第9話

 深い緑と木々と雨の匂いをゆっくりと吸い込む。

 その空気は異邦に住む親戚に会ったような懐かしさと親しみを感じる。亦、止む気配すら見せないが、陰鬱さと自己主張が控えめな雨も好ましい。

 東屋の前に立つカジュマルの木。

 ウーロン茶のCMにでも出てきそうなフォトジェニックな風景。

 それを「既視感」と言うと彼は幼少時代の記憶を自ら否定してしまうことになる。それは涙ぐんでしまうほど彼の中では普遍な風景であって、夢と旅の終焉にふさわしい場所のように思えた。

「天母公園か」

 いつも大好きな祖父に連れられて来た生家の近くの坂の上の公園。生家の近くと言ってもかなり長く、急な上り坂を登るので、ここを近所と思ったことは一度もなく、同年代よりも足腰が丈夫なのはそのおかげだと信じて疑わない。

 この東屋で祖父は、走り回ったり、カジュマルの木に登ったりするやんちゃな彼を気にかけながらも、日課のように短波の入る小型ラジオでNHKの国際放送を聴きながら、聯合報を精読していた。大相撲の場所中になると、相棒は聯合報から紹興酒に代わっていた。贔屓の琴風関が勝つとことのほか機嫌がよく、そんな日は帰り道で「ばあさんには内緒だぞ」と肉粽や胡椒餅をご馳走してくれたものだ。その影響で彼は、いまだに佐渡ヶ嶽部屋の力士には無条件に熱い声援を送ってしまう。

 彼は、雨をいとおしそうに掻い潜り、祖父の指定席に座る。

 何年ぶりだろうか?

 あの頃の自分くらいの息子がいてもおかしくない彼は、祖父の目線で雨の彼方に少年の自分を探し、目を細める。三年一昔の勢いで目まぐるしく発展してきた台北の街に対して、緑多く、四季ごとに咲く花も麗しく、芳しいこのあたりの風景はあまり昔と変わっていない。どんなに遠く離れていても、いつまでも変わらぬ故郷を持てることは、きっと誇ってもいいことなのだろう。

「おや?日本の方ですかな?」

 東屋に続く階段をこうもり傘をさして、上ってくる老人の声に思わず、振り向き、二度観三度観し、それが二十年前に亡くなった大の日本贔屓の祖父であるとわかると子供みたいになりふり構わず、「阿公(おじいちゃん)!」と叫んだ。

 晩年になっても若々しく、多少、薄くなりながらも髪は黒々とし、血色もよかった祖父は、白いブルゾンに紫のセーターにジーンズ姿で身なりも御洒落だ。ただ彼の知る祖父と違うところは、雨のためかサングラスをかけていないのと、今日は聯合報もラジオも持参していない。天母のそごう帰りにふらっと立ち寄った観光客ではなく、それが初孫である彼だとわかると、まるで今朝別れたみたいな気楽さで「足腰が立つうちはよく来たんだがね。年を取るとどうもいかんな」と優しい目をして笑った。

「阿公好。好久不見了(おじいちゃん、久しぶり)」

「天佑。日本語で喋りなさい。台湾語はいいが、シナ語は好かん」

 声こそはしわがれて、少し不満げだが、うれしくて仕方なさそうな顔が性格の善良さを物語っている。そうなのだ。彼は、その無償の笑顔に囲まれ、その暖かさに育てられてきたのだ。

「どうした?顔色が悪いな。また雨が降ってるのに傘をささずにお外で遊んで風邪でも引いたかな?」

「僕をいくつだと思ってるんだよ?」

「お前はいくつになっても可愛い孫だよ。『三つ子の魂百まで』などとと言うが、そんなに雨に濡れるのが好きなのかね?お前は変わらんのう」

 乱暴に髪を撫で回し、顔をくしゃくしゃにして笑うと、祖父はブルゾンのポケットからサントリーの角の小瓶を取り出し、「お前もやるんだろ?あったまるぞ」とぶっきらぼうに彼に差し出した。そういえば「日本統治時代は角やアサヒビールがそのへんで気軽に飲めたもんだ」とよく懐かしがっていたのを思い出した。紹興酒なんて征服者である大陸の酒だ。本当はこっちが飲みたかったんだろうなぁ、と想いを馳せながら一口飲み込むと苦さと熱さが炎のように喉を灼き、咽そうになった。

「本当はばあさんの作った蛋餅を持たせてやりたかったんだが、あいつはまだ生きとるからな、これで勘弁してくれ」

「いいや。おじいちゃんと酒が飲めるなんて、なんかうれしいよ。ありがとう」

「そうか、うれしいか。おう。それやるから全部飲め。儂はこっちをやるから」

 祖父は胸ポケットからゴールデンバットを出して、咥え、しゅっとマッチで火をつけ、角瓶を呷る彼を頼もしげに思いながら紫煙をくゆらせた。

「ビールを飲ませたら『苦い』と泣きだした坊主が大きくなったもんだな」

「もう三十六だよ」

「まだ三十六じゃないか。四十、五十、六十と人生は否応なく続くぞ」

「だといいんだけどね。現実世界は……」

「そのことか。うむ」

「知っていたの?」

「寿命の蝋燭を新しいものと替えるように昨夜から必死で頼みこんではいるんだが、お前を呼び寄せようとしている女が泣いて癇癪を起こすもんで困っておるんだ」

「真矢が?」

「今日日の日本のおなごは気が強くてかなわん。皆、ああなのかね?大和撫子が聞いて厭きれる」

 偶然などはない。祖父は何もかも承知で彼を想い出の地へと導き、ここまでの徒労や苦痛を労い、脈々とした血の繋がりを絶やさないように自らもあらゆる手を尽くそうとしているのだ。

