1-2 最下層のピエロ


***


 メイクを落としたあと、ステージ裏に向かった。


 ピエロは前座で芸をする以外に裏方の仕事がある。他の演者の補佐、そして終演後の掃除だ。


 このサーカス団でのピエロの扱いなんてひどいもんだ。公演後、隅々まで掃除するよう言いつけられている。なかでも下っ端のピエロは一番大変なステージの掃除。広いステージと客席に散らばった紙吹雪や銀テープを回収しなければならない。


 適度な人数で、それぞれがさっさと動けば、すぐに終わる。


 すぐに終わるのだけど……。


「はぁ……」

 時間がかかるだけならまだいいが……。


 長い廊下を歩き、ステージ裏まで来た。あたりは暗くて狭い。そしてほこりっぽい臭いがした。


 ステージに上がるための階段を上ろうとしたとき、すぐそばにある物置部屋の扉が勢いよく開いて、いくつもの手が、ぼくをその中へ引きずり込んだ。


「……っ!」


 そのまま壁に向かって放り投げられた。背中を強く打ち付けて、痛みがじわじわと広がっていった。


「遅ぇよ、カイ。着替えんのにどれだけ時間かかってんだよっ!」

 おなかに蹴りを入れられた。


「うっ……」

 痛い……。


 見上げるとそこには2人。


 そして奥に積み上げられている木箱に座っているやつが1人。


 いつものバカトリオだ。


 このトリオもぼくと同じ、下っ端のピエロだ。先輩ピエロや他の演者にこき使われる鬱憤をリウを筆頭にこうしてぼくを殴ることで晴らしている。毎回終演後、後片付けの時間に。


 二人の足が幾度となくぼくを踏みつける。


 痛い。痛い。痛い。


 自分よりも体格の良いやつらに蹴られ続けるのは相当こたえる。初めの頃はぼくも抵抗したり助けを呼んだりしていた。


『やめて!』

『どうしてこんなことするの』

『誰かたすけて!』


 しかしその声が誰かに届くことはなかった。それどころか、抵抗すればするほど、こいつらは面白がって、さらに痛めつけてくる。


 だからぼくは抵抗をやめた。やつらの気の済むまで、じっと耐えることにした。


 だけど、誰かに助けてほしいことには変わりない。ぼくは扉がある方をちらっと見た。


 この扉を隔てた向こうからは、何人かの足音が聞こえてくる。ぼくを殴る音もきっと聞こえているだろう。


 しかし、その扉は閉じたまま、決して開かれることはない。


 みんな気づかないふりをしている。下っ端のピエロがやってることだもの、好き好んで自分から首を突っ込む者はいない。誰だって、厄介ごとはごめんだ。決していじめに荷担することはないが、助けてもくれない。


 いまだにいじめに気づいていないのは、ジュリと団長だけだろう。


 ジュリは真っ直ぐで正義感がとても強いが、少し鈍感で、そういういじめの空気を感じとれずにいる。ぼくが助けを求めれば、きっと力になってくれるだろう。でもそれでいじめがなくなるとは限らない。花形のジュリに咎められ、リウたちは腹を立てるかもしれない。そうなれば、現状より悪化することは目に見えている。


 団長はというと、ぼくらピエロは団長と関わる機会なんて滅多にない。団長に告げ口する者もいない。ゆえにぼくのこの現状に気づくことはない。ぼく自身も団長に助けを求めようとは思っていない。

 

 2年前……ぼくが8歳のとき、両親に捨てられあてもなく彷徨っていたところをここの団長が拾ってくれた。優しい団長はぼくをサーカス団の一員にしてくれた。その日から、ぼくはここのピエロとして働いている。


 団長には感謝している。幼くて小汚いぼくを団員として迎えてくれたのだから。団長が拾ってくれなかったら、きっと今ごろぼくは………。


 だからこんなことで、団長を煩わせたくなかった。


「おい、なに考えてんだよ!」

 ぼくがぼんやりしていたからか、こっちに集中しろと言わんばかりに、一人のピエロが今までで一番大きい蹴りを入れた。


「ゲホッ、ゲホッ!……っ」

 冷たい床でうずくまりながら咳き込んだ。


「ジュリの相棒だからって調子に乗ってんじゃねぇぞ!」

 もう一人のピエロも思いっきりぼくを蹴り上げた。


「くっ………」

 痛い。思わず出た涙で視界がゆがむ。あばらにひびが入ったかもしれない。助けなんてこない。わかってはいるが、見て見ぬふりをされることがこんなに哀しいことだなんて、知らなかった。


