2-1 最悪の事態

「じゃあカイ、今日もよろしくね」

 ジュリが反対側の足場から手を振った。それに答えるようにぼくも手を振る。手を上げたときに先ほど殴られた腹部がズキッとした。


 ぼくとジュリ以外、誰もいないステージの上、ぼくらはステージの足場に向かい合うようにして立っていた。


 今、何をしているかというと、ジュリの空中ブランコの練習だ。ぼくらは毎公演のあと、こうして練習をしている。


 ジュリがずっと花形でいられるのは、毎回公演の後に、ステージに残って自分の技を磨いているからだ。


 ジュリはここのサーカス団の誰よりも努力をしている。


 そして、なぜピエロのぼくがこの場にいるのかというと、ジュリの空中ブランコは決して一人ではできないからだ。


 ジュリは今、上からぶら下げられたブランコを握っている。


 そして足場を蹴って、勢いよく空中に出た。


 振り子のように何度かこちらとあちらを行き来する。行ったり来たりするうちに、ブランコの勢いはどんどん増す。


 そして、十分に勢いがついたとき、ジュリが大きく頷いて合図をした。


 ぼくは、ジュリが握っているブランコ同様に上からつるされたブランコを勢いよく、ジュリの方へ投げた。


 するとジュリは、そのブランコめがけて、華麗に三回転しながら、それを掴んだ。ジュリが手放したブランコは頃合いを見てぼくが受け取り、またタイミングを見計らって、ジュリの方へ投げる。それを繰り返す。


 そう、ぼくの役目は、ジュリにブランコを渡すこと。この役割に抜擢されたのは、半年ほど前。ジュリが推薦してくれた。


 今までジュリの補佐をしていた人が辞めることになって、新たに補佐役が必要になった。それで普段、仲良くしているカイに、補佐を頼みたいとジュリが言ってくれた。


 花形のジュリの補佐は、みんながやりたがる。それをぼくはジュリ本人から指命された。


 ジュリに選んでもらえたことがすごく嬉しかった。自分が誇らしかった。自分に自信が持てた。


 だけど……あいつらは、それが気に入らなかったみたいだ。


『なんで下っ端のお前が、ジュリとペアなんだよ!』

 その日を境に、あいつらに殴られるようになった。


 きっかけなんてそんなもの。今では、あいつらの鬱憤晴らしで殴られるけど、根底にはそんな理由がある。


 ジュリの練習を開始して、1時間が経った後、ジュリに名前を呼ばれた。

「カイー!」


 ステージ下を見ると、ネットの上にいるジュリが、地面を指でさした。降りてきてって言うことらしい。


 足場の奥はちょっとした小部屋になっていてそこには、小道具や衣装が乱雑に置かれている。部屋の隅に、下のステージ裏に行ける螺旋階段がある。そこを降りた。


「カイ、いつもありがとうね。練習に付き合ってくれて。今日はこのあたりで終わりにしとくよ。明日で一応、一段落つくしね」


 このサーカス団は、一つの町に半年間滞在する。半年間、劇場を貸し切るのだ。大抵、劇場は町の広場にある。その広場一帯にテントを張り、昼間に物販と大道芸で夜の公演に向け盛り上げる。


 最初の1か月の公演が終わったら、その後1か月間は休演。前の1か月で取ったアンケートをもとに、サーカスをより良いものにするために。お客さんの要望に応えるために。


 そして明日が、最初の1か月の最終日。明日が終われば、1か月の休演に入る。


 そう明日。

 明日の終演後、ぼくは団長の部屋からお金を盗まなければならない。それを思い出して、気分が暗くなった。さっき蹴られたあばらがまたズキズキし始める。


 もういっそ、ジュリに相談しようか……。相談するなら、二人きりの今がチャンスだ。


 ジュリに相談したことがバレたら、もっとひどい目に遭うかもしれない。でも、そうすれば取りあえず明日は、団長の部屋に盗みに入らなくてすむ。


「ジュリ!」

 ぼくは、ネットを外し始めているジュリを呼んだ。ぼくが呼ぶと、その手をいったん止めて、「なに?」と優しくほほえみかけてくれた。


「ぼく……」

 いじめられてるんだ、その言葉が喉元まで出かかったが、声にすることはなかった。


 やっぱり話せない………。

 公演はまだ残っている。公演前にジュリに余計な心配はかけられない。今はネットが張ってあるけど、本番はそれがない。高さ十メートルのところから落ちれば命にかかわる。明日に向けて集中してもらわないといけない。今は話すときじゃない。

