命されるくらいにはなっているはず。


「間違えないで。弱さを抱えているからって、その人のやることなすこと、全てが無価値になるわけじゃない。小さな願いが人を動かすことだってある」

「……お、おう。……妃乃、急に熱いね」


 視線をさまよわせながら指摘すると、妃乃が顔を桜色に染める。


「その……瑠那が変に自分を過小評価するものだから、つい……」

「わたしは、ただ物語を書くだけだから……。表立って何かをするわけじゃないし……」

「物語は人を強くするんだよ。漫画、小説、ドラマ、映画……そういうのに心を動かされて、人生を変える人だって大勢いる。作家自身は、表立って行動することがなかったとしても」

「……そっか。それもそうだね」

「ということで、瑠那は今後、自分を卑下するの禁止。ささやかであっても、自分は立派ことをしているんだって認めてあげて。あ、これ、私からの命令だから。従わなかった場合、瑠那が小説を書いてること、皆にばらすから」

「それは、ずるい……」


 わたしの弱みを、そんな風に利用するなんて。

 妃乃の前では、下手に落ち込むこともできないじゃないか。

 ……本当に落ち込んだときは、きっと余計なことを言わず、慰めてくれるのだろうけれど。


「私はずるくて、性悪なの。私に目を付けられちゃって、瑠那は災難ね」


 妃乃が微笑む。その笑顔には、木漏れ日のような柔らかさと眩しさある。ずっとその光の中で、緩やかな風を感じていたい。


「……さいあくだ」


 嘘だ。妃乃が側にいてくれることに、幸せしか感じない。

 素直にそう言えばいいのに。

 そう、言える関係だったら、良かったのに。


「ご愁傷様。ねぇ、瑠那。今は無理でも、いつか、ちゃんと瑠那の作品、読ませてよ」

「……無理」

「ここは頑なだなぁ」

「無理な物は無理」

「仕方ない。もう少しじっくり攻めるか」

「攻めるのをやめてよ」

「やーよ。私、諦めないから」

「……どんなことされたって、絶対見せない」

「いつまでそう言っていられるかしらね?」


 正直、ずっと隠しておける自信はない。

 だって、本当は見てほしいんだから。

 見て、わたしを受け入れてほしいんだから。

 こんな気持ちは全部押し隠して、わたしは妃乃から視線を逸らすばかり。

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