第10話

 幸福な夢だった。

 幸福だった頃の、幸福だった場所で、幸福を与えてくれた人と、幸福な余韻だけを残して、幸福な夢は終わった。

 待ち構えている運命がどうであれ、全てを受け入れる覚悟ができた。

「生きる」と祖父に約束したからには反故にはできない。男と男の約束とはそういうものだ。たとえ力尽きるのだとしても、それは「もう目を開ける余力もないほど生きた末に」のことでありたいと思う。

 夜は明けようとしていた。

 たった二夜のことなのに、彼の世界は大きく変わりすぎていた。過ぎ去った一切は振り返るには重たすぎるし、人に話してもわかってもらえないことのほうが多い。第一、彼自身、咀嚼し切れていないし、わかってないのにわかったふりもしたくない。

 なぜなら、どこまでが夢でどこまでが現実なのかも結局、よくわかっていないのだから。

「今までお前は本気で生き、本気で人を愛してきたのか?そこに嘘や偽りや打算や取り繕いは本当になかったのか?」という天からの厳しい設問であり、それをちゃんと証明できるように試練を課したり、インスピレーションを与えてくれたりするために夢は訪れたのだろうか?

 残念ながら、彼は自分流を貫いてきたとは言え、そんなに胸を張れる人生は生きてこなかった。ただ、弱さや努力ではどうすることも出来ない領域を赤裸々に見せられ、自分に欠けているものがいったい何なのかがわかったこれからは、丁寧に且つ、生きたくても生きられなかった人の分までひたむきに生きていくことができるだろう。

 祖父や祖霊の願いが八百万の神に聞き入れられたのか、真矢が諦めたのかわからないが、熱はもう、微熱と言えるほどに下がっていた。意識もはっきりしているし、込み入った話や外国語での受け答えや、難しい計算でなければ普通にできそうだ。わずかに残った関節の鈍痛を堪えれば立ち上がることもできるし、にんにくか山芋でもひと齧りすれば違うところも立ち上がるくらいに回復していた。

 今まさに部屋を藍色から薄い朱に変えてゆく仏蘭西窓から入る陽光が、やけに優しく、生還を祝福しているようにも見えて、涙ぐんでしまう。当たり前に朝が訪れることがなぜこんなにもうれしいのだろうか?

 まるで生まれた日の朝から「元気ですか?」とメールが届いたみたいな空が過去に繋げてくれる朝。

 天使だった頃の記憶を想い出しそうになる朝。

 いつものように冷蔵庫を開けて、いつものようにエビアンを呑む。

 水はこんなに冷たく、かすかに甘みの残るものだったのか、と種や仕掛けを探すようにペットボトルをまじまじと見詰める。まるで水とは一里先に甕を頭に載せて汲みに行くものである未開の地域で生まれ育った子供のように不思議な気分で。

 いつものようにPCを立ち上げ、いつものように仏蘭西窓を開け、空気を入れ替える。

 いつものようにリステリンで口を漱ぎ、いつものようにバスタブにお湯を張る。

 いつものように髭を剃り、いつものようにコロンを叩く。

 リリックにもならないようなそんな当たり前のことを当たり前にできることに感謝したくなる。これから起こりえるもの全てのこととこれからで会う全ての人にもきっと彼は「ありがとう」を言うだろう。

 立ち上げたPCでエクスペディアにアクセスし、来年の清明節の台湾行きの航空券を探す。LCCならば二万円台であるが、発着時間がいずれも早朝便や深夜便なので、いつものように羽田発の中華航空を選ぶ。ついでにプラス五千円ほど出せばタイにも行けるようなので、あまり再訪したい国ではないが、カオヤイに眠る真矢と国分さんを弔い行くことにして、名前や住所や生年月日やパスポートやクレジットカードの番号と有効期間を入力し、雲の欠片ひとつない晴れ晴れとした気持ちで「ポチ」っと申し込みボタンをクリックした。

 これで夢で会った人たちとの約束は全て果たせるはずだ。

 生きている人たちとの約束はその後と言うことになるが、手遅れにならないように胸に刻みこんでておこう。

 死を彼岸にあるものではなく、伸ばせば手が届くほどの身近に感じたことで、死生観だけではなく、文学観が変わったのだとしたら、また小説を書くことが出来るかもしれない。書き方はすっかり忘れてしまったが、あの夢の中で感じたパトスが新しい何かを書かせてくれるかもしれない。原稿用紙を前に展開される世界がどんなものになるのかはわからないが、ゆっくりでいいので表現していけたらと思う。

 見上げた空には飛行機雲が架かり、それは、この空がどこまでも続いているのと同じように彼の寶島である台湾へと繋がっているようにも見えた。

 彼の地に眠る祖父が繋ぎ、再生してくれた命で今度はどんなストーリーを紡いでいこうか。或いは、紡ぐべきなのか?

 今はそれが楽しみであり、早くダイスを転がして、その目に一喜一憂したい。

「阿公。多謝(おじいちゃん、ありがとう)」

 彼は、台湾の方角に向かって、照れくさそうにエビアンで祝杯を挙げた。

 最後の最後に辿り着いた無形の寶に埋もれたこの寶島にて。




                                       了

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寶島 野田詠月 @boggie999

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