誰かの為の物語
神崎郁
誰かの為の物語
ゲコゲコ、僕を焦らせる音がした。チクタクチクタクと脳内の秒針は絶えず動き続けている。
深夜 だというのに近くの田んぼでは蛙が大合唱を始めていて、それが余計に僕を憂鬱な気分にさせた。
カタカタとキーボードを叩く音、僅かに部屋がきしむ音。そういった音のすべてを今の僕は嫌悪している。
孤独の音が嫌いだ。 焦燥感に襲われ、つまらない作り話が続々と頭の中で生まれては消えていく。そういうものだ。
つまるところ、僕はただの凡人でしかなかった。 やはり、駄目だ。こんなのじゃ誰の心も動かせやしない。17年とそこそこの人生で人の人生を変えられるものが想像できるはずがないのだ。
やめだ。そう合図を働き続ける右脳と手に送った途端、とてつもない脱力感が僕を支配した。
カタカタカタカタ......今もなお、いくつもの物語が生まれては消えていく。これは小説に限った話で はないのだろう。削除も上書きもできない事実として。そう思うと嫌悪していた雑音がとてもいとおしく思えた。
駄目だな、僕は。決めたなら自分を貫けよ。そう言い聞かせても体は動いてはくれな い。けど、明日はきっとこんな世界を少しだけ綺麗だと思えるのかもしれない。所詮一過性だろうけど。
明日は休日だ。今日はだめだったけど、きっと性懲りもなく僕はノートパソコンとにらめっこを続 けるのだろう。それが僕の物語だった。
届けたいんだ。どこにいるかもわからない君に。ずっと残り続ける7年前の記憶を僕は思い返した。
昔の僕は他人が嫌いだった。今も大して変わってはいないけど。本当に酷かった。この世全て のあらゆる音が不愉快だった。
そんな中、教室の隅で授業中も休み時間も鉛筆をノートに走らせている女子がいた。その音は、嫌いじゃなかった。
シンパシーでも感じたのか、精一杯の勇気を出して、僕はその人に話しかけようとした。珍しく休み時間に席を立って彼女の席が眼前に来たところで静止が入る。
「話しかけないで」
そう言って彼女が指差したノートに目を向ける。そこには走り書きとでもいうのだろうか、お世辞にも上手とは言えない文で沢山の文章が綴られていた。
彼女は、小説を書いていた。その内容の全貌は一目見ただけでは分からないけど、それは間違いなく小説で、僕は周囲の人間に対して初めて感嘆の声を漏らした。
「すごいな、それ」
そう言うとむずがゆそうに小説を綴っていたノートで顔を隠す。
僕は周囲の人間は嫌いだったけど小説は好きだった。僕が読んでいたのは海外の児童文学 で、読んでいる時だけは時を忘れられた。だから、素直に彼女を尊敬したのだ。
「見せてくれないか?」
「笑ったりしない?」
こうして僕は彼女と出逢った。
会う約束をした僕らは休日の公園で約束どおり会った。彼女はあって早々僕に自分の小説を読 んでほしいといった。
彼女の小説は特別文章が上手なわけではなかったけど熱量があって何より優しかった。ストー リーラインは王道だけど、誰かに希望を届ける物語だと思った。そこに込められているメッセージは一つだけ。
「世界はきっと君に寄り添ってくれる。だから安心して」
綺麗事かもしれない。だけどそれは純粋な祈りで、彼女の思いだった。世界は本当は美しいん だよと。人がいなくなっても世界は続くから。
どうして物語を綴るのかを聞くと、届けたいのだと彼女は言った。居場所のない誰かに。私がそうであるようにと。
シンパシーを感じた自分を恥じる。僕はその生き方と考え方を素敵だと思った。彼女の小説が たくさんの人に届いてほしい。そう思った。
僕は彼女とたまに話すようになった。周りからは奇異の目で見られたけど、それでいいと思った。
彼女はその一か月後に転校した。両親の仕事の都合で頻繁に引っ越すらしい。 暫くして手紙が届いた。その手紙にはいつものような走り書きで大体こんなことが書かれていた。
あなたが初めてお母さん以外で小説を読んでくれた人だと前置きした上で、本気でプロを目指す。そう彼女は紙面で宣誓した。
手紙の最後にはこう書かれていた。誰かに届けるためなら孤独は嫌じゃなかったけど、君の書 いた小説が読みたいと。そういえば彼女は僕の価値観をほめてくれていたっけ。君は私とは違っ た小説が書ける、誰かの黒い感情に直接寄り添う小説を。それを読みたい。それで手紙は締めくくられた。
それは彼女からの宣戦布告だった。
何故か――いや、わかりきっているか。きっと彼女の紡ぎだす物語に憧れていたのだろう。負けられない。そう思った。
僕は時間を見つけては小説を書くようになった。プロになるまでは彼女に会わない。そう決め た。
ボーっとしていると朝になっていた。昔に比べると丸くなったなと思う。受け入れられたのかもし れない。小説を書くことを通して色々なことを。
重い腰を上げてもう一度画面に向かう。来月締め切りの新人賞に何とか間に合わせないといけない。再び、孤独との戦いが始まった。
その 三年後。新人賞を受賞した。大賞ではなかったけど誰かに届けられるなら十分だ。二年前にデ ビューした彼女にようやく追いつける。
今日はいよいよ授賞式だ。朝から電車に乗って出版社が用意した会場に向かう。そして、そこには彼女がいた。やっと、届けられる。
「久しぶりだな、先輩」
そう声をかけると彼女は笑った。
「負けられないよ。後輩作家さん」
ここはまだスタートラインでしかない。僕の物語はここから始まる。
誰かの為の物語 神崎郁 @ikuikuxy
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