 あふれ出る哀しみで涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。こいつらの前ではもう絶対に涙は見せたくなかった。


 肩で呼吸を整えていると、木箱に座って黙って見ていたリウが口を開いた。


「なんか、おもしろくねぇな」


 リウはこのトリオのリーダー。この中で一番歳上で、力も強い。いつもリウが中心となってぼくをいたぶってくるのに今日はまだ一切手を出してこない。


「おもしろくないって、何が?」

 一人が答える。


「前だったら、すぐにピーピー泣いて助けを求めたのに、最近じゃ、抵抗すらしねぇ。これじゃ殴り甲斐がない」

 だって、抵抗したら、もっとひどくするもの。


「お前を殴るのももう飽きたな」

 だったらいますぐやめて。そう訴えかけるぼくの目を見て、リウは近づいてきた。


 ぼくは無意識に後ろに下がろうとした。しかしすぐ後ろには壁があり、逃げ場はない。


「痛っ………」


 リウはぼくの髪を掴んで引っ張った。プツ、プツと何本か髪が抜ける音がした。


 リウはぼくの顔をマジマジと見ると、何かひらめいたように「そうだ」と言い、右側の口角だけ上げて、ニヤッと笑った。


 その顔を見て、ゾッとした。


 こいつがこの顔をするときは、良くないことを思いついたときだ。


「お前さ、団長の部屋から金盗んでこいよ」

「なっ」


 今度はどんなひどいことをされるのか、内心怯えていたが、リウの口から出たのは意外なことばだった。


「団長の部屋に、金庫があるんだ。その金庫には今まで儲けた金が全部入ってる。それを盗ってこい。金庫の鍵はナンバーじゃなくシリンダー錠だから、団長の部屋を探せば鍵があると思うぜ」

「待って、いやだ!そんなの……」

 そんなこと、できるわけないじゃないか。


 団長には恩がある。団長がぼくを拾ってくれなかったら、おそらく今ごろ死んでいただろう。

 そんな……団長を裏切るような真似、できるはずがない。


「いいからやれって言ってんだよ!」

 そう言いながら、ぼくの腹を蹴った。こうすればぼくが黙ることを知っているから。


「うっ………」


「いいか、実行は明日の公演後だ。公演後、団長は出演者とミーティングするから、その時間を狙え。もし、しくじったりしたら……」


 リウはぼくの髪をもう一度掴んだ。そして空いている方の手で、懐からサバイバルナイフを取り出し、それをぼくの顔面につきつけた。


 頬に刃の冷たい感触が伝わる。


「こいつでお前の顔に一生消えない傷をつける」

 サッと血の気が引いた。

 怖くて、何も言えなかった。


 リウは床に叩きつけるように、ぼくの髪を離した。


 疲れと痛みで、すぐに身体を起こすことができず、そのままの体勢でリウを見上げた。

 そんなぼくを嘲笑うようにリウは言った。


「どうせその上にピエロのメイクをするんだ。傷の1つや2つ、増えたって別にどうだっていいじゃねぇか」

 いいわけないだろう。


「いいか、カイ。このことは誰にも言うんじゃねぇぞ。明日だからな。忘れんなよ」

 それだけ言うと三人は部屋から出て行った。


 どうしよう。

 団長の部屋からお金を盗むなんて、そんなのできるわけない。そんな、恩を仇で返すようなこと。でも、やらなきゃ、ナイフで顔を切られる。


 きっと、今までで一番痛い。

 怖い。


 お金を盗むなんて絶対に上手くいくはずがない。金庫の鍵から探さないといけないのに。それをするだけで、団長が帰ってきてしまう。


 この絶望的な状況に、思わず自分の身体を抱きしめた。


 誰かに相談したい。助けてほしい。守ってほしい。もうぼく一人ではどうすることもできない。

 

 でもぼくの声は誰にも届かない。


 ぼくは、これほどまでに、明日が来てほしくないと思ったことがない。

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