 せめて、明日の公演が終わってから……。


「どうした?」

「ううん、なんでもない……」

 明日……、ぼくはジュリに相談できるのだろうか………。



***



 翌日の公演後、いつものようにまだお客さんで賑わう広場で風船を配っていた。


 いつもと同じなら、これを全部配り終えたら、劇場に戻って、メイクを落とし着替える。


 そのときに、ジュリと話せるかな……。


 でも、ジュリはいるときといないときがある。今日ももしかしたら、ぼくが戻る頃には、もうミーティングに行っているかもしれない。


 もしそうだったら、どうしよう……。


 ああ、今日に限って、風船をなかなか配り終えない。ぼくはなるべく、顔に笑みを作るようにしているが、それが逆に不気味に見えるらしい。子供たちが逃げていく。


 そしてやっとの思いで、全てを配り終えた。いつもよりも時間がかかってしまった……。たぶん、もうジュリは……。


 急いで控え室に戻ると、そこにはジュリの姿がなかった。


 やっぱりもういない。どうしよう……。


 このままじゃ、ぼくは団長の部屋から………。


 とにかく、こうしていてはダメだ。まだ希望はある。


 急いでメイクを落として、いつものジャージに着替えた。


 ジュリを探さなきゃ。


 ミーティングをするなら会議室。でもジュリはミーティングに行く前に、よくステージ前で他の演者と喋っている。会議室に行く前に、一度そこに寄って……。


 ぼくは急いでステージの方に駆けた。途中、何度も廊下を行き交う人々にぶつかりながら。


 そして、そこにいたのは……。

「あっ………」


「おう、カイ。何やってんだよ。団長ならとっくにミーティングに行ったぜ。さっさと金盗ってこいよ」

 そこにいたのはリウだった。


 なんで…?どうしてこいつがここにいるんだ?


 リウは他の二人と一緒に、ステージに散らばった紙吹雪を片付けていた。


 そうか、いつもならぼく一人で掃除をするけど、今日、ぼくは盗みに行くからそれでこいつら、代わりにやっているんだな。


 こんなときだけ、ちゃんとやりやがってと思う前に、ぼくはもうどうしたらいいのか、いよいよわからなくなった。


 だってここにリウがいるとは思わなかったんだもの。


「何やってんだよ、早く行けよ!」

「うっ………」

 リウに腰を思い切り蹴られた。その衝動でステージから転げ落ちそうになるのをふんばって耐えた。


 こうなったらもう逃げ道はない。


 行くしかない。


 ぼくは腰をさすりながら、その場を後にした。



***



 ついにここまで来てしまった。団長の部屋の前。


 もうやるしかない。だって、そうするしかないじゃないか。


 結局、誰にも助けを呼ぶことができなかった。いや、もちろん手の空いている団員はいくらでもいる。だけど、みんなぼくがいじめられているのを見て見ぬふりをしてきた人たちだ。ぼくのために行動を起こしてくれるとはとても思えない。


 扉のノブに手をかけ、ゆっくり回した。中を伺うと誰もいなかった。団長はミーティングに行っているから当然と言えば当然だが。


 扉の隙間から、そっと身体を滑り込ませ、静かに扉を閉めた。


 団長はすぐに戻ってくるつもりなのか、部屋の明かりはついていた。


 部屋は思ったよりも質素だった。入ってすぐ、部屋の中央には応接用の机とソファが並べられている。そして右手の壁側には、壁に背を向けるように団長の机が置かれている。その机の右隣、つまり、扉のある対面の壁側に飾り棚が並べられている。


 どこに金庫があるかは、リウに教えられていない。一番怪しいのは、飾り棚の一番下、大きい引き戸だろう。


 時間はあまりない。気が引けるが、やるしかない。


 部屋を横切り、飾り棚の引き戸を開けた。そこには、箱が積み重なって置いてあるだけだった。他の棚の引き戸も見てみるが、全て同じような感じだった。


 おかしい……。

 金庫が隠されている場所はここぐらいなものだ。このこぢんまりした部屋に、金庫を隠せそうな場所はもう他には……。


 もしかして、床下の一部がはがれるようになっていて、そこに隠してあるとか?でもこんな質素な部屋にそんな大仕掛けがあるとは思えない。


 どうしよう……。早くしないと、団長が帰ってきてしまう。ぼくは、一度部屋を見渡した。


 そういえば………、団長の机はまだ調べてなかった。


 かさの低い引き出しばかりで、とてもここに金庫はありそうにないが……。


 他に探す場所はない。一応、見てみようか。机の前まで行って、一番上の引き出しを開けた。そこにあったのは、ペン類と手紙のみ。閉めて、次の引き出しを開けようとしたとき……。


「何をやっているのかね?」

 その声にバッと顔を上げると、扉のところに団長がいた。


「あっ……」

「私の部屋で、何をやっているのかね」


 ああ……もう、………終わりだ。

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