 案の定、昨夜からの原因不明の発熱は真矢の思し召しだった。それにしても嘗ての恋人を直情でこんなふうに生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰めるなんて、深い同情を寄せると同時に、どうしょうもない激情も覚える。第一、恨まれる筋合いもなければ、道連れになる筋合いもない。

「どんなに親不孝で、出来が悪くても祖霊はみんなお前を応援しておるからな。だからもう一寸だけ辛抱してくれんか。必ず助けてやるから」

 心強い言葉がしみじみと骨髄にしみる。それはこのところずっと鬱として晴れなかった心にもじわじわと染み渡り、心に巣食っていた暗さやシニカルな感情が浄化されてゆくようだ。勿論、彼はその言葉を信じ、己の名前でもある「天からの助け」を信じるつもりでいる。万が一のことなど考えまい。それよりも大好きな祖父との逢瀬を思いっきり楽しみたい。このところやたら死と隣り合わせだったものだから、やはり、あちらの世界のことが気になる。

「おじいちゃん。そっちは楽しい?」

「当たり前だ。恩師の戸畑先生もいらっしゃるし、学友や戦友も沢山いる。長谷川和夫もいれば、坂東妻三郎もいる。エノケンもいるし、グレンミラーもいる。マリーデイトリッヒや高峰秀子や李香蘭といった綺麗どころもいる。毎日、退屈せんからなかなかばあさんをこっちに呼べないのが悩みだ。あはは」

「それは楽しそうだね。僕もそっちに行こうかな」

「バカモン!」

 勿論、完全に冗談のつもりだったが、成人してから雷を落とされるのも、人からこれほどまでに激しく怒鳴られるのも初めてのことなので、軀がビクリと震え、後ずさりしてしまった。その沈黙の隙間をさらさらと降る細雨が埋めている。

「天佑。お前は生きることだけを考えなさい。二度と死ぬなどと思っていても口にしてはならん!」

 まるで無私無欲で国を守ってきた高潔な老軍人に間違った思想や心得違いを叱り飛ばされたような青く、新鮮な戦慄が走った。死を賭けて闘ってきた者だからこそ、「生きろ」と言う言葉が生き、その恐怖を乗り越えた者だけが言うことが許される「生きろ」という叱咤激励。

 祖父は、唇を震わせ、少し鼻息荒く、ゴールデンバットの蓬色の箱に油性マジックで「天佑」と書いて、こう続けた。

「天佑という名は儂が名付けた。天から多くの助けがあるようにとな。でも、お前は本当の意味を知るまい。己が死ぬほど努力した者だけを助けるのが天だということを。だが、お前は今回、死と対峙したことでわかったはずだ。『死ぬほど』というものが、どの程度のことを言うかということを」

「うん」

「『うん』じゃなくて『はい』だろう」

「はい」

「よし。怒鳴って悪かったな。さぁ、きゅっと空けなさい。三月の台北は雨ばかりで冷える日が続く。早く春にならんもんかね」

「おじいちゃんもどう?」

 そっと角瓶を差し出すと、祖父はタバコをもみ消し、受け取った小瓶をぐっと呷ると「やっぱり日本製はうまい。シナの酒などお話にならない」と上機嫌だ。わだかまりがないので喜怒哀楽にもメリハリがあり、いつまでも持ち越さない。自分にはない潔さに彼は尊敬の念を新たにするのだ。

「しっかりやれよ。もう少しの辛抱だからな。清明節にはちゃんとお墓に報告しに来なさい。それから早く嫁さんを貰いなさい。ばあさん、曾孫の顔を見たがっとるぞ。いい男が、縁がないわけじゃあるまい」

 不義理を重ねてきた彼には少し耳が痛かったが、助かることを前提に言ってくれているのがうれしかった。尤も、後者は「果たせそうな約束」とは言い難かったが、家の存続を願うなら当然のことだろうし、もし生きていてもきっと同じことを言うのだろう。負担と思うのも、煩わしく思うのもやめよう。

「角瓶。ちゃんと大きい奴持っていくよ。ゴールデンバットもカートンで」

 彼は、見返りというよりも、今日のように本当に喜んでもらえることを前提に清明節での再会を約束した。

 すると、祖父は、生死の懸かっている彼を勇気付ける為の少し、感情的で迫力のある祖父からいつもの穏やかで優しい祖父に戻った。まるで、沸点に達して熱湯が煮えたぎる薬缶が火を消せば急に黙ってしまうみたいに。戸惑うほどの落差は逆に彼を安心させる。嵐の後の静けさは悪い予感を全てかき消してしまうからだ。

「天佑。腹減らないか?」

「減った」

「下のそごうの地下の『鼎泰豐』にでも行くか?それとも酒のほうがいいか?」

「陽春麺がいい」

「全くお前は昔から安上がりな子だ」

 行列必至の人気高級店よりも日本で言うところのかけそばを所望すると、祖父は質素に育ち、清貧を是とする彼を好ましく思いながら声高らかに笑った。

 それから一本のこうもり傘に二人で入り、彼は祖父に色んな話をするようにせがみながら、まるで青春映画のラストシーンのように想い出の雨に煙る坂道を下って行った。

 底抜けに親切で、底抜けにお節介で、怒ると怖いどことなく昭和の日本の父親を想起させる日本人よりも日本人な台湾人の祖父はかくも日本を愛し、二十五歳まで日本人であったことを誇りに思っていて、そういう話をする時は、ほとんど日本人と変わらない。彼が日本について、日本人について教えられている格好になる。亦、その時間がこの上なく幸福である。

 夢の中の寶島での出来事。

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